五ノ十四 「近づく終わりと始まり」
学校に再び登校するようになってから、目まぐるしく日々が過ぎた。
受験関係の事は勿論、ひと月学校に来なかったこともあって、とにかく人と話すことが続き、自宅以外で一人になる時間は皆無だった。
その忙しさもあって、吹奏楽部に来て欲しいという華や茜との約束をなかなか果たせずにいた。もうすぐ二月も終わるし、このままでは、部活に顔を出さないまま卒業してしまいかねない。
せめて一度は行っておこうと思い、萌と陽介を誘った。
土曜日で、二人は受験勉強の追い込みをしているところではあるが、二人とも息抜きだ、と言って了承してくれた。
正門の前で待っていると、約束の時間ぴったりに萌が現れ、ほんの少し遅れて陽介も来た。
「ごめん、遅れた」
「いや大丈夫」
「行こ行こ~」
萌が先を行く。久しぶりの息抜きが嬉しいのか、上機嫌だ。
ここのところひたすら机に向かい続けていたと愚痴っていた。かなり上位の高校を狙っているだけに、勉強も大変だろう。
コウキは前の時間軸も今も大して受験勉強をしていないため、その苦労はあまり分かってやれない。ただ、今日の誘いが萌にとって気分転換の機会になればと思っている。
「やっと見に行けるねえ。コウキ君、忙しそうだったから」
登校してきた初日に、萌にも部へ顔を出しに行こうと誘われていた。
「ごめんな、遅くなって」
「気にしない気にしない」
「おう、やってるな」
実習棟の四階を見上げながら、陽介が言った。
吹奏楽部の音が聞こえてくる。全体合奏で基礎練をしている最中らしい。
「結構まとまって聞こえるね」
「確か、生徒合奏は中村さんがまとめてるんだよな?」
「そう」
華は去年の秋にパートリーダーになってから、着実に頭角を現してきているらしい。もともとトランペットの技量は中学一年生とは思えないレベルだったが、人の前に立つ素質もあったようで、今は生徒合奏で全体をまとめる役も任されている。
生徒合奏のまとめ役は、前に立ってリズムを取るところからキーボードを使っての音合わせ、一人一人の音や体調のチェック、問題の的確な指摘など、やることが多い。
そのうえ自分も演奏のレベルを落としてはならないので、適当にこなしていては務まらない仕事だが、華ならそこの心配は要らないだろう。
前に立つ人間は、素質だけではなく経験も必要である。
普通は前任の上級生が引退してから就任するため、任期はせいぜい一年しかなく、素質を磨く時間が足りなすぎる。夏のコンクールなど、リーダーになって半年程度でやってきてしまうのだ。
その点、華は三年の夏までに時間があるし、これからさらに伸びていくはずだ。
リーダーが優れているかどうかが部の力に大きく影響するから、華が成長すれば、いよいよコンクールで上の大会へ行ける日が来るかもしれない。
「伊藤が、よく任せたな」
「だよね~。普通後輩にやらせないし、先生が良いって言わないよ」
伊藤隼人は二年生で、新たに部長を務めている。コウキ達が引退する時に、三年生の総意で顧問の山田に推薦した。
特別、前に立つ素質が優れている男ではない。だが、やれることはやり、やれないことは年齢関係なく人に任せ、顧問であろうと言うべきことは言う、ということが何の気負いもなく出来る子である。
上下関係に縛られず、誰もが対等に言い合える関係の部活動を目指すうえで、隼人のような人間が部長であることは必須だ。
隼人は、人を見る目もある。事実、一年生の華に合奏のまとめ役を任せている。つまり、顧問にも部員にもそれを承知させたということだ。
実際のところ、なかなか出来る事ではない。
どうしたって三年生になれば、今年こそは、という気持ちが出てくるし、自分達で仕切りたくなるものだ。
それに、単純に技量的に三年生のほうが上であることが多い。
そこも考慮したうえで後輩に任せるのは、自分達の代だけでなく、後の代までを見据えている証拠といえる。
中学生でその選択が取れる事だけを考えても、隼人には部長の才能があると断言出来る。
「隼人君に部長任せて正解だったねえ、三木君。三木君が伊藤君を強く推したもんね」
「ああ。今年は分からないけど、来年にはほんとに県大会に行けるかもな」
「県大会か……俺らも高校では行きたいよなぁ」
「私達はその前に受験受かるかと、レギュラーになれるかでしょ……」
「まあな」
陽介と萌は、同じ高校を目指している。二人とも高校でも吹奏楽を続ける組だ。
二人の目指す高校は、学力も相当に高いが、吹奏楽部の技量も地域では最高峰に位置する。部員数も多いらしいから、まずレギュラーを勝ち取る競争があるのだ。
「高校では、二人は競い相手か」
「三木君もこっち受ければ良いのに~」
「ほんとだよ。なんでわざわざ隣町?」
「んー……ちょっとした思い入れがある部で、どうしてもあの吹奏楽部に入りたいんだ」
「ふーん……?」
確かに、萌や陽介と同じ学校に通い、また三年間部活を共にするというのは魅力的だ。意思の疎通ができる仲間がすでにいるという状況は心強くもある。
だが、それ以上にあの高校でもう一度やりなおしたい。その想いは、この時間軸に戻ってきた時から、何よりも強いものとして心の中にある。
中学校の皆との繋がりは、高校が別になる程度で切れるものだとは思っていない。だから、離れることになっても、寂しさはあるが不安はない。
靴を履き替えて、音楽室へ向かった。
洋子や華には、三人で見に行くことは伝えてある。
「はー、それにしても緊張するなあ」
「なんで? 緊張するとこあるか?」
陽介が笑っている。
「いや、不登校だったことがバレてるんだから、当然じゃん」
「あー、そういうことか」
二人は、コウキが引きこもっていた事について知っている。だが、理由までは知らない。それでも、変わらない態度で接してくれている。その変わらなさが、嬉しかった。
後輩達は、どうだろうか、とコウキは思った。
音楽室に着くと、コウキが気持ちを整える暇もなく、萌が引き戸を開けた。勢いがつきすぎて、扉が大きな音を立てる。
驚いた部員が演奏を止め、一斉にこちらを見た。
「おはよー! ごめん、強く開け過ぎた!」
頭をぽりぽりとかきながら、萌が苦笑いを浮かべている。
三人の姿を認めて、部員が騒ぎ出した。
「はいはい、皆、静かにして」
隼人が立ちあがって手を叩いた。興奮気味だった部員も、それですっと静まる。
「まだ合奏中だから、先輩達を歓迎するのは後にしよう」
「はーい」
部員の返事を受けて、隼人は前に立つ華に、仕草で続けるように伝えた。
頷いて、華が基礎練を再開させる。
三人で顔を見合わせた。
隼人が、一瞬で部員を静めた。部員がすんなりと指示に従えるのは、信頼されているからこそだ。やはり、部長に推薦して間違いではなかった。
扉の前に立っていると部員の気が散るだろうと思い、音楽室の後ろのほうに移動する。
打楽器の前を通る時に洋子が手を振って、口の動きでおはよう、と伝えてきた。
洋子とは、登校を再開した日に話した。洋子は、責めることも拒否することもなく、ただコウキを肯定してくれた。それで、心が楽になった。
コウキ自身は、すぐに考えを切り替えられたわけではない。洋子を裏切ったと思われても仕方が無いことをしたのは事実なのだ。
だが、洋子が何事もなかったかのように接してくれるおかげで、徐々に普通に接することができるようになってきている。
同時に、洋子の強い想いを改めて知って、自分はどうなのだ、と考えることが増えた。
美奈のことを忘れられたわけではない。だが、美奈との関係はもう終わったのだ。
あそこまで想ってくれる洋子の気持ちに向き合うほうが、大切だろう。
すぐに答えの出せるものではないが、あの日、洋子がくれた言葉は、深くコウキの心に染みこんでいる。
基礎練が終わる頃を見計らって、顧問の山田が入ってきた。挨拶をして、合奏が始まった。
休日の練習は、大体朝の基礎練の後に合奏で、昼を挟み、午後も合奏やパート練習が行われる。
春に老人ホームでミニコンサートを行うらしく、その曲の合奏だ。
演歌を演奏するようで、その独特の歌いまわしを指導するために、山田の指導は熱を帯びていた。
二時間ほどの合奏で、昼休みに入った。
部員が群がってきて、三人とも囲まれる。
「先輩達も一緒に食べましょう!」
「分かった分かった、皆でな」
大勢で食べる場所が無いので、中庭に出ることにした。
中庭に適当に座って、持ってきた弁当を食べ始める。何となく三人それぞれの周りを後輩が囲む形になっている。
「コウキ先輩、来るの遅いですよー、待ってたんですよ、私達」
「ごめんな、忙しくて」
「もう元気になったんですかー?」
「うん、少しは」
「そんなに忙しいんですか?」
「引きこもってたわけだし、受験のこととか、色々ね」
次から次へと質問を投げかけられ、一つ一つに答えていく。現役の頃は、いつもこうだった。まだ引退してから数ヶ月なのに、懐かしい気がする。
他の二人を見ると、萌は洋子や茜といった仲が良かった子に囲まれ、陽介は隼人や華らリーダー達と真面目な表情で話をしている。陽介はコウキの代の部長だったから、部のまとめ方などを相談しているのだろう。
昼食は、終始賑やかに過ぎていった。
後輩も、コウキを変な目で見てくることはなく、事情を聞いてくることもなかった。
つくづく周りの人に恵まれているのだ、とコウキは思った。
結局、引きこもったことに関して、学校で嗤われたり馬鹿にされたりは一切ない。
周りの友人達が、陰で動いてくれていたおかげだ。
互いに助け合える関係をつくりたいと思って、この約三年半、人と関わってきた。実際にこうした状況になってみて、それは間違っていなかったのだと改めて確信が持てた。
いつまでも、この日々を続けていたいと思ってしまう。仲間や友人と、ずっと一緒に居たい、と。
だが、中学校生活は、もうすぐ終わる。
今しか味わえない時間だと思うと、胸の辺りがぎゅっと掴まれるような感覚がした。
高校に早く行きたい気持ちはある。だが、この部もこの学校も、コウキにとっては離れがたく、かけがえのない大切な場所になっていた。
あと少しでそこから旅立たなくてはならないという事実が、寂しさや苦しさといった感情を日に日に強くしていく。
後輩の話を聞きながらも、コウキの心はざわついたままだった。




