五ノ七 「どうすれば」
最後に美奈と会って以来、学校に行く気が起きず、三週間近く引きこもっていた。
もう二月になっている。
何をするでもなく自室のベッドに寝転がっているだけで、トランペットも吹いていない。腕は、かなり落ちているだろう。
すべてがどうでも良かった。
あれ以来、目に映る鮮やかなはずの世界も、色褪せて見えてしまっている。
親には何度も、学校に行け、進学はどうするのか、と言われた。
だが、受けるつもりの高校は、今の学力なら勉強など全く必要ない。登校しなくても受験さえすれば、卒業も進学もできる。
たまにはわがままを言わせてくれと頼み、親には見て見ぬふりをしてもらっていた。
美奈とは最後に会った日以降、連絡は取っていない。取れるわけもない。
ただ、後悔だけが内側で暴れまわっている。
猛烈に悶えたくなり、ベッドの上で転げ回る時が何度もあった。
思っている以上に、自分は恋愛に弱いのだ、とコウキは思った。
そばにいる時は相手に近づくのを怖がり、手からすり抜けていけば、身を焼きかねないほどの後悔の念に苛まれる。
こういう後悔をしたくないと思っていたはずなのに、無様である。
それに、浅ましい。
どれほど悲しい、辛いと嘆いても、腹は減るし眠くもなる。欲求には抗えない。
今はこんな気持ちでも、しばらくすれば元に戻るだろうということも分かっているし、引きこもっていても解決しないことも理解している。
愚かで馬鹿な自分を、高いところから冷静に見下ろしているような気分すらする。
こんなことをしていても無意味だとは分かっていても、今は何かをする気になれない。
誰かを好きという気持ちが、これほどまで自分を弱く情けないものにするのか。
自嘲し、こんなことになった結果を責め、悶えているうちに、疲れて眠っていた。
そのうち、何度も鳴らされる呼び鈴の音が不快で目覚めた。
親が出るだろうと思ったが、誰も反応しない。
また、呼び鈴が鳴らされる。
出掛けているのか。
いつもなら無視をするのに、何となく、出てみようかという気になって、扉を開けに行った。
「あ」
扉の向こうには、智美が立っていた。
「智美」
「久しぶり……」
「……うん。何か用か」
「どうしてるかな、って……心配になって様子見に来た」
久しぶりに智美を見た。
当たり前か。三週間近く会っていなかったのだ、とコウキは思った。
制服姿だが、今は学校のはずだ。
「別に、普通。学校じゃないのか?」
「抜けてきた」
苦笑しながら、智美が言った。
「ちょっと、上がらせてもらえる?」
今は人と話す気にはなれなかったが、真剣な智美の表情に圧されて、招き入れた。
「空気、こもってるよ」
部屋に入ると、智美が窓を開けた。
「引きこもってるから分かんないわ」
「学校、来ないの?」
冷たい風が入り込んできた。智美のスカートが風でひらひらと揺れる。
ぼんやりとそれを眺めながら、頷いた。
「皆、心配してるよ」
「卒業式と受験日だけは外に出る」
「そんな、もう皆といられる時間、残り少ないんだよ」
「そういう気分じゃなくて」
目を合わせるのも面倒で、あぐらをかいたまま床に視線を落とした。
「元気出せって言っても、難しいかもだけど……」
「分かってるなら言うなよ」
「なっ」
接する態度が冷たくなっているのは、自分でもわかる。
だが、他人に気を遣う気力もなかった。
「今だけだ。今だけ、休みたい。何もしていたくない」
「トランペットは?」
「吹いてない」
「あんなに好きで、一生懸命練習してたのに」
「気分じゃないのに吹いても、無駄だし」
智美が目の前に座ってきた。智美の足が、視界に入る。細い。そんな感想が浮かんだ。
それだけだった。
「あとひと月ちょっとしかない。もう、今のメンバーでいられるのは、少しだけなんだよ。このまま顔を合わさず卒業なんて、嫌だよ」
「分かってるよ」
そろそろ、帰って欲しかった。
その後も、色々と言われた。
智美は、美奈と会うために協力してくれた。それについて感謝はしている。
だから追い払うことは出来なかったが、話は、全く心に響いてこなかった。
適当にやりすごして、帰した。
ベッドに戻り、寝転がる。
休むのは、今だけだ。
学校に行けばあれこれと聞かれるし、また誰かの相談に乗ったり、人助けをしなくてはならない。
今の気分のまま、他人の世話に手を焼きたくない。
嫌ならしなければ良いだけだが、目の前にすると放っておけなくなる。
だから、面倒だ。
久しぶりに会ったコウキは、寝癖がつき脂で固まったようなボサボサの髪に、何日も着替えてなさそうなだらしない恰好で、生気のない顔をしていた。
風呂も入っていないのか、近づくと少し臭ったし、部屋の空気は悪かった。
三週間、ずっとあの調子だったのかもしれない。
話はしたけれど、コウキの心には何も届いていない気がした。
今は、何を言っても届かないのかもしれない。
だけど、あのまま放ってはおけない。このまま卒業なんて、誰も喜ばない、と智美は思った。
クラスは、コウキがいなくて、何となくまとまりを欠いた感じになっている。
決してリーダーではなかったけど、コウキは不思議とクラスの中心になっていた。少し仲の悪いグループも、コウキが間に入ると、自然と一緒に過ごしたりしていた。
目立たなくても、コウキがクラスの雰囲気を作っていた。
そのコウキがいないし、受験も近づいていることもあって、教室はピリピリとしている。
何より、智美が楽しくない。
コウキと他愛もない話をしたり司書室でサボって、公園でコウキの音を聞きながら空を見る。
何てことはない時間だったけど、幸せだった。
あの時間が無くなって、寂しい。それが、智美の素直な想いだ。
好きという感情ではない。
ただ、智美にとって、大切な人なのだ。
仲直りをして一年も経ってない。それでも、コウキとは親しい仲だと思っている。
時間の長さなんて、関係なかった。
こんなことになったのは、智美がコウキと美奈の間に入り、二人が会う事になったからだ。
だから責任を感じていた。
二人の関係に対して、智美に出来る事は何もなかったとは思うし、会ったほうが良いとも思っていた。
会わずに終わったら、今より酷い状況になったかもしれないとも思う。
それでも、もう少し何か出来ていたら、という考えが何度も浮かんだ。
今は、とにかくコウキを立ち直らせてあげたい。そうする責任が智美にはある。
すぐには無理でも、学校に通えるようになってほしい。
コウキを待っている人は大勢いる。すぐには元通りにはなれなくても、周りの人がコウキを支えてくれる。
智美にも皆にもコウキが必要なように、コウキにとっても、今必要なのは友達の存在だ。
けれど、そのためにどうすれば良いのかは何も思い浮かばなかった。
学校の裏門の前に立ち、校舎を見上げる。
一度学校を抜け出してコウキの家に行っていた。今から教室へ戻れば、5時間目には間に合うだろう。
しかし、そのまま授業に出る気が起きなくて、智美は司書室へ向かった。
司書の教師に挨拶して司書室に入ると、洋子がいた。
ここ最近、洋子は昼休みになるとだいたい司書室にいるらしい。
「こんにちは、智美先輩」
「こんにちは。隣良い?」
頷いて、洋子がソファを少し横に移動した。空いたスペースに座る。
「コウキのとこに行ってきたよ」
「どうでしたか?」
「駄目。色々話したけど、多分耳に入ってない」
「そう、ですよね」
「コウキなら、多分そっとしておけばそのうち自分で立ち直ると思う。でも、それを待ってるうちに、中学が終わっちゃうよ。それが嫌だ。もっと皆でいたいのに」
「分かります。部活の皆も、コウキ君に顔を出してほしいってずっと待ってるんです。様子を見に行きたいって言う子が何人もいるけど、止めてます」
「今行っても、嫌がられるだけだね」
洋子も一度、様子を見に行ったらしい。けれど、洋子は家に上げてもらえなかったそうだ。
洋子にコウキがこうなった原因を話すか悩んで、まだ話していない。
ただ、何となく洋子は美奈に関することだと勘づいている気がする。
「拓也君も今日また行くって言ってました」
「何回も行ってるって言ってたよね」
「はい。拓也君は行っても嫌がられないらしいです」
「なんでだろ」
「何もしないらしいです。ただ部屋に一緒にいて、拓也君は自分の本を読んだり、勉強したり。別に会話もしてないって」
拓也も詳しい事情は分からなくても、何となく察しているのかもしれない。
「どうすればいいんだろ」
智美の漏らした呟きに、洋子も頷いて、ため息をついている。
二人揃って、肩を落とすしかなかった。




