六ノ八 「涙」
フレッシュコンクールから数日が過ぎた。あの日の順位は、五位だった。
本番なら完全に代表圏外であり、さすがに丘の表情も険しかった。
帰りのミーティングで、晴子が読み上げた審査員の講評には、音の縦の線が揃っていないこと、木管、金管、打楽器の音量バランスが取れていないこと、細かなリズムが曖昧になりがちなことなどが指摘されていた。
どの審査員も、文面は違っても、似たようなことが書かれていて、公開指導で言われたこととも、ほぼ同じだった。
「今のうちの実力がこれです。上位四校と、圧倒的な差があります。県大会、東海大会と進めば、さらに優れた学校が多く存在しています。今のままでは、県大会にすら進めず終わってしまうでしょう」
あの日、解散前のミーティングで丘が言った。
「どうすれば、あと二ヶ月と少しで成長できるのか。私だけでなく、皆さん一人一人も考える必要があります。今日の演奏、講習と講評、他校の演奏、その全てをじっくりと思い返し、明日以降に活かしてください」
五位という順位が部員に与えた衝撃は、大きかった。
特に二、三年生の落ち込んだ様子は観ていられないほどだった。
花田高は、地区の高校の中でも上位の実力を持っている。去年は東海大会まで出場したし、全国大会には手が届いていなくても、それなりの実績がある。誇りもあっただろう。
あれ以来、部内にはどことなく暗い雰囲気が漂っている。
今日は、三年生が五月の修学旅行関係で、部への出席が遅れている。
その間、ペア練習が組まれていた。
フレッシュコンクール翌日の全体ミーティングで、ペア練習をメニューに組み込む発表がされた。
丘も出席していた。
「学年の上下は関係なく、技術のある人と、未熟な人をペアにして、一対一での基礎練習をしてもらいます。上級生が下級生を教えるという形では、上下関係に縛られてしまいます。それは部の風通しの悪さに繋がって、悪い影響も出てくると思う」
奏馬が、前に立って説明した。
丘と正孝と、三人で話し合って決めたらしい。
「誰からでも素直に教えを受けられる。そういう意識が必要です。ペア練習の意義は、教える側は手本になるため努力をするし、教えられる側は上手い人の音を聞いて参考にしながら吹けます。また、個人練では集中が続かない人でも、互いに見合っているので、その分集中できるはずです」
コウキも、できれば上下関係に縛られずペアを組んで欲しいと思っていた。ただ、いきなりそれは無理だろうと思って提案しなかったのだ。
だから、奏馬達からその案に改良してきたことに、驚いた。
組み合わせが発表され、コウキは万里とペアだった。
それで、今は万里と二人で練習していた。
「音が上がって来た時に、唇にマウスピースをぎゅっと押し付けるのだけはしないようにしてみて。ある程度は必要だけど、過度に押し付けると、高い音が出るように感じても、バテやすくなったり、それ以上高い音が出ない原因になる」
「はい」
メトロノームが規則正しく音を鳴らしている。それに合わせて、もう一度二人で吹いた。
今は、音階練習をしている。
万里には、まずトランペットの全ての指使いを覚えてもらうことと、徐々に高音に触れていくことを目標にしてもらっていた。
半音ずつ調を変えながら、音階を上げていく。すると、最高音も半音ずつ上がっていく。
いきなり高音ばかりを出しても、どこか吹き方に無理が生まれやすい。
違和感なく高音を出せるようにするために、確実に一音ずつ感覚を身に着けてもらおうと考えていた。
万里も大分慣れてきて、メトロノームにも合わせられるようになりだしている。
まだ速度はゆっくりだが、万里自身も、段々と吹ける音域が広がってきていることを実感しているのか、真剣な表情で練習に取り組んでいた。
十五分ほど吹いた後、メトロノームを止めた。
「休憩しよっか」
「うん」
二人で休憩する時は、いつも音楽プレイヤーで一曲聴くことにしている。
万里が聴いたことがなくて、トランペットのソロや目立つメロディがある曲。なおかつ、出来るだけ耳馴染みの良い堅苦しくない曲を中心に選曲する。
万里には、自分で吹くだけでなく、頭の中のイメージも確立して欲しかった。
イメージがあって初めて、自分の音にもこうしたいという意志が生まれる、とコウキは考えているからだ。
曲を聴いた後は、今聴いた曲に関して、互いに感想を話し合う。
「ジャズのトランペット奏者って、何で吹奏楽の人と比べものにならないくらいあんな高い音が出せるの? 楽器が違うから?」
「いや、楽器は関係ないかな。音色的にジャズに向いた楽器やマウスピース、っていうのは多少あるかもしれないけど、高音に関しては、吹いている人の吹き方だと思う」
「そうなの?」
「自分の身体を効率よく使っているかとか、高音が出る仕組みを理解しているかとか、そういうことが大事じゃないかな。俺もまだ全然理解できてないんだけど、高音は無理に出すものじゃないし、そもそも高い音という意識を持たない、って気を付けるようにしてから、HighB♭までは音色や音程を崩さず出せるようになってきたんだ」
HighB♭は、チューニングのドの一段階上のドだ。ここまで苦しまず下の音域と同じように出せるようになると、吹奏楽ならよほど困ることはなくなる。それでも、更に上の音が出る曲もあるから、まだまだではある。
「私に出せるようになるのかな」
「なるよ。今も、もうE♭(ファ)まで出るようになったじゃん。まだひと月ちょっとだよ?」
「そう、だね」
フレッシュコンクール前はCの音が限界だった。音色も少しずつ良くなってきているし、万里は、確実に上達している。
「理想の音は見つかった?」
尋ねると、万里は頭を捻って考えるような仕草をした。
「……最初に聞かせてもらった『サモン・ザ・ヒーロー』だっけ。あれは、ずっと頭に残ってる」
「気に入った?」
「……のかな? 分かんない。でも、もう何回も聴いてる」
音楽プレイヤーは、ペア練習の時以外は万里に貸している。使ってくれているようで、何よりだ。
「段々、自分の好きな音も好きな曲も分かるようになってくると思う」
「うん」
「じゃ、やろうか」
休憩を終えて、もう一度音階練習を始めた。
体操服のまま、一年四組の教室に来た。
窓際の席を借りて、座る。開けた窓から、時折風が吹き込んできて、気持ちが良い。
向かいの職員棟のあちこちの窓から、吹奏楽部の練習の音が聞こえてくる。個人練習でもしているのだろうか。
陸上部の練習を抜けて来ていた。
ため息をついて、机の染みや傷をぼんやりと眺める。
「辞めようかな」
誰に聞かせるでもなく、智美はぽつりと呟いた。
走ることが、好きだった。長い距離を走ることが、特に自分に向いていた。
走っている間、身体に風を感じるのだ。上には晴れた空が広がり、眩しい光が降り注いでいる。
周りを引き離した瞬間、自分ひとりが自然と一体になったかのように、気持ちよくなる。
それが楽しくて、中学校では走ることに夢中になった。走っているだけで、周りに認められた。一緒に高め合う仲間もいた。陸上が、好きになった。だから、高校でも続けようと思った。
ここの陸上部は、そういう部ではなかった。
練習は、上級生優先。後輩は雑用で、上級生の顔色を窺う。大会は上級生が出るもの。
和、という名の同調圧力。それに従わない部員は、省かれる。
くだらなかった。無意味に群れて、狭い世界で満足して。
馬鹿馬鹿しくて、上級生と衝突した。
以来、部に居場所はない。
それで、最近は学校の外周を一人で走ってばかりいた。そうしていれば誰も何も言ってこないし、外周にいるほうが、気が楽だった。
でもそれは、智美の求めていた部活動とは違った。ただ一人で走っているだけなら、部に所属する必要が無い。趣味でも出来ることだ。
それに、走ったところで大会には出られない。
一緒に、大会という目標に向かって仲間と頑張る。だから、楽しい。
それが、ここには無い。
さっきからずっと、二本のトランペットの音が聞こえてくる。吹いては止み、吹いては止み、ひたすら音を上下している。
何となく、それがコウキの音ではないか、と感じた。
コウキと桃子は、毎日のように吹奏楽部の話で盛り上がっている。
桃子が、やりたかった楽器に選ばれなかったらしい。それで、コウキが愚痴を聞いている時もあれば、練習方法について顔を突き合わせてやり合っているときもあった。
何となく、それがうらやましかった。
吹奏楽の事は何も分からないから、黙って聞いているだけだ。ただ、二人が真剣に話している姿を見ると、胸の辺りに違和感を感じた。
智美も、そういう仲間が欲しかった。
中学校の陸上部の同期は、皆違う学校だ。ここでも、仲間は出来ると思った。
そうは、ならなかった。
二人のように、真剣に部活動に打ち込みたかった。
気がついたら涙が滲みだしていて、溜まりきったそれは、腿の辺りに落ちて弾けた。
嗚咽を我慢しようとして、肩が震えてしまう。
抑えていた気持ちが、溢れ出しそうになる。
涙が止まらず、体操服の染みは段々と大きくなっていった。
高校編の登場人物紹介を六ノ序の前に差し込みました。
今後登場順に追記していきますので、登場人物の名前などが知りたくなったらご覧ください。




