六ノ十八 「ソロの吹き手」
自分ひとりが動き回って、部を回す。それはコウキの望むことではなかった。
晴子がいる、奏馬がいる、まこがいる。
四十二人がいる。
一人一人の意志や感情がぶつかり合い、混ざり合って、初めて生まれるもの。それによって到達する、まだ見ぬ高み。
コウキの目標は、そこだ。
コウキがやるべきことは、ほんの少し人と人の関係性のズレを修正する手伝いをしたり、部の未来が以前と同じ方向へ行かないようにそっと流れを動かしたり、部が良い方向へ変われるよう、その変化の速度が加速するような提案を出すことだ。
あとは全員が動き出す。
そこから、コウキも予測できない新しい道が生まれる。
六月に入って、部は大きく前進を始めた。
第四日曜日に、近所のデイホームでミニコンサートをすることになった。その曲の選定も済ませ、高齢者や職員が楽しめるような、少し古くも懐かしい曲を用意した。
曲の練習時間は、部活動前後の自主練習と、土日の合奏のみ。全員で、そう決めた。
コンクールに支障がでないよう、かつ、ミニコンだからとふざけた演奏を見せないよう、自主練習でどれだけ楽譜をさらってくるか。全員の意識が試される最初の機会となる。
曲の選定にあたっては、なるべく、汎用性の高い曲を選んだ。
要は、持ち曲に出来るような曲だ。
花田高吹奏楽部員なら、この曲はいつでも吹ける。かつ客に人気が高く、盛り上がるような曲。
そうした曲がいくつかあると、練習時間の節約になり、また、吹くほどに曲の精度が上がっていく。
部の今後を決める、最初にして重要なミニコンサートだと、コウキは考えていた。
それだけに、部活動前後の自主練では、積極的に万里、桃子、智美といった初心者組の曲のさらいを手伝った。
分からないところは、分かるまで一緒にフレーズごとに区切って練習。
昼練には初心者の八人全員を誘ったし、桃子と智美は、クラスでも一緒に楽譜を歌ったりして練習した。
それでも、初心者以外にも追い付いていない子もいる。コウキ一人では、身体が足りなかった。
そこで、ペア練習が活きた。
自分の教えているペア相手が遅れていると、教える側の部員は、何となく気になってくる。
それで、結局自主練でもペアで練習して、曲を一緒に仕上げていく。
その流れが出来つつあり、コウキは、なるべく時間を自分と万里のために使えていた。
今は、夕練が終わり、自主練習で万里と美術室にいた。
「あ~……出来ないよ……」
トランペットを口から離して、万里が嘆いた。背もたれにもたれて、ため息をついている。
「そんなことないって。あきらめるのは早いよ。今の橋本さんなら、吹けるようになる。一緒にもう一回吹こう」
楽譜に書かれたソロパート。メトロノームに合わせて、もう一度吹いた。
『川の流れのように』。国民的な名曲だ。序盤に、数小節の短いトランペットのソロがある。
普通なら、逸乃がソロを吹く。だが、それを万里に吹かせることをパートで決めた。
万里が客に演奏を届ける舞台に上がるのは、今回がはじめてだ。そこでいきなりソロを吹くことは、万里にとって負担が大きいかもしれない。
だが、万里が飛躍するためには、必要なことだと思った。万里の今の技術なら吹けるという確信もあった。
あとは万里の気持ちだ。
万里は、案の定全力で嫌がった。だから、パートの五人でとことん話しあった。
単に上手い演奏を聴かせるというだけなら、逸乃が吹けばいい。だが、このコンサートの目的はそれだけではない。客を楽しませることと、部のレベルアップを図ること。その両方が目的だ。
演奏を人に届ける。単に吹くというのではなく、伝える意志を持って吹く。その感覚は、何度も経験しなくては身につかないものだ。
そして、その感覚の有る無しが、演奏の質に大きく影響してくる。
他の四人には多少なりともあって、万里にはないものでもある。
だからこそ、全て聴衆の耳が集中するソロを万里が担当し、人に聴かせることの意味を知ってもらいたい。
話した結果、万里は不安を隠しきれていないながらも、受け入れた。
それで、コウキと二人でソロを練習していた。
「今の録音、聞いてみようか」
コウキが使っているレコーダーで録った演奏を、再生する。ごく短いワンフレーズ。
「下手……」
「上手いか下手かだけじゃないんだよ、橋本さん。失敗したって良い。橋本さんが届けたいと思う音を、お客さんに向かって吹く。それが正解なんだ」
「でも、皆に迷惑がかかるよ、失敗したら」
落ち込んで小さくなっている。コウキは、うつむいている万里の前にかがみ、見上げる形で目を合わせた。
「失敗しない人なんていない。失敗して責める人もいないし、もしいたら俺たちが守る。橋本さんは、ただ自分の演奏をすればいいんだ」
もう何度か、同じようなやり取りを繰り返していた。
だが、まだ本番まで時間はある。万里の精神面のケアに気を配りつつ、仕上げていけばいい。
万里なら出来る、とコウキは思っている。
とはいえ、当日になって万里が緊張に呑まれて吹けなくなる可能性はある。まこ達もそれを懸念した。
その時のために、緊急の代役として吹ける人間が必要だ。それで、コウキがその役を密かに引き受け、一緒に吹きながら自分の練習も兼ねていた。
もし逸乃達がソロを練習していたら、万里は勘づくかもしれない。いざとなれば代わりがいるという安心感を万里が抱いて、ソロに真剣に向き合えなくなる可能性がある。
それでは意味がない。
一緒に吹いていれば、万里に気づかせることなく、代役を用意できる。
万里を騙すようで心苦しかったが、他の三人や丘にも納得してもらうためだった。
ただ、自分では当日、万里の代わりに吹くつもりは一切なかった。仮に万里が吹けなかったとして、そこでコウキが代わりにソロを吹いたら、万里はどう思うか。
やっぱり自分が吹く必要はなかった、と思いはしないか。もしまたソロが来ても、もしもの時は誰かが何とかしてくれる、と思いはしないか。
そうなったら、進歩するどころか、万里の心は大きく後退する。
だから、これは皆を納得させるための表向きの話に過ぎなかった。この選択をした以上、万里がソロを成功させる事しか、道はない。
結局、万里以外の人も騙すような事になっているが、これは自分の胸の中だけにしまっておくつもりでいた。
「俺は、橋本さんの音好きだよ。一生懸命なのが伝わってきて。それに、勝手な考えだけど、橋本さんの音は、何かこう、吹きたいっていう意志みたいなのも感じる」
万里が、褒められて恥ずかしいのか、顔を赤くしている。
「もしかして、理想の奏者見つけた?」
「あ、うん……私も、三木君と同じ、ティム・モリソンさんが一番良いと思った。あの人の吹いてる曲ばっかり聴いてる」
「マジか、嬉しいな。じゃあ、一緒だ」
笑いかけると、万里は一瞬目を合わせて、すぐに逸らし、手で顔を覆ってしまった。
「何? 何で目逸らすの?」
「あ、う、何でもない……」
「気になるなあ」
「ほんとに何も無いから……!」
何となく、最近の万里は感情表現が豊かになってきたようにコウキは感じていた。
もう入部してから二ヶ月近く経つ。長い時間、万里と一緒に練習してきた。そのおかげで打ち解けてくれたのかもしれない。
最初の頃は感情の起伏が少ない静かな子だと思っていたが、今はコウキと話す時、言葉数も増えていた。
まだ、思っていることを素直に話してもらえない時もある。それでも、確実に万里とは信頼関係が芽生えだしている。
同期のトランペットが前の時間軸とは違う子になって、色々と思うところはあった。
だが、万里はトランペットに夢中になってくれている。練習にもついてきている。
今は、万里で良かったと思う。
二年後には、二人でパートを引っ張ることになる。万里とは、このまま良い関係でいたい、とコウキは思った。




