六ノ十九 「ささやかな夢」
自室のソファに沈み込むように座って、音楽プレイヤーから『サモン・ザ・ヒーロー』を流した。
何度聞いても痺れるようなトランペットのソロ。気持ちが高揚してくるような曲調。
一番初めにコウキに教えてもらった曲だ。後で、万里が小さい頃に開催されたオリンピックのために作曲されたものだったと知った。
万里の中ではすっかりこの曲がお気に入りになっていて、頭の中でもすぐに思い出せるくらい、聴きこんでいた。
聴き終えて、もう一度頭から再生する。天から降り注ぐようなトランペットの華々しい音が、耳を震わせる。
他にも良い曲は一杯ある。それでも、これが一番万里の心が躍る曲だった。
聴いているうちに曲が好きになったというのもある。それだけではなく、コウキがこの曲を好きだと言っていたのも、影響したのだと思う。
いつか、この曲を吹きたいと言っていた。万里も、そうしたいと思うようになっていた。
最近、万里の中で、何となくコウキが気になりだしている。
いつも一緒にいた。部活動中、隣にいない時間のほうが少ないくらいだ。
ペア練習の相手だから、コウキはつきっきりでそばにいてくれる。それは分かっている。
分かっていても、コウキが見せる笑顔や、優しい教え方、ふとした時の胸が高まるような仕草が、いつのまにか万里の気持ちをおかしくさせるようになっていた。
この曲をコウキの隣で吹けたら、どんなに気持ちが良いだろう。その姿を想像すると、実現させるためにももっとトランペットが上手くなりたい、吹きたいという気持ちが強くなる。
そのまま何度か曲を聴きなおしているうちに、いつのまにかソファで寝入ってしまっていた。
起きて、支度をして学校へ向かった。土曜日で、一日練習だった。午前中はいつものように基礎合奏や曲練習があって、昼食になった。
「えっ、それってコウキ君のこと、好きなんじゃない?」
弁当を食べながら、コウキのことについて話していた。万里の話を聞いて、咲が言った。
「……そうなのかな」
咲とは、お互い引っ込み思案な性格が良いのか、一緒にいて落ち着くから仲良くしていた。
「だって、気になるんでしょ?」
「う、ん」
「目で追ってるんでしょ?」
「……うん」
美喜が、口を挟む。
「好きなんじゃん」
顔が熱くなる。
咲と美喜。万里は二人と昼食を食べることが多かった。咲はもう何でも話せるけれど、美喜はちょっと怖いところがあって、まだ慣れない。
三人で、美術室にいた。
人にコウキの話をするのは初めてだった。
「万里ちゃんと三木君、お似合いだと思う! いつも仲良いじゃん」
「で、でも、三木君は中村さんとか市川さんとも仲良いし……」
「万里は単に練習相手としてしか見て無さそうだよね」
また、美喜にずばりと言われて、泣きたくなった。コウキが万里に恋愛感情を持ってはいないだろうことくらい、自分でも分かっている。
それに、コウキは智美のことだけ呼び捨てで呼んでいるし、毎日一緒に帰っている。二人が特別な関係なのは、誰から見ても明らかだった。
「ま、まだ分からないよ。これからじゃん。もし三木君と中村さんが付き合ってるとしても、別れるかもしれないんだし!」
咲が、必死に慰めてくれる。
どうにか笑って、頷いた。
コウキとは練習の話ばかりで、智美と付き合っているのか、それとも幸と付き合っているのかなどは聞いたことがなかった。
聞ける気もしない。
誰かを好きになるなんてことは、ほとんど経験がない。小学校の頃にほんのちょっと初恋のようなものがあったくらいで、男の子とは関りがなく生きてきた。だから、どういう風にすれば良いのか、全く分からない。
「言っとくけど、私に頼っても無駄だからね。私も知らん」
美喜も恋愛経験なんてない、と言っていた。咲もだ。
美喜は吹奏楽一筋だからだろう。咲は男の子によく迫られていたから、嫌いらしい。母親がイギリス人で父親が日本人のハーフで、その整った顔立ちと、なんだか守ってあげたくなるような可愛らしさが、人気の理由なのかもしれない。
万里は、何もない。美喜のように楽器が上手くもないし、咲のように可愛くもない。夢中になれるものも、今まで何もない人間だった。魅力と言える部分が、ない。
コウキが万里のことを何とも思っていなくても、当たり前だ。
考えて、悲しくなってきた。弁当を仕舞って、水筒の蓋を開けて口に運ぶ。
「お、何の話してるの?」
声を聞いて驚き、飲みかけていた茶でむせてしまった。
美術室の扉のところから、コウキが顔を覗かせていた。隣には、コントラバスの同期の白井勇一がいる。
「わあ!」
「ちょっと!」
ハンカチで口元を抑えた。咳が何度も出る。
「おいおい、大丈夫?」
コウキが中に入ってきて、万里の背中をさすった。
急に触れられて、心臓が爆発しそうなほどに跳ねあがる。慌てて立ちあがり、思い切り手を振った。
「だ、大丈夫! 大丈夫だから!」
「ごめん、話しかけるタイミング悪かった?」
「はは、別に悪くないよね? 万里」
意地の悪い顔をして、美喜が言った。
顔が赤くなっているかもしれない、と万里は思った。
うつむいて手で隠して、頷いた。
「お、何だ、もしかして恋愛話か?」
興味津々といった顔を勇一がしている。勇一とは、まだほとんど話したことが無い。
「え、そうなの? 邪魔したね」
コウキが出ていこうとするのを、美喜が呼び止めた。
「ちょうどいいや、あんた達、誰かと付き合ってるの?」
「俺? いや、誰とも」
コウキが言った。それで、思わず顔を上げていた。
「い、いないんだ」
「うん」
嬉しくて顔がにやけそうになるのを、万里はこらえた。
「でも中村さんは? 仲良いじゃん。皆、中村さんとあんたが付き合ってると思ってたけど」
「あー、よく勘違いされる。智美とは友達だよ。一番大事な女友達」
三人で、顔を見合わせた。
「男子と女子なのに? ありえんくない?」
「さあ……俺達はあり得るみたいだけど」
「い、市川さんとは?」
ああ、二人ともありがとう。私が聞けないことをすんなりと聞いてくれて。あとで二人にジュースを奢ろう、と万里は強く思った。
「市川さん? なんで?」
「あ、仲良いから」
「市川さんは、まあ仲良いほうかな。でも、付き合ってない」
「ちなみに俺も誰とも付き合ってないぞ」
「勇一はモテそうなんだけどな」
「お、そう?」
勇一が嬉しそうに頬を緩ませる。
「うん。すぐ彼女出来るだろ、勇一なら」
「コウキ……!」
「うぇ~い」
コウキと勇一が、何やらリズミカルに手を叩いたり組んだりして抱き合った。
軽快なその動きに、咲と美喜が吹き出して笑っている。
「何それ」
「ハンドシェイク、知らん!?」
「知らん」
「教えてやるわ。コウキ」
「おっけ」
勇一がコウキと見本を見せてくれた。
互いに差し出した手のひらをぱんっと合わせ、今度は返すように手の甲を合わせる。それから握手して、がっしりと腕相撲の形のように組みなおし、互いの肩を空いたほうの手でポンポンと叩いた。
「挨拶だよ挨拶」
「面白いから皆もやろうよ」
コウキが、万里に手を差し出してきた。また、顔が熱くなった。
「ほら、こうやって」
手首をそっと取られ、先程コウキと勇一がやったように、ハンドシェイクをした。それよりも、手首を握られたことのほうで、万里の頭はどうにかなりそうだった。コウキに握られたところが、やけに熱く感じる。
勇一と美喜が、はしゃぎながらハンドシェイクをしている。
「その人とだけのオリジナルのハンドシェイクつくるのが面白いから、こんど作ろうぜ」
「気に入った。良いよ」
二人が仲良くしているところはあまり見たことがなかったのに、意気投合したのか、もう打ち解けている。
咲は、すこし後ろに下がったところで微笑んでいた。
それから少しだけ話をして、コウキと勇一は美術室を出て行った。
「ハンドシェイク、面白いわー」
「気に入ったの?」
「うん、良いね。咲もやればよかったのに」
「はは、私は良いよ……でも万里ちゃんも良かったね、ハンドシェイク? コウキ君とやれて。誰とも付き合ってないことも分かったし」
「う、うん……」
本当に、今日はもう何があっても良いと思えるくらい、幸せだった、と万里は思った。
今まで、コウキとは二人でいる時間が多かったのに、身体が触れることはほとんどなかった。ほんの少し手が触れるだけで、これほど気持ちが高まるのだ。
どうやら本当にコウキのことが好きになっていたんだと、万里はようやく自分で気がついた。




