六ノ十三 「まるで鬼教官」
総合学習室の隣の英語室は、英語の授業で全く使われないのに、何故その名称なのか、誰も知らない。それどころか、他の目的でも使われることすらない空き教室で、平日の授業後は、吹部の練習室の一つとして占領されている。
そこに、木管セクションの十五人が集まっていた。
机は全て教室の前に寄せてある。空いた場所に、緩やかな弧を描くような配置で椅子を置いて座り、その前には、向き合う形で椅子が一脚置かれている。
もうすぐ、木管セクションの指導をしてくれる蜂谷正が来る。今、部長の晴子と木管セクションリーダーの未来が、来客用の玄関まで迎えに出ていた。
相当厳しい指導なのだという。泣く子は当たり前、辛くて逃げだす子もいるらしい。
バンドマガジンという、吹奏楽関係の有名な雑誌でも度々インタビューが組まれているそうで、この地区で吹奏楽に携わっている者なら、知らない人間はいないというくらい有名な人だという話だった。
その噂が広まっていて、これからレッスンを受ける全員が、緊張している。
木管セクションのうち、オーボエとフルートの四人とファゴットの同期の子はいない。その五人は、すでに自分の楽器のプロのレッスンを受けているらしく、不参加だった。
夕は、自分の心臓がやけに早いのを感じていた。
きっと蜂谷は、初心者にも容赦がないのだろう。自分はどれだけ怒られるのだろうと考えると、怖くてすでに逃げ出したくなっている。クラリネット奏者だから、余計にクラリネットの初心者は目を付けられるかもしれない。
夕は、同じクラスになった幸に誘われて、吹奏楽部に入部した。特に入る部を決めていなかったから、どこでも良かった。入るからには、それなりにやるつもりではいた。
初心者でクラリネットに配属されて、それからずっと、クラリネットが弱い、クラリネットがやばい、と言われ続けていた。
一年生が三人とも初心者だから当たり前じゃないか、と言い返したくなったけれど、ぐっと堪えてきた。
同期の綾と和とは、上手くなって見返してやろう、と約束していた。だから、丘が用意してくれたこの機会も、逃すつもりは無かった。
ただ、その決意とは裏腹に、不安が心に渦巻いている。理不尽に怒られたくて、吹奏楽部に入ったわけではない。
廊下から、大きな笑い声が聞こえてきた。太くて低い、よく通る笑い声。蜂谷だろうか。
学生指導者サブの正孝が、立って、と言った。全員で起立して、入り口に目を向ける。
声と足音が近づいてきて、開いている扉から、ぬっ、と男が現れた。恰幅の良い、整えられたヒゲが印象的な人だ。
「おはようございます」
野太く、びりっと来るような迫力のある声。気おされて、全員小さな返事になってしまった。
「声が小さい!」
雷のような声で言われて、反射的にもう一度挨拶をしていた。
「よろしい。挨拶は元気よく!」
「では蜂谷先生、よろしくお願いいたします」
ついて来ていた丘が、丁寧に頭を下げている。
鷹揚に頷いて、蜂谷が居並ぶ部員に向きなおった。すでに晴子と未来も、席の前に移動している。丘は部屋の隅に下がった。
「では自己紹介からして貰おうか。クラリネットの貴方から」
晴子が指さされて、名乗った。順番に、自己紹介をしていく。
その間、蜂谷は楽器の準備をしていた。
「鈴木夕です、一年、初心者です」
「クラリネットは三人とも初心者か! ビシバシ行くので、逃げ出さないように!」
やっぱり、逃げ出す子がいるんだ。蛇に睨まれた蛙、とはこういう状態のことなんだろうか、と夕は思った。
気持ちも身体も、固まってしまっている。
全員の自己紹介が終わると、楽器の準備を終えた蜂谷が、軽く音を出した。
それだけで、全員が息を呑んだ。
同じクラリネットとは思えないほど深くて重い音だ。初心者の夕でも、次元が違う音だと分かった。蜂谷の音と比べると、綺麗だと思っていた未来の音でさえ、薄っぺらく思えてしまう。
「では、まずは一人ずつ音を出していってもらう。私と同じ音をリレーで、私、藤、私、一ノ瀬、という順番で交互に吹いていく。リズムよく吹くように!」
「はい!」
指示された通り、一人ずつ交互に出していく。すぐに、蜂谷が怒鳴った。
「音が弱い! 何のために私が交互に吹いているのか? 合わせようと意識しなさい。吹奏楽は常に隣の人間と合わせることを要求される音楽だ。手本として私が吹いているのだから、集中して合わせなさい。何を合わせるのか、よく考えて」
「はい!」
考えろと言われても、ついていくのに必死で、夕は自分がどう吹いているのかすらも分からなくなっていた。心臓の音がうるさいし、頭は混乱している。
それを見透かしたかのように、蜂谷がリレーを止めて、夕を指さした。
「鈴木! 今何を考えていた、言ってみなさい」
「何も、考えてませんでした」
「何も考えてません! そんなの、許されません! 時間を無駄にしない。一秒も、一音も無駄にしないこと。無駄にすればしただけ、上達から遠のく。メリハリをつけなさい。楽器を持って口にくわえたら、音に集中しなさい」
「はい」
「返事!」
「はい!」
なんで、そんなに怒鳴るんだ。こんなの、いじめじゃないか。怒鳴って、楽しんでるだけだ。逃げ出す子が悪いんじゃない。この人の教え方が悪いんだ。夕は、心の中で叫んだ。
人に怒鳴られるのが、嫌いだった。何の権利があってそんなことをするのだ、といつも思っていた。
心を、どす黒い感情が支配していく。
次の人が捕まった。智美だ。
「音が聴くに堪えん! なぜその練習をするのか、なぜそう吹くのか、何の意味があってこれをするのか、ということを常に考えなさい。何も考えずに吹くのは、吹くとは言わん。音を垂れ流しとるだけだ」
「はい!」
「良い返事するじゃないか。中村、もしかして運動部出身か?」
「陸上でした」
「そうか。なら気合を見せてみなさい。限界まで走り続けた経験があるだろう。サックスも限界まで吹いてみなさい。誰よりも吹かんと、一生そのままだぞ。ただし、考えて吹きなさい。それで吹き続ければ、伸びる」
「はい!」
一人ずつ、何かしら怒られた。
音階練習、音の跳躍、ロングトーン。普段行っている練習を、とことん蜂谷は見ていった。その間、必ず蜂谷も一緒に吹いて手本を見せ、時には怒鳴りながら耳元で聞かせてきた。
指示や注意は吹きながら行われ、ほとんどずっと吹きっぱなしだった。口が、疲れ切っている。
「よし休憩。楽器を手放しなさい」
指示されて、全員楽器を置いた。
「吹き続けろと言ったが、メリハリをつける必要がある。楽器を持ったら演奏に全てを集中させ、楽器を手放したら思い切り休憩する。オンオフを切り替えられるようになりなさい。コンクールなど、本番の前に他校の演奏を舞台裏で聴くだろう。それで、呑まれる。本来の演奏が出来なくなる。いつも、楽器を構えたら切り替えられる。自分の演奏が出来る。そういう風になりなさい」
何となく、言っていることは分かる。けれど、反発心から素直に聞けない自分がいることも、夕は感じていた。
「自分が初心者だから、下手だから、と考えないこと。楽器を持ったら、全員が奏者。立場などない。自分でそう思い込んでいるうちは、上手くなれないと思いなさい。また、自分が今やっていることの意味を必ず考えること。それを理解せずに吹くことほど無意味なことはない。分からなければその場で聞く。必ず意識しなさい。同じことをしていて技術に差が出来るのはなぜか? どれだけ考えているかです。考えて考えて、自分の頭をフル回転させなさい」
休憩になると、蜂谷の声は穏やかだった。吹いている時と、まるで違う。
それが、蜂谷の言うオンオフ、メリハリ、なのだろうか。
未来や晴子が、どうしたら蜂谷のような音がでるのか質問した。
「丘先生にも、音に深みが無い、と言われます」
「身体の使い方を考えなさい、一ノ瀬。腹筋で音を出すのではない。自分の身体とクラリネットが一体となったかのように身体を使うこと。楽器を吹くとは、口先だけで行うものではなく、全身を使うことです。自分の身体をどれだけ知っているか? もっと注意深く自分の身体を感じなさい」
「……はい」
「それから、良い音を聴くこと。できれば生の演奏を。CDでも良いが、生に勝るものはない。練習するのと同じくらい、良いものに触れることは大切だぞ。丘先生」
「はい」
呼ばれて、部屋の隅にいた丘がさっと近寄った。
「練習ばかりも良いですが、生徒には生の演奏に触れさせる機会を作ったほうが良いでしょう。頭の中にイメージが無ければ、理想の音を生みだすことは出来ません。こどもたちにはそれがまだない子も多い。演奏会に限らず、様々なものに触れさせることです」
「肝に銘じます」
「返事が固苦しいですねぇ。堅物と呼ばれてませんか?」
「い、いえ」
上級生が、少し笑った気がした。確かに、丘はいつも無表情で岩みたいな印象の人だ。
誤魔化すように丘が咳ばらいをして、下がった。
「はい、練習再開! 楽器を持って。切り替えなさい。一人ずつ吹き方を見ていく」
「はい!」
また始まる。
とにかく、やるしかない。自分が下手なのは事実だ。喰らいついていかないと、ずっとこのままだ。
そう考えて、先程、蜂谷に言われたことが頭をよぎった。
自分でそう思い込んでいるうちは、上手くなれない。
蜂谷の言う通りなのかもしれない。腹立たしい人だが、言っていることはどれも納得できることばかりに思える。
出来るか分からないけれど、思い込むのはやめてみよう、と夕は思った。
レッスンが終わって、蜂谷を車まで見送るところだった。
「丘先生。あの子達は、年にどれくらい本番を経験するのですか?」
「五月のフレッシュコンと夏の市民プールでのコンサート、コンクールが東海大会まで行くと四回、秋の文化祭と地区の吹奏楽の祭典、アンサンブルコンテストに三月の定期演奏会で、全部で十回程度でしょうか」
「少ないですな」
ばっさりと、蜂谷が言い放った。
「音楽とは、自分の想いを誰かに届けることです。コンクールまでに、お客さんに届ける機会である演奏会が、実質プール演奏一回のみでは、少なすぎますな。もっと五回、六回とやったほうが良い。誰かに聞かせる。聞いてもらう。反応を貰う。そうした体験を重ねさせないと、本当に音楽を届けるということは理解できないでしょう」
「……おっしゃる通りかもしれません。ですが、曲を練習する時間がなく」
「時間は作るものです。顧問の貴方がその考えでは、生徒もそうなってしまいますよ。出来る演奏会は、いくらでもあります。本番で生徒は成長するものです。演奏会を成功させようという意識が、結果的に生徒の考える力も伸ばすのです」
蜂谷の指摘は正しいのかもしれない。確かに、小さな演奏会は積極的に企画してこなかった。
思い返してみれば、現役時代は、月に一回くらいは何かしらのミニコンサートを開いていた。すべて自分達で企画して、顧問に承諾を得て開催していた。当時の部長の発案だった。
「やってみます」
「頑張ってください。月に一回しか来れませんが、教えるからには全力でやりましょう」
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」
車に乗って走り去る蜂谷を見送った。
彼のレッスンを見学したのは初めてだった。フレッシュコンの日に、安川高校の顧問が紹介してくれた。
噂に違わぬ厳しい指導だったが、言っていることの全てが的を射ている。
それを活かせるようにするのが、丘の仕事だろう。
毎月のレッスンをただ平穏に切り抜けようとするだけでは、上達しない。それを普段の練習に落とし込まなければならない。
頭の中では、すでに今後どうするかの案が、次々と浮かび上がっていた。




