五ノ十六 「ずっと友達」
受験をした東京の高校は、難関と言われている学校だったものの、美奈からすれば大したことはなかった。
別に行きたい高校だった訳ではなく、母親の希望で選んだ学校だった。
合格したことで、母親は泣いて喜んでくれた。それで、良い。
東京の母親の実家に引っ越すため、業者のトラックに家の中の荷物が次々に積み込まれている。といっても、物はそれほど多くはなく、美奈と母親の部屋に置くようなもの程度だ。
不要なものは母親がガレージセールを開き、やってきた人達が買っていった。残ったものも売ったり譲ったりして手放したのが先週のことで、もう、家の中はかなりがらんとしている。
いよいよ、この家から離れるのだ、と美奈は思った。
家の外の道路に出る。
どこにでもあるような住宅街の路地。美奈にとっては、歩きなれた思い出の詰まった道でもある。
幼稚園も、小学校も、中学校も、この道を歩いて学校へ通った。父親がまだ生きていた頃、手を繋いで公園に行ったりした。
もう、ここを通ることも無い。
引っ越し業者の掛け声が、家の中と外でしきりに交わされていて、母親は、別れの挨拶に来た近所の人と庭で立ち話をしている。
「美奈ー」
路地の向こうから、智美が手を振りながら走ってきていた。
思わず笑顔になって、手を振り返す。
「智ちゃん、来てくれたんだ」
「そりゃあね」
笑って智美が言った。
今日が引っ越しの日だと、智美にだけは伝えていた。
中学校で出来た友人はあまり深い仲にはなれず、学校を平穏に過ごすための関係といった感じだった。だから、伝える必要はなかった。
「美奈に、プレゼント用意したんだ」
「えー、何?」
「開けてみて」
智美がにこにこしながら、鞄から包みを取り出す。
それを受け取って、包みを解いた。
それほど重さは感じない。小物か、何かだろうか。
ゆっくりと箱を開けて、中を覗いた瞬間、美奈はうめき声をあげてしまった。
「……これ、なに?」
箱の中には、お世辞にもセンスが良いとは言えない、不気味な物体が入っていた。
形容しがたい見た目の代物で、直視していられない。
「良いことが起きる置物なんだって」
「良いこと?」
「そう。同じ小学校の健は覚えてるよね。クリスマスパーティの時のプレゼント交換で健から貰ったんだけどさ、何か、これを枕元に飾ってたら良いことがあるって言われて」
「……置物、なんだ」
「そう。私もずっと仕舞って眠らせてたんだけど、最近になってそれを飾ってみたら、ほんとに良い事があったんだ。といっても、何があったかは覚えてないんだけど……」
「覚えてない?」
「うん、うっすらとこれを飾ってから何かあったのは覚えてるんだけど……具体的に何があったのかは思い出せないの。でもまあとにかく、だから本物なのかもと思って。曖昧でごめんだけど、美奈にも必要になる時がそのうち来るかなと思って」
渡された置物を、もう一度見る。
生き物を模しているのか、それとも形に意味はないのか。どう表現していいのか分からない不思議な形状をしている。材質も、良く分からない。金属っぽくもあるし、そうでない気もする。
智美には悪いけれど、これを枕元に置く勇気はない。
「あり、がとう」
「それと、これ」
智美が、小さなビンを取り出した。中には、チョコチップ入りのクッキーが入っている。
「練習して、美味しく作ったよ。行きの車の中で食べて」
型でくり抜いたのか、しっかりと見た目も整えて焼かれていて、見るからに美味しそうだ。
智美が菓子作りは全く駄目だと言うから、一緒に遊ぶようになって何度か菓子作りもした。いつの間にか、これだけのものを一人で作れるようになったのか。
「私のために作ってくれたんだね……ありがと」
嬉しくて、涙が出た。
「食べたら、感想メールする」
「うーん、あんま期待しないで」
「そんな、絶対美味しいやつだよ、これ」
「期待しすぎると、なんだこんなもんか、ってなるからダメ!」
ちょっと顔を赤らめて必死に言う様子が面白くて、美奈は笑ってしまった。
「ありがとう、智ちゃん。こっちを飾るのは、まだちょっと勇気がいるけど……」
「あはは、私も最初は飾る気起きなかったし、良いよ。必要だと思ったら、飾ってみて」
「うん」
その後は、庭の小さなベンチに座って、二人で話し込んだ。その間も、引っ越し業者は積み込みを進めていた。
「大人になったら、東京に遊びに行くよ」
「うん、来て来て。その頃には、観光案内できるようになってるかも」
「渋谷とか原宿は近いの?」
「んー、電車なら割とすぐっておばあちゃんが言ってたかな」
「良いなぁ、お洒落し放題じゃん」
「どうだろ、私、あんまりファッション得意じゃないからなあ」
可愛い恰好は憧れるけれど、智美ほどファッションセンスはない。コーディネートも何が良くて悪いのか分からないから、持っているのは一枚で着られるワンピースが多い。
「美味しいものもいっぱいなんだろうね」
「東京だもんね」
実際、東京と聞いてもどれだけ凄いところなのかは、よく分かっていない。多分、東京なら手に入らないものはないのだろう、という漠然とした印象くらいだ。
そんなところで生まれた時から暮らしている子達に、田舎から来た美奈が馴染めるのか、という不安はある。
「向こうでも友達出来ると良いね」
「うーん……私、人付き合い苦手だからなあ」
「大丈夫だよ。最初に勇気だして、話してみなよ」
「頑張る……」
「何かあったら、すぐ電話して。いつでも聞くから」
「うん、ありがと」
話しているうちに積み込みが終わり、母親と引っ越し業者が何かやり取りをした後、トラックは発進していった。近所の人もいなくなっていて、トラックを見送った母親がこちらへ近づいてきた。
「終わったよ。行こっか、美奈」
「……うん」
ベンチから、立ち上がる。
別れの時間だ。
智美の方を見る。寂しそうな表情だ、と思った。
「お別れだね」
「っ……私、美奈のこと絶対忘れないからっ」
「うん、私も忘れないよ。智ちゃんだけは、忘れない」
「大人になったら、私もお金稼げるようになる。そしたら、何回だって東京行くから」
「うん」
「メールも電話も、いっぱいするから」
「うん」
智美が、ぼろぼろと涙を流し出した。次から次に溢れ、頬を伝って地面へと落ちていく。
「絶対、会いに行くから」
「うん」
涙を流したまま、智美が抱きしめてきた。美奈も、智美の身体に腕を回す。
一緒になって、泣いていた。
「元気でね、智ちゃん」
「……うん」
これから先、智美のぬくもりを忘れないで済むように、長い間抱きしめ続けた。自分の身体に、刻み込んでいく。
それは、智美も同じ気持ちだったのかもしれない。
二人の涙が落ち着いた頃、どちらからともなく、身体を離した。
智美は、無理やり作ったのが丸わかりの、くしゃくしゃの酷い笑顔を浮かべていた。
「またね、美奈」
「またね、智ちゃん」
家の戸締りをした母親が、車に乗り込んでエンジンをかけた。
貰った置物とクッキーの入った瓶を抱えて、助手席に乗り込む。窓を開けて、横に立つ智美をもう一度見た。
泣き止んだはずなのに、また智美が泣いている。
「智ちゃんの泣き虫」
「だってっ」
拭っても拭っても、智美の涙は止まる気配がない。肩が震え、しゃくりあげるような声が、耳に、心に、突き刺さってくる。
美奈まで、また泣きそうになった。
「お母さん、行って」
無言で頷いて、母親はゆっくりと車を発進させた。
弾かれたように智美が顔を上げる。
「美奈!」
「メールも電話も一杯するから、智ちゃん!」
「約束だよ!」
「ずっと友達だから!」
「うん!」
車が家の敷地を出て、速度を上げ始める。
追いかけてくる智美が、どんどん離れていく。
窓から顔を出して、手を振った。
智美が、大きく振り返してくる。
見えなくなるまで、互いに手を振り続けた。
最後まで、智美は泣いていた。
身体をシートに戻したところで、母親が声をかけてくる。
「お母さんがこっちに戻ってくる時、美奈も来ていいんだよ?」
「ううん、いい。辛くなるもん」
引っ越した後も、家の処分や様々な手続きで、母親は何度かこちらに戻ってくるらしい。
でも、美奈はもう戻るつもりはない。
新しい場所でやっていかなくてはならないのだ。
戻ってきて、智美と会ったりしたら、気持ちが折れるかもしれない。
だから、戻らない。
景色が、どんどん流れていく。
サイドミラーを見ても、もう智美の姿は見えるわけがなかった。




