六ノ十五 「小さな亀裂」
ホルンで真っすぐに音をだすのは難しい。
発音の時に、音が膨らんだり破裂したりしないように出す。伸ばしている時に、音が揺れたり震えないように支える。音を抜く時に、ぶつ切れになったり音程が下がったりしないよう、処理を丁寧に行う。
言葉にすれば簡単でも、実際に良い音にするためには、様々に気を付けるところがある。
桃子は、ペア練習で組むことになった奏馬から、ロングトーンの練習で手を抜くな、と何度も言われていた。
ただ音を伸ばして吹いているだけでは、上達しない。ロングトーン一つとっても、意識するところは山ほどあり、それをクリアしていくためには、どれだけ練習しても足りない。だから、常に集中して吹くこと。
ホルンの音色は、金管楽器の中でも、特に人の耳にとって心地良い。ロングトーン一つで感動させることもできる。それを手を抜けば、いつまで経っても人を感動させられる音にはならない。人を、感動させる奏者を目指せ。
奏馬の言葉は、桃子の中で大事なものになっていた。
トロンボーンを吹いていた頃は、そんな風に考えたことはなかった。
ただ楽しくて、与えられた曲を練習し、発表した。それだけで満足していた。
誰かを感動させるなどということを、考えたことはなかった。
桃子の中に、楽器を吹くという行為は、自分の為だけにあるのではないという考えが生まれていた。
それ以来、ホルンに向き合う気持ちが変わったように思う。
「もう一度最初から。気抜かないで」
「はい」
隣に座る奏馬が言った。
二人で、基礎練習をしていた。
ここのところ、奏馬はつきっきりで桃子を見てくれている。
個人練習の時間を削ってまで、三十分も四十分も一緒に吹いてくれるのだ。
音を出す。
「うん、今の感じ。俺の音をよく聞いて合わせて。イメージして」
もう一度、最初から。繰り返し、合わせる。
奏馬の音は、綺麗だった。
ロングトーン一つで感動させる。その次元まで達しているのではないか。
一度、そう言ったことがある。けれど、奏馬は首を横に振った。
「仮にそうだとしても、そこで満足したら、それはもう人を感動させる音じゃなくなる。満足したら終わりなんだ」
奏馬の意識の高さ、音楽への姿勢、リーダーとしての振る舞い。
桃子の中で、奏馬という人間が、憧れになっていた。奏馬の音は、理想の音として、はっきりと頭に刻みこまれた。
「よし、ここまでにしようか。もう帰る?」
「もうちょっとやります」
「じゃあ、リップスラーもガッツリやって」
「はい、ありがとうございました」
桃子の肩に手を置いて、奏馬は音楽準備室から出て行った。狭い部屋で、一人になった。
夕練の後は、いつも奏馬と音楽室の隣の、この部屋で練習していた。他の部屋だと、自主練習している人達の音が直接聞こえて集中しづらいからだ。
桃子は、いつのまにか、部活を辞めようという気持ちは失せていた。それどころか、ホルンを吹くことが楽しくなっていた。
奏馬の横で吹くことも、桃子の中では至福の時間だった。
部活動も、中学生の頃より、ずっとのめりこんでいる。
自分が、こんな風に変わるとは思わなかった。
廊下から、奏馬の音が聞こえてくる。
課題曲のフレーズ。歯切れの良い、軽快な音。何故、あんな風に鮮やかに音が出せるのだろう。
桃子も、楽器を構えた。
早く、奏馬の音に近づきたい。今は、それが一番心の中を占めていた。
自主練習を終えて音楽準備室から出ると、ばったりと橘咲と出くわした。音楽室から出てきたところだったらしい。
気まずさを感じて、互いに目を逸らしてしまう。
同期のトロンボーンである橘咲と岸田美喜とは、楽器体験の時以降、話していなかった。
沈黙が流れ、立ち尽くす。
そのうち、桃子から歩きだし、逃げるように部室へと入った。
「お、お疲れ。練習終わり?」
コウキがいた。隣に、二年の学生指導者の正孝もいる。
「あ、うん。お疲れ」
「ん、何かあったの?」
コウキが、顔を覗き込んでくる。桃子は、慌てて首を振った。
「何も無いよ」
「ふーん……? そっか」
それで、コウキは視線を外して、正孝との会話に戻っていった。
桃子が、咲と美喜を避けるようになったのは、トロンボーンに選ばれたのが、歓迎コンサートの前から真っ先に練習に参加していた桃子ではなく、後から来た咲と美喜だったからだ。それが、悔しかった。
八つ当たりと自覚していても、あの時は気持ちが抑えきれなかった。
今は、コウキがずっと愚痴を聞いてくれたし、奏馬が練習を見てくれたことで、ホルンの良さを知れた。おかげで、そんな気持ちは消えている。
けれど、一度無視をしてしまったせいで、今更二人に対しての接し方を変えることが出来なくなっていた。
向こうも、何も言ってこない。咲は桃子同様、気まずそうにしているだけで、美喜は目が合うと睨んでくる。
このままでは良くないことは分かっていても、どう接すれば良いのか、桃子には分からなかった。
総合学習室の窓際の、いつも鞄を置いている席。横に、美喜が座っている。
「お疲れ」
「んー」
水筒のお茶を飲みながら、美喜が片手を軽く上げた。
その隣に腰を下ろす。楽譜と譜面台をたたみ、トロンボーンをクロスで優しく拭いてから楽器ケースへ仕舞っていく。
その間、桃子とのやり取りを思い出して、ついため息が漏れてしまった。
「何、ため息ついて。暗いなー」
怪訝そうな顔をして、美喜が言った。
「あ、なんでも、ない」
「なわけないでしょ。はっきり言いなよ」
「う……前田さんと、目が合ったけど、逸らされたから」
長い沈黙のあと、美喜が鼻を鳴らした。
「無視しなよあんなの。向こうが勝手にしてることじゃん。うちら関係ないし。こっちが気を使う必要ないでしょ」
指先で、机をとんとんと叩いている。不機嫌になると、美喜がよくやる。言わなければよかった、と咲は思った。
確かに、桃子が咲と美喜のことを避けている。こちらが気にする必要はないのかもしれない。それでも、咲は何となく気がかりなのだ。
楽器決めで、三人ともトロンボーンになると思っていた。
桃子だけが、ホルンに転向した。桃子の気持ちを考えると、あんな態度になるのも理解できる。だから、放っておけない。
「向こうが無視してくんだから無視すれば良いじゃん」
「でも……」
「何? 気使ってる暇あるの? あんた練習遅れてるじゃん。そんな時間があるなら、練習に集中しなよ」
言い返せなくて、黙ってしまう。
確かに、咲は三人の中で一番トロンボーンが下手だった。今でも、自分がトロンボーンに残されたのが不思議だった。
桃子ではなく、自分が他の楽器に移らされても不思議ではなかった。
美喜の言う通り、他人を気にかけている場合ではない。トロンボーンパートで足を引っ張っているのは、自分なのだ。
分かっていても、どうしても桃子のことが頭から離れない。
「またそうやって……うじうじした顔しないでくれる? イライラするから」
美喜は、いつも口が悪くて、何かある度に咲は文句を言われていた。
でも、どれもその通りだと思えてしまって、言い返せない。
「ちょっと、岸田さん。そういうこと言うのやめなよ」
顔を上げると、呆れた表情をした智美がそばに立っていた。
話しかけられて、美喜がむっとした顔になる。指の動きが、速くなっていく。
「はあ? 関係ないじゃん。偉そうに言わないで」
「別に偉そうにしてないけど。言い方考えたらって言っただけだよ」
美喜が、舌打ちをした。
「初心者が口出さないで。鬱陶しいから」
心臓が早くなった。普段から美喜が初心者を見下していることに、咲は気付いていた。
そんなことを言っては智美と喧嘩になってしまいかねないのに、美喜は平然と口に出す。
他人の喧嘩や空気が悪くなるところを見るのが、咲は大の苦手だった。恐る恐る智美のほうを見ると、鼻で笑って美喜を見下ろしていた。
「誰だって最初は初心者だよ。岸田さんにもこういう時期があったと思うけど? そういう態度取ってると、そのうち私たちに追い抜かれるよ~? 自主練も少ないみたいだし」
煽るような智美の言葉で、美喜の顔が引きつった。みるみるうちに表情がどす黒く染まっていく。美喜が両手を机に叩きつけて立ち上がり、その拍子に大きな音が響いた。
「うざい! うちらの話に入ってくんな! 後から入って来たくせに偉そうに!」
総合学習室内の空気が凍った。音が、消える。
視線が刺さってくる。
嫌だ。
この空気が、咲は大嫌いだった。しかも、今は中心に自分がいる。
いたたまれなくて、縮こまるようにして机に目を落とした。
早く、終わって欲しい。
「ちょいちょいちょい。どしたん?」
音を立てて、コウキが駆けつけてきた。
「どした、智美」
「さあ。岸田さんが勝手に怒ってるだけ」
「なっ……!」
「ちょちょ、煽るなって、智美」
「煽ってないよ」
「煽ってんじゃん!」
美喜が怒鳴った。
ああ、もう。やめて欲しい。私は美喜に何言われたって良い。智美も早くどこかに行って欲しい。美喜と、これ以上ぶつからないで欲しい。
心の中で、叫ぶ。
「おっけー、おっけー。分かった。よし、とりあえず智美はこっち」
コウキが背中を押して、智美を総合学習室から退出させた。
「なんなの……むかつく!」
美喜が小声で言い、乱暴な仕草で椅子に座り込む。鼻息荒く、指を机に叩きつけている。
すぐにコウキが戻ってきて、咲と美喜を交互に見てきた。
「どうしたのさ」
「どうもしない。中村さんが私達の会話に入って余計な事言っただけだし」
「そうなの、咲さん?」
聞かれて、困った。美喜とコウキの顔を窺う。
「う、ん」
違うと言ったら、きっと後で美喜に怒られる。頷くしかなかった。
「……よし、詳しい話は帰りながらしようぜ。そうだ、腹減ったしコンビニでチキン買おうよ」
「はあ? なんで三木と帰らなきゃいけないの?」
「えっ? 俺が帰りたいから?」
「私は帰りたくないけど?」
「いやお腹減ったじゃん。チキン食べようよ」
「食べんし」
「咲さんは食べるよね?」
コウキの目が、うんと言え、と無言の圧力をかけてきている。気おされて、頷いてしまう。
「ほら、二対一だから決定。行こうぜ。バス来るまでチキン食べよーよ」
美喜が舌打ちした。
「チキンチキンうざっ。あんたも、お腹減ってんの?」
聞かれて、咲は戸惑いながら小さく頷いた。別に今チキンは食べたくないけれど、そうしたほうが良いと思った。
ため息をついて、美喜が立ち上がる。
「さっさと行くよ」
「あ、うん。楽器片付けてくるっ」
「俺も」
咲一人では、美喜の機嫌を直すことは出来ない。
強気の美喜に何か言えば、キツイ言葉を返される。だから、いつも当たり障りない会話で済ませてしまう。
物おじしない智美や、同じように気の強い星子ならはっきりと言えるのかもしれないけれど、二人はあまり美喜とは親しくない。
毎日のように美喜に怒られて、咲も少し疲れていた。
気が回るコウキなら、美喜のこともどうにかしてくれるのではないか。そんな淡い期待を、咲は抱いた。




