六ノ九 「吹奏楽部に来いよ」
「辞めた!?」
コウキと桃子と橋田が一斉に叫んだことで、クラスメイトの視線が集まった。
智美が数日前に陸上部を辞めたことを告げたからだった。
「なんで? 智美、陸上好きだって言ってたじゃんか」
「うん……でも、私がいたいと思える陸上部じゃなかったみたい」
「何かあったの、智ちゃん?」
「……私には、合わなかったみたい」
「そういや最近中村さんグラウンドにいなかったもんな」
橋田はグラウンドで活動している野球部だから気づいたのかもしれない。
曖昧に笑って誤魔化すと、それ以上三人は理由を聞いてこようとはしなかった。
「じゃあ、これからは帰宅部?」
「かなあ」
「もったいないけど、そっか……しょうがないね」
それで話は終わった。
その後はいつも通り授業を受け、ホームルームも終えて帰宅時間となった。
今までならすぐ部活動へ行っていたけれど、もうやることも無い。何もしないのに、学校に残ってはいたくなかった。
クラスメイトに挨拶をして、早めに教室を出た。
退部してから、家に帰っても暇で、無為な時間を過ごすだけだった。携帯を眺め、テレビを見て、雑誌に目を通して、寝る。
寄り道でゲームセンターやショッピングモールに行ってもみたものの、微塵も楽しさを感じなかった。
結局、家に帰るしかない。
自転車を押しながら正門の急坂をおりているところで、コウキに呼び止められた。
「コウキ、どしたの?」
「一緒に帰ろう」
コウキも、自転車を押してきている。
「えっ、部活は?」
「今日はいい」
「そんな、駄目でしょ。行きなよ」
「もう出てきたから」
有無を言わさないといった感じで、コウキが横に並んでくる。
止めても、引き返しそうにない。
「……わかった」
気を、使ってくれているのだろう。
校門を出て、しばらく無言で走った。
大通りに出る道へ曲がろうとしたところで、コウキが止まった。
「どうしたの?」
「智美、こっちから行こう。良いとこがあるんだ」
智美がいつも通学している道とは違う方向へ、コウキが行こうとする。
束の間、考えた。
慌てて帰る必要も無い。家に帰っても、暇なだけだ。
頷いて、ついて行った。
数分走ると、辺り一面田んぼの道に出た。田植えが終わって水が張られていて、か細い稲が風に揺れている。
遠くまで、ずっと田んぼしかない。ぽつぽつと、田んぼの中に農家らしき人の姿が見えた。
「この道通ったことある?」
「んーん、無い」
いつもは安全な大通りを使っていた。道を変えるなんて、考えたことも無い。
だから、少し新鮮な気分だった。広々としていて気持ちが良い。
「見えてきた」
コウキが前方を指さす。小さな川が流れている。
川沿いをちょっと行ったところで、コウキが自転車を降りた。智美も通行の邪魔にならない位置に止める。
幅が数メートルしかない細い川だ。護岸もされている。
ちょうど目の前は支流との合流地点で、そこに小さな中州のようなものが出来て、葦が群生している。
緩やかな斜面になった堤防部分に、コウキが腰を下ろした。堤防の草は管理されているようで、丈の低いやわらかそうな草だけが生えている。
「座ろうぜ」
促されて、智美も隣に座り、川を眺めた。
向こう岸に川へ降りる階段があって、そこに亀が沢山上がっているのが見える。子を背中に乗せた親亀も、首を伸ばしてもそもそと動いている。
「亀いっぱいじゃん。可愛い」
「日向ぼっこしてんだよなあ、あの亀達」
「……いつもこの道通って帰るの?」
「そう。飽きるから、たまに別の道で帰ったりもするけど」
「へー、私、大通りしか使ったことないや」
遠くから、電車の走行音が聞こえてくる。田んぼ地帯の向こうの線路だ。川のせせらぎに、風の音。
「良いとこだね。落ち着く」
「だろ。護岸された川は好きじゃないけど、ここは別だ。きっちり整備されてないから植物も生えてるし、生き物も多くて」
「うん、分かる」
二人で、水面と亀を眺めつづけた。
この道を通る花田高生はそこそこいるようで、たまに自転車が通り抜けていく。
それ以外は、至って静かだ。
「陸上部で、誰かと喧嘩でもしたのか?」
ぽつりと、コウキが問いかけてきた。
表情に出さないようにしていたのに、察したのか。
答えるか、迷った。
誰かに話してどうにかなることでもない、終わった話だ。
ただ、学校で皆の前で聞かず、二人の時に聞いてきたのが、コウキの優しさなんだろう、と思った。
風が吹き、髪がなびくのを手でそっと抑えた。
「ううん。そんなんじゃないよ」
少し間を置いて、話すことにした。コウキなら、話しても良いと思った。
「私が陸上部を選んだのは、走ることが好きだからだけど、それだけじゃなかったんだ。部活として、周りの仲間と一緒に努力して、悩んで、乗り越えていく過程も好きだった。それがしたかった。けど、あの部はそういう部じゃなかったんだ」
黙ったまま、時折頷きながらコウキは聞いている。
「上級生のための部活。後輩は、三年生になるまで我慢。意見を言うと、ハブにされる……そういうことが、したかったわけじゃない」
一人で外周を走る日々。隣に仲間はいない。
智美にとってそれは、もう部活動である必要がなかった。
「一人になるなら、いてもしょうがないかなって。私があの部を変えられるとは思えないし、そうしたいとも思わなかった。あれ以上残ってたら、陸上も嫌いになっちゃいそうだった」
空を見上げた。
雲が、流れている。
陸上部でやりたいことは出来なかった。
仕方ないことだ、と諦めてもいる。
ただ、心に思い浮かぶのは、教室のコウキと桃子の姿だった。
吹奏楽部の時間以外でも真剣に話し合っている。
いつも音楽や部のことが頭にあるのだろう。
あんな風に、誰かと部活動に夢中になりたかった。
「智美」
「うん?」
「吹奏楽部に来いよ」
「……えっ?」
唐突に言われて、コウキの顔を見た。
「陸上と吹奏楽。全く違う世界だけど、智美が求めてるものは、うちにならある」
コウキが、まっすぐに見つめ返してくる。
「俺も同じだよ。音楽は好きだけど、それだけじゃない。皆と一緒に音楽を作り上げる過程が好きなんだ。一体感っていうのかな。一人じゃ出来ない事も、大勢集まれば出来る。だから好きなんだ。智美の話を聞いて思った。智美は、今の吹奏楽部に必要だ」
「そんな、急に言われても……私、音楽、何も知らないから……」
「初心者だからとか、音楽のことを知らないからとかは、うちでは関係ないよ。高校から始めた初心者で、リーダーをやっている先輩だっている。走ることと、音楽を奏でること。やることはまったく別だけど、きっと、智美に入って良かったと思ってもらえるはずだ。俺は、智美みたいに部活を真剣にやりたいと思う人のためにも、良い部にしたいと思って活動してる。一緒に、吹奏楽部でやろう」
コウキが、手を差し出してくる。その手を見つめた。
吹奏楽部に入るなんて、考えたことも無かった。
自分が楽器を吹いている姿など想像したことも無いし、その世界に関わることがあるとも思っていなかった。
今からでも、入部出来るのだろうか。
入ったら、コウキや桃子のように、夢中になれるのだろうか。
部員に、受け入れてもらえるのだろうか。
「迷うくらいなら、やろう。大丈夫、俺がそばにいる。どんな事だって、一緒に頑張れば出来る」
智美の迷いを見抜いたように、コウキが言った。その言葉が、智美の心を揺らした。
「……何にも分かんない人間だけどさ、良いの?」
「大丈夫」
「足を引っ張っちゃうことに……ならないかな?」
「智美が死ぬ気になって練習すれば、すぐ皆に追いつける。俺も、サポートする」
「私も、夢中になれるかな」
「なれる」
ああ、そうなんだ。
コウキが、なれる、と言った。
智美は、その事実だけで良い、と思った。
このまま何もせずにいたら、自分が腐っていく気がしていた。何かがしたかった。
その何かが、コウキと一緒なら、たとえ触れたことのない音楽の世界でも、良い。
差し出された手を握った。温かい手。強く、握り返された。
「よし、そうと決まれば、すぐ戻ろう」
「えっ!?」
「吹奏楽部、入るんだろ? 皆に追いつくんだろ? 一秒だって無駄に出来ないよ」
手を引っ張られて、自転車のそばまで戻った。
「行こう」
自分が、吹奏楽部員に混ざって音楽を奏でる姿。まだ、上手く想像もつかない。
けれど、なぜかそれを思い浮かべようとすると、心が躍った。
不安はあっても、隣にコウキがいる。それだけで、どんなことでもきっと大丈夫だろう、と思える。
「……うん!」
田園風景の中を、二人で全力で自転車を走らせた。
風が、智美の身体を包んだ。




