六ノ十四 「苦悩、結束」
自分は何なのか。
パートリーダーとして、失格ではないか。
何度も、その考えがまこの頭をよぎった。
新たに取り入れられることになったペア練習で、まこは逸乃と組むことになった。教える側ではない。逸乃に、教えられる側だった。
まこが教えることになるだろうと思っていた初心者の万里は、コウキと組んだ。
三年生で、パートリーダーでありながら、二年生の逸乃に教わる。初心者に教えてあげられない。
自分の価値を否定された気がした。
上下を気にせず教えを受ける。言葉では理解できても、納得は出来なかった。
パートリーダーとして努力してきた自信があった。それが、打ち砕かれたようなものだった。
まこの雰囲気を察してか、逸乃はペア練習ではあまり物を言わない。ただ、逸乃が普段やっている基礎練習をまこにも教え、一緒に吹くだけだ。
まこがやっているものとは大分違う。高音域の練習と、リップスラーという息や唇、舌使いだけで音を上下させる練習の比率が多かった。
話すのが気まずいのか、ひたすらその練習の繰り返しで、ペア練習が始まってから、まともに逸乃と話していない。
何となく、パートの他の三人とも話しづらく、一人でいる時間が増えた。
今日も夕練の後、まこはそそくさと音楽室を抜けて、美術室にいた。一人のほうが、気が楽だった。
メトロノームを鳴らしながら、逸乃に教わった基礎に取りかかる。悔しくても、逸乃から習った練習は吹いていて効果を感じている。自分で練習していた頃は、合奏で使う教本のリップスラーなどしか練習していなかった。
細かく音が上下する。それを、唇の形を急激に変えたりせず、流れを意識して音を変化できるようにする。最低音から高音域まで、なめらかに上下していく。
なぜ、自分はこんなに下手なのか。
練習をさぼったことはない。出来る限りのことをしてきたつもりだった。それでも、逸乃には遠く及ばない。しかも、教えられる側になってしまった。
自分の練習が、そんなに良くなかったのか。
トランペットを握る手に、力が入る。
「まこ先輩」
呼びかけられて、メトロノームを止めて振り返った。コウキと万里がいた。
音を聞かれていたのだろうか。
目を合わせていられず、うつむいた。手の中のトランペットに、ぐにゃりと歪んだ自分の姿が映っている。
「何?」
「先輩と、話したいです」
コウキが言った。
「最近、先輩が苦しそうにしてるなって、二人で話してて」
言い当てられた気がして、喉を詰まらせた。震える声で、答える。
「そんなこと……ないよ」
「でも、まこ先輩、最近私に教えてくれません」
「……万里ちゃんは、コウキ君が見てくれてるでしょ?」
「まこ先輩にも、教わりたいです」
「そんなの」
必要ない。まこが教えなくても、万里は日に日に上達している。コウキの教え方が良いのだ。音も、どんどん良くなっている。何を教えたらそうなるのだというくらい、万里の成長が早い。
まこに聞く必要など、ないはずだ。
「私に教わっても、上手くなれないよ」
「上手くなるとかならないとかじゃないですっ。まこ先輩と、練習がしたいです」
普段、小声で喋る万里が、声を張り上げた。それでも、小さい。大きな声を出すのが、苦手なのか。
そんなどうでも良いことが、頭に浮かんだ。
「先輩が元気なくなってから、トランペットパートはばらばらです」
コウキが、そばに来て言った。万里はその場に留まったまま、じっとまこを見つめている。
「俺達にとって、パートリーダーはまこ先輩しかいないんです。先輩に、皆をまとめて欲しいです」
「私は……教えられる側の人間だよ。皆を引っ張る人間じゃないって、言われたようなものじゃん」
逸乃が、パートリーダーをやればいい。上手い人間が上に立つ。当然の理屈だ。
「俺は、上手いからリーダーになるとか、下手だから従う側だとか、そんなの違うと思います。まこ先輩は、間違いなくパートリーダーに相応しい。先輩がいつもパートのために動き回ってたの、見てました」
「わ、私も」
万里もそばに来た。
「リーダーの仕事で忙しいのに、時間が空いたら絶対私のこと見てくれて、嬉しかったです。最初は先輩の言ってること全然分かんなかったけど、吹けるようになってからは、少しずつ理解できるようになってきました」
「先輩が自主練習の時間削ってたの、俺も橋本さんも知ってます」
「それは」
「先輩は、誰が何と言おうと俺達のリーダーです。先輩だから、ついていける。修先輩じゃ、無理です」
「おい、酷いなコウキ君」
いつからいたのか、入り口に、修が立っていた。後ろに、気まずそうな表情をした逸乃もいる。
思わず、目を逸らした。
「まあ確かに、俺はパートリーダーとか絶対嫌だけど」
二人が、中に入って来る。
「まこは、何か勘違いしてると思うんだよな」
そばの机に腰かけて、修が言った。
「……私が、何を?」
「なんでまこと逸乃ちゃんが組まされたのかってさ。まこがもっと上手くなったら、すごいパートリーダーになるからじゃないの。そのためには、まこが教える側だと駄目だから、逸乃ちゃんが教える側になったんじゃない?」
「どういう……」
逸乃が、前に出てくる。ぎゅっと唇を噛んで、苦しそうな表情をしている。その表情が、まこの胸を締め付けた。
「ペア練習が発表された日に、丘先生に言われました。まこ先輩には言うなって言われたけど、言います。まこ先輩は高音が苦手で、その苦手意識が音の全部に出てる。そこを克服したら、もっと上手くなる。だから、私が教えて吹けるようにしてくれ、って。そしたら、まこ先輩は一段階上がるって」
丘がそんなことを。
「まこ先輩が自分でそれに気づくまで、言うなって言われました。でも、我慢できません。まこ先輩と気まずいままなのが、嫌です」
逸乃が、泣きそうな顔をしている。瞳が潤んで、今にも粒がこぼれだしそうだ。
逸乃の頭を修が撫でようとして、勢い良くはたかれた。
「気安く撫でないでくださいっ」
「せっかく慰めようとしたのに!? 何なの君達!? 俺のことなんだと思ってるの!」
「駄目な先輩」
「だらしない先輩」
「変な人……」
「全否定かよっ」
笑うつもりなんてなかったのに、四人のやり取りを見て思わず吹き出してしまった。慌てて真面目な顔に戻してみたけれど、今更だ。
そんなこと、考えもしなかった。なぜ教えられる側なのだと憤り、ひとりで拗ねて、落ち込んで、腐っていた。丘の思惑にも気づかず、自分を否定された気になって、へそを曲げて。
まるで、子どもだった。
一番しっかりと立っていなくてはいけない人間が、一番弱くて、皆に心配をかけていた。
ペア練習の立場など関係なく、皆はまこを認めてくれていたのに。
「ごめん、皆」
立ち上がって、頭を下げた。
皆、まこを気にかけてくれていたのだ。
「一人で拗ねて、勝手に気まずくなってた」
頭を上げ、四人の顔を見回した。皆が、まこを見ている。
まこも、自分の気持ちを言おうと思った。
「ずっと、上手くない自分が嫌だった。練習、もっとしたかった。そうしないと、私より上手い逸乃ちゃんにも、指示なんて出来ないと思って。でも、私はパートリーダーだから、自分の事ばかりじゃ、駄目だから……パートのために動くのが私の仕事だと思ってて…そんな時に、教える側じゃなくて教えられる側になって、それで自分を否定された気がして、頭ぐちゃぐちゃになってた」
まこが間違っていた。気にしていたのは、自分だけだった。
「逸乃ちゃん、私、上手くなりたい。今まで、こどもみたいな態度取ってごめん。もっと、沢山教えてくれる?」
「っ……はい!」
「万里ちゃん。ごめん、しばらくは見てあげられない。上手くなるまで、待って。自信を持って教えられるようになったら、また一緒にやろ」
静かに、万里が頷いた。
「それまで、コウキ君、万里ちゃんお願いして良い?」
「はい」
「パート練習は、ちゃんと私が皆を見る。でも、それ以外は、しばらく自分が上手くなることに集中させてください」
四人が、頷いた。
「それと、気遣って話に来てくれて、皆、本当にありがとう」
「……仲間じゃないですか」
コウキが笑って言った。三人も笑っている。
仲間。真っすぐにそんなことを言われて、くすぐったいような気持ちになった。
誰かに面と向かって言われたのは、初めてだった。
修が手を叩いて、ぽん、と気の抜けた音を立てた。
「よし、解決かな。良かった良かった。あとさ、まこに言わせてもらうと、俺も後輩に教えられる側になっちゃったんだからな。しかもホルンの武夫だよ。そもそもパート違うやんけっていう」
「修先輩は仕方ないですよ。先輩が教える側だったらヤバイです」
「ちょいちょい。コウキ君さぁ、俺にだけキツくない!?」
「事実ですから」
「同意!」
「逸乃ちゃんまで……」
修が、がくっとうなだれた。それを見て、万里がくすくすと笑っている。また込み上げてきて、まこも笑い声をあげていた。
さっきまでの暗い気持ちは、嘘のように無くなっていた。
見放されたわけじゃない。期待してもらえている。頼ってもらえている。
嬉しくて、まこの胸の中が、あたたかな気持ちで満たされた。
自分でも、単純だと思う。それでも良い。
肩を落とす修をなぐさめるように、コウキと万里が背中を押しながら出て行った。逸乃だけが、残った。
「まこ先輩。私にとってもパートリーダーは、まこ先輩だけですよ。先輩に教わること、まだまだいっぱいあります」
「……うん、ありがとう」
コウキと万里が入ってくるまで、こんな風に、逸乃や修と互いの気持ちを話し合ったことは無かった。
皆と話せて、良かった。少しだけ、気持ちが近づいた気がする、とまこは思った。
逸乃の笑顔を見て、また、まこも笑っていた。




