六ノ十 「昼練」
智美が入部してから、一週間が経った。
遅れて入部した智美について、初めは好奇の目で見る部員もいたが、日が経つと誰もいなくなった。
智美は、毎朝誰よりも早く練習に来て、夕練の後は最後まで残って吹いているのだ。
家は、近くはない。コウキと同じで三十分近くはかかる距離だから、朝一番に来るためには、かなり早朝から起きる必要がある。
その姿を見て、智美の本気度を疑う部員がいるわけもない。
支援すると約束した以上、コウキも智美に付き合って、今までよりさらに時間を早め、一緒に登校していた。
智美が、弁当の用意はする余裕が無いと言って、コンビニで昼食を買おうとしていた。それを止めて、ここ数日はコウキがおにぎりを二人分作り、持っていっている。
智美は遠慮したが、一人分も二人分も作る手間は変わらない。
体力勝負の吹奏楽部で、誰よりも動く以上、飯はしっかり食べておいた方が良い。
今は昼食時間の職員室で、丘と向き合っていた。
「お願いします、先生。私、少しでも多く練習したいんです」
昼食時間に、部室で個人練習をしたいから、鍵を使わせてほしいという願いを伝えに来ていた。
智美は、朝練と夕練後の自主練習でもまだ足りないと言っている。それでコウキから昼練習を提案して、一緒に丘に相談にきたのだった。
丘は、腕組みをしてこちらを見ている。
智美が、さらに言った。
「遅れて入った分、一秒でも早く他の子に追いつきたいです。お願いします」
「俺も、個人練習をもっとしたいです。お願いします」
「……わかりました。良いでしょう。鍵の管理は、本来三年生の担当ですが、中村、あなたに任せます。言っておきますが、鍵の管理をするということは、それを失くしたり悪用してはならないということであり、重い責任があります。やれますか?」
「はい、やります」
それで、丘も頷いた。放送で、鍵の管理をしている晴子を呼び出し、事情を説明した。
「そういうことですから、鍵の当番は今後中村に任せます。藤の方から役割について説明してください」
「分かりました」
三人で頭を下げて、職員室を出た。
廊下を歩きながら、晴子が鍵を智美に渡す。
「お昼まで練習したいの? すごいね二人とも」
「出遅れてますし、少しでも多く吹きたくて」
「俺も、ペア練習は教える側なんで、個人練もうちょっとしたいんです」
「そっか、なんか今年の一年はやる気ある子が多くて嬉しいなー。あと鍵当番は結構大変だったから、ありがたいよ。頑張ってね」
「はい」
「仕事は朝練の後、部室を戸締りして、自分で管理しておくの。授業が終わったらすぐにきて部室を開けて、夕練のあとは最後の戸締りを日直がやったのをダブルチェックして、職員室の鍵棚に戻す。こんな感じかな。鍵は肌身離さず持っていてね。首にぶら下げとくとかして」
「分かりました」
じゃあ頑張って、と言い残し、晴子は去って行った。
「早速、やるか」
「うん」
昼食の時間は四十五分。すぐに食べて歯磨きをしてから来れば、三十分は練習できる。今日はそこまでできないが、それでも十分な時間はある。
部室を開けて、楽器を取り出した。
智美は、アルトサックスになった。一年生のアルトサックスは男子で初心者の井口真ひとりだったから、智美が増えたことで、バンドの中音域が厚くなる。
音出しをして、それから一緒に音階とロングトーンを吹いた。万里の時と同じで、まずはメトロノームなどは使わず、吹きやすい状態で、指使いや息遣いを覚える。
慣れるまでは、智美の練習に付き合うつもりだ。
最後の数分は、教本に載っている『聖者の行進』という曲を軽く合わせた。
智美が、以前好きだと言った曲だ。そして、コウキも好きだった。
まだ完全に基礎を覚える段階のため、智美だけは曲の合奏に入れてもらえていない。だから、少しは曲を吹く楽しさも覚えてもらいたかった。誰もいない昼練なら、曲を吹いていても文句は言われない。
「たった十数分でも、練習時間って充分だね」
楽器を片付けながら、智美が言った。
サックスに限らず、木管楽器は分解して掃除しながら片付けるため、金管楽器に比べて時間がかかる。
面倒でも、手を抜けば楽器の故障につながるから、重要な作業だ。智美も、まずはそこをしっかりと教わっていた。
片付けに時間がかかる分、練習時間は削られてしまう。だからこそ、限られた時間をどう使うかがより大切になる。智美はそのことも理解している。
「手間を惜しまなければ、時間はいくらでも作れるってことだな」
「あんまり小分けにすると、片付けばっかりやってるってことになりそうだけど」
「たしかにな」
智美が笑う。
吹奏楽部に彼女を誘ったのは間違いではなかった、とコウキは思った。前よりも活き活きとした表情を見せるようになったと思う。
陸上と吹奏楽では、まったくやることが違う。智美が楽器を吹くことそのものに楽しみを見出せなかったら、続かないかもしれないと危惧をしていたが、それは杞憂だった。
「コウキ」
「ん?」
「ありがとね、吹部に誘ってくれて。今、すごく楽しい」
背中を向けたまま、智美が言った。
「そっか、良かった」
「私、頑張るよ。皆に迷惑かけないよう、頑張る」
「迷惑とか、ないって。仲間じゃん」
「……うん」
チャイムが鳴った。掃除の時間が始まる。
「行くか」
「うん」
部室の戸締りを確認して、教室へ向かった。
「えーっずるい、私もしたい!」
掃除の後の昼放課で、桃子が口を尖らせながら机を叩いた。
今日から、昼も自主練を始めたことを伝えたところだった。
「良いじゃん、しようよ」
「……えっ、良いの?」
「ん、むしろ駄目なの?」
「あ、いや。二人きりのほうが良いのかと思って」
智美と顔を見合わせ、吹き出すように笑ってしまった。
「私達、そういう関係じゃないんだけど?」
「えっ、そーなの!? だってお昼も三木君が作ったおにぎり一緒に食べてて、登下校も二人でしてて、完全にそうだと思ってたんだけど」
桃子が心底意外だ、というような顔をしながら言った。
「まあそう見えるか」
「あんま考えてなかったね」
「なーんだ、そうだったんだ。じゃあ私も明日から参加する!」
「おっけー」
楽器を転向して、落ち込んでいた桃子も、最近はようやくやる気になってきたようだった。
最初の頃は、教室で話していても愚痴が多かったものだが、ここのところはホルンの練習方法についてや、音楽の話をすることも増えてきていた。
ペア練習で、学生指導者の奏馬にしごかれて、少しは吹けるようになってきたからだろうか。
上手く吹けないうちは、楽しさもあまり見出せないものだ。吹けるようになってくると、楽器の魅力にも気づける。
奏馬のホルンの上手さは、折り紙付きだ。そのうえ、学生指導者を任されるくらい、教え方にも定評がある。
付きっきりで教えてもらっている分、成長も早いだろう。奏馬自身も、桃子の指導に力を入れている節があった。
「でもさー、そんなに仲良いのに付き合ったりしないの?」
「んー、そんなんじゃないんだって」
「そうそう。それにコウキには、すっごく仲が良い超可愛い子がいるもんね」
「なっにそれ!? どゆことどゆこと!」
「ちょっ、余計な事を言うな!」
智美がニヤニヤしている。
こういう話になると、途端に智美は意地が悪くなる。からかって面白がってくるのだ。
「三木君は黙ってて! 智ちゃん、話して!」
「えー、えっと、コウキには二個下の仲が良い子がいて、皆が振り向くレベルに可愛い子なんだよねー?」
「わー、やめろやめろ!」
「おい、何だその話、俺にも聞かせろよ!!」
橋田までやってきて、智美に迫った。なおも話そうとする智美を止めるために、その口を手で塞ぐ。
「むぐっ」
「それ以上言うな!」
智美に念を押すと、口が塞がったまま、こくこくと頷いた。それで、手を離してやった。
苦笑いを浮かべながら、智美が頬を掻いている。
「なーんで秘密なの? 聞かせたくない話なの?」
桃子がまだ聞きたそうな表情をしているが、横を向いて答える。
「別に良いだろ、もう終わりだ。智美も、言うなよ」
「分かったって」
困ったように笑いながら、両手を合わせて、ごめん、と言ってくる。
別に、洋子のことを隠したいわけではない。ただ、余計な詮索をされたくなかった。周りからごちゃごちゃと口出しされて、洋子との関係を崩したくないのだ。
洋子のことは、落ち着いて考えたい。
コウキにとって、一番大切な子である。だからこそ、中途半端な心で向き合いたくないし、茶化されたくもない。智美はそんなことをしないのは分かっているが、他の子はどうか分からない。
「授業始まるぞ」
「ちぇっ」
渋々といった感じで、桃子と橋田が席につく。コウキも自分の席に座り、ため息をついて窓の外に目をやった。
向かいの職員棟の一階にある職員室から、授業に向かう教師達が出てきているのが見える。
高校に上がってから、洋子とは会えていない。拓也ともだ。コウキも拓也も部活動が休み無しだし、夜遅くまでやるため、その後に会うのは難しかった。
話したいことは、山ほどある。それに、三人で集まるあの時間がコウキにとっては大事な時間だった。
盆休みに集まる約束はしている。だがそれは、まだ二ヶ月以上も先である。
次の授業の教師が、教室の扉を開けて入ってきた。
「起立」
日直の合図で、立ち上がる。
「礼」
頭を下げ、椅子に座る。
携帯を手に入れてから、洋子と連絡先は交換していた。だからメールでやり取りはしている。直接会う方が好きだが、今はメールで我慢するしかない。
コウキは、また窓の外に視線を移した。そのまま、意味もなく風景を眺める。
洋子のことを考えたからだろうか。
今は、無性に洋子の顔を見たい気持ちが強くなっていた。




