六ノ七 「フレッシュコンクールと不思議な新入生」
ひと月はあっという間だった。
新入生の世話で忙しく動き回っているうちに、もうフレッシュコンクール当日になっている。
演奏する課題曲は、全く仕上がっていない。
二、三年生は三月の定期演奏会でも吹いたから、ある程度は出来ているが、新入生が加わったことで、全体のバランスは一から作り直しになった。
練習期間はひと月も無く、奏馬からすればまだ不十分な出来である。
新入生にすぐ完璧な演奏を求めるのは、無理だと分かっている。だが、先ほどから聞こえてくる他校の演奏は、遥かに花田高校よりも仕上がっているのだ。焦りもする。
「イライラしてますね」
二年生の学生指導者サブの緒川正孝に言われて、奏馬は大きく深呼吸した。
感情は音に出る。苛立ったまま吹いても、良い演奏にはならない。
花田高校の出番は次の次だ。今は、舞台袖入り口の前の通路にいる。リハーサルも終えて、出番を待っているところである。
今日舞台に上がるのは、初心者の七人を除いた三十四人。初心者はリハーサルまでは見学についてきて、今は客席に回っているはずだ。
さすがに、今の時点で初心者も入れて曲を成り立たせるのは不可能だった。かといって、吹いているマネだけをさせることは、顧問の丘の方針で、しないことになっている。
二校前の演奏が終わった。次の学校と入れ替わる。
花田高校も舞台袖に移動した。次の学校の演奏が、はっきりと聴こえる場所だ。
舞台に上がっているのは、安川高校という。地区代表として毎年のように県大会、東海大会へと進む常連校で、花田高校とは順位がいつも近く、完全にライバル校のような存在である。
ただ、近年、花田高校は全国に一度も行けていないが、安川高校は何度か出場している。近いようで、力量に差をつけられてしまっている学校だった。
舞台で、安川高校の演奏が始まった。花田高校と同じ曲だ。序盤で、トランペットのソロがある。
上手い、と奏馬は思った。逸乃より、上手い。
ちらりと逸乃のほうに目をやると、どことなく引きつった表情に見えた。
逸乃の技術力は、他校の奏者と比べても、かなり高いレベルにある。だが、精神面で弱いところがあり、ここぞという時に出すべき音から逃げる癖があった。それが、逸乃が一段階突き抜けるための壁になってしまっている。
以前から指摘はしていたが、奏馬としてもどうすれば逸乃が壁を越えられるのか、具体的な方法は分からないままだった。
安川高校の演奏は進み、最後に向かって盛り上がっている。
丘が、手を挙げた。それで、全員の視線が丘に向く。口の動きで、丘が言った。
「行きますよ」
全員、無言で頷いた。
やれるだけのことを、やるしかない。全体としてはまだ未完成でも、決して下手というわけではない。
二、三年生にも意地があるのだ。
曲が終わり、拍手が沸き起こる。しばらくして、舞台へ続く反響板扉が開けられた。
「入ってください」
舞台スタッフを担当している高校生に促されて、舞台へと順番に入っていく。
安川高校はすでに舞台から捌け、打楽器や椅子は安川高校の配置から花田高校の配置に変更されている。
奏馬は自分の席に座り、譜面を広げた。
今日は勝負ではなく学びの場だが、そうだとしても、手を抜きたくはない。
音楽で手を抜くことは、奏馬にはありえないことだった。曲中で力を入れる箇所と抜く箇所があるのとは、意味がちがう。
やるからには、上の成績を目指したい。
アナウンスが終わり、丘が指揮台に上がった。指揮棒が、構えられる。
空間が、静寂に包まれた。
奏馬は、この瞬間が好きだった。空気が変わる瞬間。
丘の手が、動いた。
舞台での演奏が終わった後は、指定されたリハーサル室へ移り、講師が来るのを待った。
壁際には、公開指導を見学するために、他校の生徒も並んでいる。
フレッシュコンクールでは、数校ずつ演奏したら、審査員達が一人につき一つの学校を指導してくれる。出番ではない学校の生徒は、好きな学校の公開指導を見学する。
自分で実際に指導を受けるのと、他校の指導を見学するのと、そのどちらもが体験できる貴重な機会である。
指導を受ける学校も、他校の生徒に見られながら受けるため、本番同様、緊張感を持ちながら吹くことになる。
花田高は、東海地区では全国大会常連校として有名な高校の顧問が担当だった。
「メンバー構成は、一年生が随分多いんですね。それで今日の演奏というのは、中々良かったと思います」
講師が、ニコニコ顔で言った。褒められて、部員の頬が緩んでいる。
「ただ、やはりその分、粗も目立ちましたね。課題曲Ⅰは、速い箇所での舌の動きの正確さや、音のタイミングを揃えることが非常に重要です。花田高校さんは綺麗な音をしていましたが、速度についていけてない子がいて、その分縦が曖昧になっていた。そういうところをしっかり見た方が良いでしょう」
丘が思っていることと、同じだった。
今回は、通常よりほんの少しだけ曲の速度を遅くして演奏したが、それでもまだ新入生を中心に、技術が追い付いていない生徒の音が全体を乱していた。
講師は、楽譜に書かれた指示速度よりもずっと遅いテンポで、選びだした小節を生徒に吹かせた。
楽譜の指示通り、かつ周りの生徒と音の形、吹き方を揃えて吹くことを意識させる。
「そうです。ゆっくり、正確に吹くことを意識してください。吹けるようになったら、少しずつテンポを上げてください。遅いテンポで吹けないなら、指示速度でも吹けるわけがありません。合奏でも、パートでも、個人練でも有効です。こうした練習は時間がかかりますが、上達に近道はありません。頑張ってください」
「はい!」
他にも要所をいくつか指摘されて、講習は終わった。二十分は、短い。もっと見てもらいたいところはいくらでもあるが、次の審査があるため、仕方ないのだ。
それでも、得られたものは大きかった。
講師に全員で礼をして、速やかにリハーサル室から退出させた。次に出演する学校のリハーサルのために、ここも空けなければならない。
「先生、ありがとうございました」
出て行こうとした講師に挨拶をする。振り向いた講師は、笑顔で手を握ってきた。
「一年生が多いバンドなのに、なかなか期待値の高い演奏でしたね。まだ二ヶ月以上ありますから、頑張ってください。ただ、クラリネットは、三本ではちょっと少なすぎますね」
「一年生に三人いますが、全員初心者で今回は外しました」
「そうですか。ではその子たちの上達が、非常に重要ですね」
「肝に銘じます」
「では」
講師の言う通り、クラリネットが不足していた。吹奏楽のクラリネットは、オーケストラで言えばバイオリンのようなものだ。バンドの中心となる音を作るのに、それが三本ではあまりにも少ない。
そのため新入生を三人クラリネットに配属したが、今年は経験者がいなかったために全員初心者だ。
彼女達があと二ヶ月でどこまで吹けるようになるか。部の最重要課題でもある。
今のままでは、到底上の大会に行くのは無理だろう。
どこかで、飛躍的に進歩する必要がある。そのためには、プロの指導を受けさせたほうが良い、と丘は考えていた。
クラリネットだけでなく、木管全体を見てもらえる指導者を探す必要がある。それも、出来るだけ早く。
せっかく今日は、多くの学校が集まっているのだ。他校の顧問の伝手で、そういうプロ奏者を紹介してもらえるかもしれない。
「藤」
部長の晴子を呼んだ。
「私は顧問控え室に行きます。この後の行動は任せましたよ」
「わかりました」
「公開指導は課題曲Ⅰの学校をメインで観るよう指示を出しておいてください」
「はい」
晴子に任せておけば、問題ないだろう。
部員が楽器を片付け終わるのを待たず、丘は控え室に向かった。
楽器を片付けて、部員は全員ホールの中へ入れた。他校の演奏を聴いて学ぶ時間だからだ。
奏馬は正孝とロビーに残り、明日以降の練習メニューの打ち合わせをしていた。
「明日からは合奏に初心者も入れていくし、自由曲も本格的に練習が始まる。曲練習は勿論必要だけど、基礎が出来てなさすぎる。そっちに重点を置きたい」
「そうですね。初心者はずっと放置気味だったんで、そこケアしたいですよね」
「基礎合奏の時間増やすか」
「ですかね。個人練習させても今までと変わらないですしね」
初心者を、数ヶ月で戦力になるレベルに引き上げるには、どうすれば良いのか。奏馬には、良い案が浮かばなかった。
今のままでは良くないと分かってはいても、解決策が思い浮かばない。正孝も同じだろう。
何かが、足りない。何をすれば、中身の濃い練習に出来るのか。
「先輩達、中に入らないんですか?」
声をかけられて振り向くと、コウキが後ろに立っていた。
「ああ。明日以降の練習メニュー考えてる」
「コウキ君は、中に入ってたんじゃないのか?」
「トイレに出てきたら、お二人が見えたんで」
言いながら、コウキが空いている椅子に座った。
「初心者も多いし、基礎練を増やす感じですか?」
言い当てられて、奏馬は目を見張った。
「うん」
「思ったんですけど、うちの部って上手い人が多いんで、パート練習や個人練よりも一対一のペア練習のほうが良いように思うんですが」
「……というと?」
「パート練習はパートリーダーが全員を見なくちゃいけなくて、その分意識が分散されるし、初心者と経験者を同じ教え方では出来ないので、効率が悪いと思います。だから、部員同士をペアにして練習したらどうかと。勉強でも、分からない子に教えると自分もより深く理解できるようになるじゃないですか。教える側にもメリットがあるし、お互いの音を聞きあって練習するから教えられる方も上達が早いと思います」
「それで?」
正孝が興味をひかれたようで、少し身を乗り出し始めていた。
「後は、やっぱり部員同士で、互いのことをもっと深く知る必要があると思うんです。相手のことを知らないのに合わせる感覚を得るのは、難しい。ペア練習は、相手を知る機会にもなると思います」
コウキの言うことは、なるほどと思わせるものがある。確かに、奏馬にもその経験はあった。
後輩につきっきりで教えると、相手より上手くあらねばという意識が生まれるし、分かりやすいように教えようと努力するようになる。
指示に従うだけの受け身の部員が多い現状では、上手く行くか怪しいが、成功すれば、部員の意識の改善にも役立つ可能性はある。
「……まあ、言いたいことは分かった。後は俺達で考えるから、コウキ君は中に戻りな」
奏馬が言うと、コウキは素直に頷いて去って行った。
後姿を見送って、ぽつりと正孝が呟いた。
「なんなんですかね、あの子」
「ん?」
「中学では部長とかやってなかったらしいですけど、明らかにそっち系の子ですよね」
「まあ、そうだな」
「……まあいいや。で、どうしますか。結構良いと思いますけど。ペア練習」
正孝に言われるまでもなく、奏馬も良いかもしれない、と思い始めていた。
個人練習は自分との闘いだ。長時間集中した練習ができる人間は、なかなかいない。
ペアなら、互いに意識しあう事になるから、集中が続きやすいだろう。
ただ、適当に組ませるだけでは効果は薄い気がする。組み合わせも吟味する必要があるだろう。
「丘先生に相談してみるか」
「そうですね。控室にいるんじゃないですか?」
「行くか」
新入生の提案に乗るのも何だが、奏馬も正孝も、コウキのものより良い案が思い浮かばなかった。といって、今まで通りの練習では駄目だとも分かっている。
丘と相談すれば、何か見えるものもあるかもしれない。
奏馬は広げていたノートや紙をまとめ、顧問の控室に向かって歩き出した。




