五ノ十三 「洋子の気持ち」
「洋子ちゃん、帰ろ」
「うん、あとちょっとー」
楽器を片付けて帰り支度も済ませた華が、声をかけてきた。
部活動が終わると、全ての打楽器は部員以外が触らないように、音楽室の隅にカバーをかけてまとめて置いておく。
下校時刻が迫っているため、その作業をしていた。
毎日片付けるのは大変だけれど、何気なく体重をかけられたり変に触られると壊れたりするから、重要な仕事なのだ。
全ての打楽器を片付け終えて、問題が無いか確認をして、鞄を背負った。
「じゃあ、文ちゃん史君、また明日!」
同期の打楽器の二人に手を振る。
二人が手を振り返してきて、洋子は華と音楽室を出た。
今、打楽器パートには三人しかいない。
前までは二年生が二人いたけれど、二人とも事情があって部を辞めてしまったのだ。それで、今は一年生の三人で打楽器を回している。
「パートリーダーは決まった?」
「ううん、まだ」
打楽器パートの空席となったパートリーダー職に、三人のうちの誰を就けるか、顧問の山田が考えている最中だった。
下校の音楽が、校舎内に流れている。すっかり聞き慣れた曲で、これを聞くと一日が終わる気分になる。
下駄箱で、靴を履き替えた。
「文ちゃんで良いと思うけど」
華が言った。
「私もそう思う」
文はのんびりとした性格ではあるものの、楽器の知識が豊富で教えるのも上手い。パートリーダーに向いているだろう。
洋子は初心者だし、史は技術は高いけれど女の子が苦手で、文と洋子以外の子に話しかけているところをあまり見かけない。
洋子や史だと、春に入ってくる新入生をまとめられるのか不安がある。
「いつ決まるんだろ」
「先生は、明日か明後日には決めるって言ってたけど」
「へえ」
実質三人で協力して回しているから、パートリーダーが決まったからといって、特別何かが変わるわけでもない。
だから、洋子も深くは考えていなかった。
「あれ? 三木先輩じゃない?」
校門を出て少し歩いた辺りだった。華が指さした方に目を向けると、確かにコウキだった。
小走りでやってきて、洋子達の目の前で止まった。
外に出られるようになったのか、と洋子は思った。
ずっと走ってきたのか、肩を激しく上下させている。
久しぶりに会ったコウキは、少し髪が伸びて、全体的に痩せたように見えるのは気のせいではないだろう。
二人で見つめあっていると、突然、華が両手を勢いよく叩いた。
「あーっと、忘れ物した。ごめん、洋子ちゃん。先帰ってて!」
「えっ?」
「先輩、こんにちは。学校来れたんですね、良かったです。部活にもまた来てください。色々相談したいんで」
「あ、ああ、分かった。ありがとう、華ちゃん」
「いえいえ。じゃ!」
「あっ、華ちゃん!」
止める間もなく、華は全速力で来た道を引き返していった。
呆然として、それを見送る。
「洋子ちゃん」
「はいっ」
声をかけられて、どきりとした。振り向くと、コウキと目が合う。
「久しぶり」
「……久しぶり」
「一緒に帰りたいんだけど、良いかな」
「あ、うん。もちろん」
ほっとした表情を、コウキが見せた。そのまま、どちらからともなく歩き出す。
この時期だと、下校する頃には完全に日が落ちていて暗い。慣れた道でも少し怖いくらいだ。
けれど、今は隣をコウキが歩いているからか、いつもの怖さはない。
横目で、コウキを見た。
たったひと月なのに、随分長い間会っていなかったような感覚だ。
一度、家に様子を見に行ったことはあるけれど、会ってもらえなかった。
後で、拓也は会えたと本人から聞いた。
それで、何となく理由が想像できた。洋子には会えないような事情だとすれば、それはきっと、美奈と何かあったのだろう、と。
もしそうなら、洋子が近づくと、コウキは不快な気持ちになるかもしれないから、会わない方が良いのだろう。
そう考えて、コウキが元に戻るまで、自分から近づくことをやめた。
本当は、すぐにでも会いたかった。会って、洋子がそばにいる、と言いたかった。
けれど、我慢した。それを言ったところで、コウキには届かないと思ったのだ。
だから今、コウキから会いに来てくれたことが嬉しかった。
「洋子ちゃんに、お礼を言おうと思って来たんだ」
コウキが言った。
「お礼?」
「引きこもっている間、俺に近づかないように気を遣ってくれてたって聞いた。ありがとう」
「い、良いよ、そんなの。何もしてないもん、私」
「いや、その何もしないことが、すごく有難かったんだ。おかげで、立ち直るのが早くなれたように思う」
真剣な表情で言われると、嬉しいような恥ずかしいような感じがして、思わず目を逸らしてしまう。
久しぶりに話せていることも嬉しくて、先ほどから心臓がうるさいくらいに早い。
交差点で、車が目の前を横切っていった。それを見送って、他に車が来ないことも確認して、左に曲がる。
本数の少ない街灯が頼りで、車がすれ違えないくらい細い道である。誰かと一緒に帰る時しか使わない道だ。
「今日、学校に行ったんだ。それで、昼に司書室にいるって聞いたから、洋子ちゃんに会いに行った」
「え、そうだったの?」
「うん、でも……引き返した。合わせる顔が無いとか、洋子ちゃんにどう思われているのかとか考えたら、会うのが怖くなって、扉を開けられなかった」
二人とも、歩く早さが自然とゆっくりになっていた。
ベルの音が後ろから聞こえて、脇を自転車が走り抜けていった。
「だけど、さっきまで拓也と話してて、気がついたんだ。それって自分のことしか考えてなかったんだなって。だから、ちゃんと話がしたかった」
コウキが、一度、大きく息を吸った。
「俺、ずっと洋子ちゃんの気持ちも考えないで自分の気持ちばかり優先してた。洋子ちゃんを傷つけてたと思う。最低だよな。でも……それでも、まだ洋子ちゃんと前みたいに戻りたいと思ってる」
「……うん」
「洋子ちゃんが許してくれるなら、また、一緒にいてほしい」
唇をぎゅっと結んで、俯いている。
これほど自信なさげに、不安そうな表情をしているコウキを見るのは、初めてだった。
こうなっている理由は、なんとなく洋子には分かる。
恐らく、二人で新しくなった町の図書館に行った日に、川原で洋子とした約束を気にしているのだ。
あの時コウキは、想いを告げた洋子に対して、高校生になってもまだ好きという気持ちがあるなら真剣に考える、と応えた。
洋子とそう約束したのに先に美奈と関係を進めようとした、とコウキは考えているのだろう。
誰かにコウキが引きこもった理由を聞いたわけではない。漠然と、そうなのだろうという気がしているのだ。
「顔を上げて」
足を止めて、コウキのほうを向いた。コウキも止まって、ゆっくりと、洋子を見てきた。
「許すとか許さないとか……ないよ。私は傷ついてないし、コウキ君のことを最低だとも思ってない。私は、ずっとコウキ君のそばにいる、って約束したじゃん。コウキ君が誰とどうなったって関係ない。聞くつもりも、聞く必要もない。コウキ君に頼まれなくたって、私はコウキ君のそばにいるから。私が、そうしたいから、するんだよ」
言葉が、すらすらと出てくる。思っていることが、素直に言葉になっていく。
コウキの右手を取って、優しく握った。
「……あの時の川原での約束を、気にしてるんでしょ?」
尋ねると、一瞬、コウキが驚いたような表情になった。それから、また目を伏せて、小さく頷いた。
「やっぱり。でも私、高校生になるまでに、コウキ君が他の人と何かあったら許さないなんて言ってないし、思ってもないよ。私は好きでコウキ君のそばにいる。ただそれだけだもん。コウキ君が悩む必要なんてない」
「でも」
「そりゃあ、少しだけ、少しだけだよ。コウキ君の気持ちが他の人に向いていることで苦しいって思ったこともあるけど……でも、それで私は諦めたりしないよ。コウキ君が他の人とどうなったって、私には関係ない。絶対に私に振り向いてもらうから」
思わず言って恥ずかしくなってしまい、照れた笑いを浮かべて、誤魔化した。
繋いだ手に目を落としながら、コウキが訊ねてくる。
「なんでそこまで……俺なんかを?」
聞かれて、一瞬考えた。
コウキの手を握ったまま、歩き出す。ちょっと遅れてから、コウキも並んできた。
「コウキ君が私を変えてくれたんだよ」
「俺が?」
「そう。暗くて、いじめられてて、絵本ばっかり読んでた私が、今、毎日楽しいって思えるようになったのはコウキ君のおかげ。コウキ君がいたから、私は毎日幸せって思えてる。俺なんかって言うけど、私にとってコウキ君は誰よりも特別で、凄い人で、大切な人なんだよ」
笑いかける。今度は、ちゃんとした笑顔を見せられたはずだ、と洋子と思った。
全て、嘘偽りのない本心である。
「絵本室でいじめられてたあの日、コウキ君に助けられて、気にかけてもらえなかったら、私は今もいじめられっ子のままだったと思う。ドラムと音楽に出会えて、華ちゃんや先輩達と仲良くなれて、コウキ君と拓也君っていう大切な人も出来て」
信じられないくらい、毎日が楽しくなった。
「全部、コウキ君のおかげだったよ」
繋いだ手に、力を込める。
「私は、コウキ君が好き。だから、頼まれたって離れないもん!」
繋いでいる手を掲げて見せて、また笑っていた。
今まで、心のどこかで、コウキにもう一度気持ちを伝えてはいけないのではないかと考えていた。待つと決めたのに、何度も伝えるのは違うのではないかと。
伝えれば伝えるほど、コウキの心の負担になる気がした。
それで、川原で気持ちを伝えて以来、直接コウキに好きと言ったことは無かった。
けれど、そんなことはなかった。
むしろ我慢していたせいで、コウキと美奈のことで暗い気持ちになったりした時もあったし、こうしてコウキに余計な不安を感じさせていたのかもしれない。
伝えたら、抑えていたものが弾けたように、心が軽くなった。
想いを口にするのが、気持ち良かった。
高揚感のようなもので、胸の辺りがふわふわとしている。
自分は、もっと沢山好きとコウキに言いたかったのだ、と洋子は思った。
隣を歩くコウキが、左腕の袖で目元を拭った。それに気がついたけれど、洋子は見ないふりをした。
繋いでいる手に、少しだけ力が込められるのを感じた。




