六ノ十六 「調和」
「んで、喧嘩のきっかけは何だったの?」
校門を出て、歩いているところだった。
コウキの質問に、つんと横を向いている美喜に変わって、咲が答えた。
「あのね、前田さんが、ホルンになってからずっと私達のこと避けてるの」
「……ああ」
「さっきも、私と目が合ったんだけど逸らされちゃって。そのことを美喜と話してたら、中村さんが来て、ちょっと言い合いになっちゃって」
「なんで桃子さんが二人のこと避けるんだろ?」
「知らないよ、向こうが勝手に避けてるだけだしっ」
美喜が、イライラとした口調で言った。
「でもさ、何かしら理由はあるよな」
「……うん」
咲も、それは思っていた。
出来れば、なぜ避けられるのか知りたかった。ただ、咲から話しかける勇気はなかった。
「二人は、桃子さんのこと嫌いなの?」
「え、私は嫌いじゃ、ないよ」
「私だって別に好きとか嫌いとかじゃないし。向こうがああいう態度だからこっちだって無視するだけだし」
コンビニに着いた。店内の明かりが眩しい。
中に入って、レジ横のチキンを一つ購入した。コウキもチキンを買って、美喜はフランクフルトを買ったようだ。
バス停に移動して、ベンチに座る。
「実はさー、俺このチキン食べるの初めてなんだよね」
「っはあ!? あんたがチキン食べたいって言ったのに?」
「ははは、うん」
「……適当言ったな?」
「あー? いやいや、食べたかったのは事実だよ」
言って、コウキがチキンを袋から取り出してかじった。大きくチキンが欠ける。それを見て咲は、男の子は一口が大きいな、とぼんやりと思った。
「美味いね」
「食べた事ないし」
「!? マジ? いる?」
「い、要らない!!」
チキンを差し出してきたコウキの手を、美喜が思い切り押し戻した。
「美味いのに。ねえ?」
聞かれて、咲も頷いた。咲は、このチキンは結構好きだった。いつも美喜と帰っていてコンビニに寄ることは無かったから、高校生になってから食べるのは初めてだ。
食べるつもりはなかったけれど、食べたら美味しい。ただ、脂で口元が汚れないよう気を付けながら食べるせいで、中々減らない。
「んで、話戻すけどさ、智美とはなんで言い合いになったの?」
コウキの言葉で、ぴたりと会話が止まった。
言ったほうがいいのか、咲は迷った。
「……美喜さんと智美って、仲悪い?」
聞かれて、美喜が食べかけのフランクフルトをくるくると回しだした。
「ほとんど喋ったことないし。今日はあっちが偉そうなこと言ってきたから喧嘩になっただけ」
「偉そう?」
「初心者なのに、余計な口出ししてきたの」
「初心者に何か言われるの、嫌なの?」
「あったりまえじゃん。なんでろくに出来もしないへたくそに何か言われなきゃいけないの? うざいだけだし」
「そっかぁ。じゃあ俺にこうやって言われるのも嫌だった?」
「別に……あんたは下手じゃないから良いけど」
「はは……。そういえば、美喜さんって中学の時全国行ったんだよね」
「うん」
「結構ゴリゴリやる部活だった?」
「そりゃね。それこそ初心者が何か言ってる暇なんてない部だよ。そんな暇があるなら一秒でも練習しないと、レギュラーに絶対なれなかったし」
美喜は、そこで二年生の頃からずっとレギュラーだったという。実際、上手い。それだけ、自信もあるのだろう。
咲は、ほとんど二人の話を聞いているだけだった。
「そういう環境だったからトロンボーンめっちゃ上手いのかぁ、羨ましいなあ」
褒められて、美喜が嬉しそうに、少しだけ照れた表情を見せた。
「でも、空気は最悪だったけどね。いっつも蹴落とし合いで、金管と木管の仲も溝があるってレベルじゃない悪さだったし」
「そういうの吹奏楽部でよくあるって聞くけど、俺体験ないわ」
「ぬるい部だったんでしょ」
「ははっ。顧問の方針も、あるかもなー。厳しい顧問だった?」
「……かな。むしろ、そういうのでお互いに負けないように上手くなる努力をしろ、みたいなこと言う人だった」
「確か海原中だったよね? 迫力あるサウンドの学校だって、バンドマガジンにも特集組まれてたの見た事あるよ。お互いにぶつけ合う感じだから、そういうサウンドになるんかね」
「んー、どうなんだろ。吹いてるこっちからしたらそんなの考える暇なかったし」
「そういう環境だと、確かに初心者が何か言う暇なんて、無いかもね」
「そう。花田はぬるすぎ。もっとガツガツやんないと、上になんて絶対いけないって。フレッシュコンの順位も最悪」
フレッシュコンクールは五位だった。県大会へ行ける代表枠は四校。五位という順位は、本番なら地区大会で終わってしまうということだ。
今のままで大丈夫なのかという心配は、咲もしている。ただ、自分が足手まといになっているせいもあって、そんなことを考えている暇はないことも分かってはいる。部の心配をする前に、自分が上手くならなくてはならない。
それでも、このままで地区大会を抜けられるのか、という不安はどうしても抱いてしまう。フレッシュコンクールで花田高より上だった四校も、地区大会には出てくるのだ。
中学ではコンクールの成績に固執していなかった。でも、ここでは違う。せっかく去年は東海大会まで進んだ学校に来たのだから、どうせ出るなら良い評価を得たい。そのために出るのだから。
「俺はさ、皆の演奏が一つになるっていう経験をしたことが、昔あるんだよ」
唐突に話が変わって、咲も美喜も首を傾げた。
「それがさ、すごい気持ちよかったんだよね。いつもと全然音が違って。あ、今皆同じこと思ってるかも、って何となく思った。実際、その時の演奏は最高だった。結果は伴わなかったけど、あれ以上の演奏はなかった。俺はまたあれを体感したいんだよね。二人はそういう経験ある?」
咲は横に首を振った。
そういうのは、分からない。体験したこともない。中学校では吹くのに必死だったし、部のレベルもそれほど高いところではなかった。
「私もない、な」
「一体感ってさ、それこそ臭いと思うかもしれないけど、皆の気持ちが一つにならないと生まれないんじゃないかな。心を一つに、っていうかさ。それって、いがみ合ってると絶対生まれないと思う。だって、嫌いな奴と気持ちを一つになんてできないだろ?」
咲も美喜も頷いた。
「お互いにぶつかりあって高め合うのも、アリだと思う。でも、うちの部はきっとそういう部じゃない。美喜さんからしたら、物足りないかもしれないけど」
美喜は、黙っている。
「うちの部訓の調和ってさ、二人はどういう意味だと思ってる?」
そういえば、部訓があったのだ、と咲は思った。
今まで、すっかり忘れていた。普通に考えたら、音を調和させるとか、ハーモニーを意識するとか、そういう意味ではないだろうか。
「……ハーモニーのことじゃないの。音を調和させろ、っていう」
美喜も、同じことを思ったようだった。
「うん、そうだと思う。でも、俺は他にも意味があると思うんだ。そして、むしろそっちのほうが重要なんじゃないかって」
「他に?」
美喜と、顔を見合わせる。調和と聞いて、他に思い浮かぶことはない。
「丘先生が部訓の紹介をした時に、音楽だけでなく人としての生き方も学んで行こうという意味が込められてる、って言ってたの覚えてる?」
「そういえば、言ってた気がする」
「うん」
「音楽は人が奏でるものだから、音の調和やハーモニーの前に、まず人と人が理解しあって、あるいは協調しあって、一つに調和していくことが大切なんじゃないか? 良い人間関係があるのが前提で、そこから音の調和、ハーモニーも生まれる」
何となく、分かる気がした。
「調和っていうと曖昧で分かりにくいかもしれないけどさ、要は互いに歩み寄って、仲間として同じ方向を向くってことじゃないかな。皆、思考も性格も違って当たり前。違う人間同士が集まって一つのサウンドを作るから、そのバンド独特の音になる。その独特のサウンドを作るためには、思ったことを話し合って、時にはぶつかって、段々相手のことを知って一つになっていくことなんじゃないかなって」
不思議と、コウキの話に吸い込まれるように聞き入っていた。美喜も、口を挟まず耳を傾けている。
「全く違う人間が沢山集まって演奏する。だから楽しいじゃんね。その違いをただぶつけ合うんじゃなくて、歩み寄っていく。混ぜ合わせていく。それが調和だと思うし、その先に本当の音楽がある気がする。だからさ、俺からも桃子さんや智美の話を聞いてみるけど、美喜さんも、二人と向き合って話してみてよ。話してみたら、解決することもあるかも」
道の向こうから、バスがやってきた。ヘッドライトがバス停を照らし、三人の前で停車する。空気が抜ける音を立て、扉が開いていく。
「俺の勝手な考えだから、二人の気持ちとは違うと思う。ただ、こんなこと考えてるやつもいるんだ、って思ってくれると良いかな。じゃ、また明日」
「……またね」
手を振って、バスに乗り込んだ。美喜は、何も言わなかった。
「発車します」
乗務員の声で、扉が閉まった。席について、窓の外を見る。
ゆっくりとバスが動き出し、手を振るコウキの姿が小さくなっていった。
調和の意味。部訓の意味。丘はそれを考えろと言っていた。けれど、練習に精いっぱいで忘れていた。
コウキに言われるまで、部訓の存在すら頭からすっぽりと抜けていた。
窓の外をぼんやりと眺める。
街灯が、前方から現れては後方へ消えていく。田舎町だけあって、バス通りでもこの時間に歩いている人はほとんどいない。
コウキの言葉を、もう一度思い返した。
互いを思いやる。歩み寄る。
咲は、桃子に自分から歩み寄ろうとしてこなかった。気まずさを感じて、避けていた。
それが、今の状況を生みだしてしまった原因となっている。
前に向きなおって、呟いた。
「……前田さんと、話してみようかな」
美喜は反対側の窓に顔を向けたまま、答えなかった。




