四 「青虫、空、ボール」
小さい時から、人見知りが激しかった。
もっと他人と話したいと思っているのに、話しかけられない。他人から話しかけられても、すぐに思った事を言えない。言おうとする頃には、呆れられて離れられてしまう。
それで、女の子からは仲間外れにされがちだった。いじめ、というほどではない。ただ、疎外感は感じた。
男の子からは、いつも馬鹿にされている。無口でいたいわけではないのに、それをからかわれて、余計に話せなくなる。すぐに泣くのも、面白いらしい。分かっていても、悲しくて、泣きたくなる。
学校が嫌だとは、家族には言えない。行きたくなくても、楽しい振りをして、いつも家では笑っている。
笑うのは、家が心が落ち着く場所だというのもある。心配をかけたくないという気持ちも、大きい。
朝になると、憂鬱になる。学校に行かなくてはならないと思うと辛い。けれど、もう慣れてしまって、諦めてもいた。
放課の度に、絵本室へ逃げ込む。静かで、絵本に囲まれたこの部屋が、学校での逃げ場所だった。
たった十分の休み時間でも、教室にいたくない。一人でいる方が、気が楽だった。
絵本を読むと、心が安らぐ。空想の世界や、優しい世界が、心を解してくれる。
「洋子ちゃん、次は何読む?」
「これ」
青虫が、成長していく絵本。色とりどりの食べ物を、青虫が食べ進んでいく。
色使いが綺麗で、一番好きな絵本だった。もう、何度読んだか分からない。
「あー、それ面白いよな。よし、読もう」
絵本だけでなく、絵本室そのものが楽しいと思うようになったのは、この人が来るようになってからだった。三木コウキと名乗った。
先週、クラスメイトの男の子二人が絵本室まで追いかけてきて、からかってきた事があった。絵本を読んでいた洋子を馬鹿にして、絵本を取り上げてきたのだ。
こどもみたいだと笑われて、悲しくて、泣いた。そこへ、コウキが助けに入ってくれた。
泣き続ける洋子の頭を撫でながら、絵本を読んでくれた。
なぜ、そんな事をしてくれるのか、分からなかった。
それから、絵本室に度々来てくれるようになった。一日に一度は来てくれる。
初めは、目的が分からず、警戒していた。
そのうちに、本当に自分のために来てくれているのだという事が分かった。
おかげで、少しずつコウキと話す事が出来るようになった。
まだ、思った事はすべて言えない。けれど、他の子に対してよりは、話せる。
隣で絵本の頁をめくるコウキの顔を見た。窓から差し込む光が、コウキの白い肌を照らしている。
六年生だという。もっと、年上に見える気もする。
「ん、どうした」
洋子の視線に気がついたコウキが、笑いかけてくる。
慌てて、首を振った。
この人は、洋子を傷つけない。洋子を、守ってくれる。
何となく、そんな風に感じるようになっていた。
洋子のたどたどしい言葉を、笑って聞いてくれる。
うまく言葉が出なくて泣きそうになると、頭を撫でてくれる。
先週まで見ず知らずの人だったのに、コウキからは、包み込むような優しさを感じる。
本物の兄でさえ、こんなに優しくはない。
この人は、何なのだろう。何故、優しくしてくれるのだろう。
ただ、洋子にとっては、コウキがいる絵本室が、心地よかった。
放課の度に絵本室に行って、コウキが来ていないと、寂しいと感じ始めていた。
次は来るだろうか、明日は来るだろうか、と待ち遠しい気持ちになる。
敬語は要らない、とコウキは言った。
友達だろ、とも言われた。
男の子の友達は、初めてだった。
年上の友達なんて、あり得るのか、という疑問はある。けれど、コウキは確かに、友達という気もする。兄という気もする。不思議な人だ。
陽の光が溜まる絵本室は、暖かい。
コウキの言葉が、態度が、洋子の心もあたたかくする。
いつのまにか、絵本の青虫は、蝶になっていた。
ブランコで、揺れている。
力を入れなくても、足を軽く振れば、ブランコはどこまでも揺れ続ける。ふわふわとした感覚と、戻る時の軽いジェットコースターのような疾走感が、心地良い。
ブランコが一番前まで来ると、身体は仰向けになり、晴れ渡った空が見える。
空が、好きだった。
空なら、何時間だって見ていられる。
何が、そんなにも心を惹きつけるのか、智美自身にも分からない。
ただ、空は空としてそこにあって、智美にはそれが素敵なものに見える。
雲一つない青空も、大きな雲が浮かぶ夏空も、雨の日の暗い空も、星が溢れる夜空も、全て好きだ。
一日として、同じ空は無い。
そんなに眺めていて、飽きないのか、と人に言われる事もある。
こんなにも豊かな空に、飽きる事などあるわけがなかった。
「あれから、どうなった、里保?」
隣で揺れていた里保に、声をかけた。何の話か、里保にはすぐ分かったらしい。
「ちょこちょこ、話してるよ」
「そっか。もう、大丈夫なの?」
「まだ、分かんないけど」
「無理してない?」
「……うん、ちょっと、混乱してるだけ」
夏休みの最後に、偶然会ったコウキが、里保に謝った。その事についてだった。
五年生の時に、三人は同じクラスだった。コウキは、クラスで里保をいじめた。キモイ、ウザイと言って、里保を省こうとした。
里保は智美の大切な友達で、コウキも、そうだった。コウキとは、二人で遊んだ事もある。
だけど、コウキはいじめをする人間だった。それも、智美の大切な友達を、だ。許せなかった。
だから、嫌いになった。
そのコウキが、謝ったのだ。何がコウキにあったのか、分からない。
そもそも、コウキ自体が、分からない。謝るなら、何故いじめたのだ。
分からなくて、今は、里保とコウキの間に入る事が出来なかった。
里保も、急な事で、戸惑っている。
昼放課で、校庭は生徒で溢れている。この小学校では、昼放課になると大勢校庭に出てきて思い思いの遊びをしている。
智美と里保は、ブランコに乗る事が多かった。
不意に、サッカーをしていた集団から弾けたボールが、こちらに転がってきた。里保が立ち上がって、ボールを受け取る。
近寄って来たのは、コウキだった。
「吉田さん、ごめん、ありがと!」
「はい」
ボールが、里保の手からコウキの手に渡される。
笑って、コウキがサッカーに戻っていった。
コウキは、前はあんなに爽やかに笑う子ではなかった。サッカーも、あんなに楽しそうにする子だっただろうか。どちらかというと教室内で過ごす方の男の子だった気がする。
夏休みの間に、何かあったのだろうか。
いや、あったとしか思えない。
けれど、それを聞くことは出来ない。
何となく、コウキには話しかけられそうにない。
普通に話そうと努力している里保は、凄い。いじめられていたのに、忘れようとしている。
智美が里保の立場だったら、出来ただろうか。とても、難しい行為だと思う。
空は、変わらず青い。
智美が悩もうと、空にはそんな事は関係ないのだろう。いつも上にあって、智美を見下ろしている。
空が羨ましい、と智美は思った。