六ノ十一 「プロのレッスン」
日が落ちて、完全に外は暗くなっている。
帰りのミーティングで、丘が言った。
「木管の人に連絡です。今週末から、プロのクラリネット奏者の蜂谷正先生が、月一で木管セクションのレッスンをしてくれることになりました」
部員がざわめいた。
「レッスン代は人数が多い事もあり、蜂谷先生のご好意で一人四千円です。世間の相場と比べたら随分低いですが、それでも皆さんは楽器の維持費もかかるので、親御さんには負担でしょう。しかし、本気でやっていくのならプロのレッスンは必須です。すでに自分のパートのプロ奏者からレッスンを受けている人は受けなくても良いですが、誰からもレッスンを受けていない人は、是非参加してください。親御さん宛ての手紙も用意しましたので、今日帰ったら渡してください」
木管セクション全員に紙が配られて、智美も受け取った。
入部の初めに、結構な金がかかった。また親にお願いをするのは気が引けるが、ここで受けなかったら、さらに他の子と差がついてしまうし、頼み込むしかない。
「特に初心者の皆さん。貴方たちの上達は、我が部にとって最重要事項です。貴方達が鍵を握る存在だと自覚してください」
「はい」
それでミーティングは終わった。
「智~」
テナーサックスの市川幸が後ろから抱きついてきて、肩から手を回された。
「智はレッスン受ける?」
「受けるよ。皆より遅れてるし、絶対受ける」
「え~そっか。私はどうしようかなあ」
「え、さっちゃんは受けないの? 一緒にやろうよ」
幸は気さくな子で、智美とは馬が合った。同じパートということもあってすぐに仲良くなり、さっちゃん、智、と呼び合っている。
入部して一週間が経っていた。幸以外の部員も、すんなりと智美を受け入れてくれたように思う。
初心者で遅れて入る分、迷惑もかけるだろうと考えていた。だから、受け入れてもらえるか不安だった。部の一員として扱ってもらえて、心からほっとしている。
「う~ん。夕達は~?」
幸に呼ばれて、話し込んでいたクラリネット三人組が、近寄ってきた。
「レッスン受ける、夕?」
「うん。私達が上手くなるのが重要だ、って言われてるし」
「私は特に、一番ついていけてないから受けなきゃまずいかも。私が受けるなら和も受けるって言ってる」
冴えない表情で、近藤綾が言った。鈴木夕、近藤綾、朝野和。クラリネットの初心者三人組だ。仲が良いようで、いつも三人一緒にいる。
「皆が受けるなら私も受けよっと」
身体を離しながら、幸が言った。
「でも、どんな先生なんだろ?」
「全然知らない。あ、晴子先輩。蜂谷先生ってどんな人か知ってますか?」
通りがかった晴子が足を止め、近づいてくる。
「ん~? 私も知らない。未来なら知ってるんじゃないかな?」
晴子が、個人練習をしていた一ノ瀬未来を呼んだ。
「未来は、蜂谷先生って知ってる?」
呼ばれた未来が、頷いた。
彼女は三年生で、木管セクションリーダーという役職を担っている。未来と書いて、あすと読むらしい。
「中部地方で指導員としてひっぱりだこの先生だよ。かなりガチ目のキツイ指導だけど、耐えた人は確実に上手くなるって言われてる。耐えられないと、辞めちゃうみたいだけど」
「何それ、こわっ」
「でも、それぐらいしないと……私達は上に行けないと思う」
一瞬、クラリネット三人組を見て、未来は音楽室を出て行った。
三年生とは、まだあまり打ち解けられていない。未来とも挨拶ぐらいだ。
彼女は熱心な人なのだろう、と智美は思っていた。毎朝、智美と同じくらいの時間に登校してきて、課外に行く前にほんの少しでも練習している。夕練の後は智美同様、最後まで残っている。
音も、何となく、綺麗な人だと思っていた。
クラリネット三人組が、しょんぼりしている。三人とも、未来に毎日しごかれているらしい。近寄り難く、つんとした雰囲気があって、それが三人を委縮させているのかもしれない。
話の後は、正孝に頼み込んで練習を見てもらった。
ペア練習という、部員が二人で組んで行う練習で、智美だけは組み合わせから外れていた。それで、同じサックス初心者の真と組んでいる正孝が、智美も観てくれることになっていた。
同じサックス同士のため、正孝からは細かな奏法から手入れの仕方まで、サックスに関わることを大体教わっている。
学生指導者という音楽面のリーダーをしているだけあって、教え方も分かりやすかった。
「中村さんが入ってきて良かったよ。井口は欠席も多いし、あんまり熱心じゃないから、サックスパートの将来が心配だったんだよね」
正孝が愚痴るのも、気持ちは分かる。
真は夕練には一応来ているけれど、朝練は遅刻や欠席が多かったし、夕練の後は、自主練をせずにちょっと他の男の子と遊んだ後、すぐ帰宅していた。今日も、もう姿は見えない。
まともに話していないから、どんな子なのかあまり分からないが、多分、まだやる気がそれほどないのかもしれない。
「クラがやばいって言われてるけど、サックスもアルトが初心者二人だから、結構危機感あるよ。中村さんには期待してるから、頑張って」
「あ、はい。頑張ります」
自分の練習があるから、と言って正孝は教室を出て行った。正孝は個人練習を重視している人で、ペア練習はいつも途中で切り上げられてしまうのが、物足りなかった。
本当はもう少し教えて欲しいが、無理は言えない。
一人で練習していると、幸が教室に顔を覗かせた。帰るところのようで、鞄を持っている。
椅子を引っ張ってきて、向かい合うような形で幸が座った。
「ねえねえ、智ってコウキ君と同じクラスでしょ」
「そうだよ」
「仲良いの?」
「んー、うん」
「どんな子?」
「どんな……すごく良い人、かな」
「もうちょっと詳しく。何が好きなの?」
「えーっと、トランペットと、音楽と……あとなんだろ」
コウキにトランペット以外に好きなものがあるのか、智美も詳しくは知らなかった。テレビやゲームは触れないと言っていた。携帯も中学生までは持っていなくて、最近ようやく持ち出した。
「あ、読書は結構するって言ってたかな」
「本! 私読まないな~。じゃあ、好きな食べ物は?」
「いちごって言ってたような。てか自分で聞けば?」
「だって、いっつも部活の前とか後は、万里ちゃんと一緒なんだもん。話すタイミングほとんど無いし」
万里というと、確かペア練習でコウキと組んでいるトランペットの子だ。まだ、金管の子とも深く話せていない。
「じゃあ一緒に帰れば? 方向途中まで一緒でしょ」
「えー、断られそう」
「良いよ、私から誘ってみようか?」
「ほんと!? お願いっ」
「何、好きなの?」
「好きっていうか、気になるっていうか」
「ふーん。でもコウキ、ライバル多いよ」
「えっ……そうなの?」
「うん。相当。めっちゃ手ごわい子もいるからね?」
「そう、なんだ……」
脅すわけではないけれど、コウキには洋子がいる。
美奈のことを諦めたのかは分からない。ただ、コウキにとっては洋子も特別な子のはずだ。好かれようと思ったら、もっと積極的にならないと無理だろう。
「とりあえず、今日誘ってみるから、また明日ね」
「はーい、お願いします! じゃあね!」
手を振りながら、幸が出て行った。
智美は、洋子とはメールを頻繁に交わしている。
コウキが忙しくて、四月以降、まだ一度も会えていないと洋子は嘆いていた。次に会う約束は、盆休みだとも言っていた。
その間に、幸のように近づく子が増えたら、コウキの気持ちが他の子にいかないとも限らない。
洋子にとっても結構厳しい状況なのではないだろうか。
だからといって、コウキに他の子が寄らないように見張るようなことは、智美はするつもりがなかった。
洋子を応援したいけれど、他の子の行動を邪魔することもしたくない。
とりあえず、後でコウキに幸のことを話してみよう、と智美は思った。
コウキなら断ったりはしないだろう。




