五ノ六 「終わり」
言葉が出ず、無言が続いた。
互いに顔を合わせることもなく、ブランコを揺らすこともなく、ただ座っている。
校庭の桜の樹は葉を落としていて、冬独特の寂しい姿を見せている。空は青々としていて、暖かく気持ちの良い日のはずなのに、心は重く、そのせいで景色は淀んで見えた。
「ごめんね。せっかく会えたのに、こんなことしか話せなくて」
美奈が言った。
その切ない表情を見て、コウキは胸が苦しくなった。
「……今からでも何とか…ならないの?」
思わず、言葉にしていた。
答えは、分かっているのに。
「無理。私達こどもにできることなんて、ないよ。大人の決めた事だもん。私だって、何度も行きたくないと思った。でもお母さんは……私が東京の高校へ行くことを望んでる」
母親の望みなど。
言おうとして、コウキは思いとどまった。
美奈にとって母親は大切な存在だ。それを言ったら、全てが終わる気がした。
美奈の気持ちはどこにある。
そう言いたい。だが、言えない。
コウキに美奈を問い詰める資格はない。心の中では思い浮かべたとしても、言葉にはできない。
「……もっと、一緒に居たかったね。こんなことなら、無理してでももっと早くにコウキ君に会いに行くべきだった」
悲しい笑顔だ、とコウキは思った。
そんな笑顔を、見たくなかった。
「こうしていれば、ああしていればなんて、言っても無駄なのにね。つい言っちゃうし、考えちゃうんだよね」
美奈に宛てた手紙には、力になりたい、と書いた。
だが、すでにコウキに出来る事など一つもなかった。どうしようもないところまで、進んでいたのだ。
自分以外の人にも後悔の無い人生を歩んでほしい。その助けになりたい。そんな偉そうなことをずっと考えていたくせに、今、自分も美奈も後悔を抱いている。
自分が選択を誤ったからだ、とコウキは思った。
親の願いは、こどもにとって絶対的なものに思える。
それが絶対ではないと気づくのは、大抵成長してからのことで、コウキは、それを知っていた。
だから、美奈が私立と公立で悩んでいた時、公立を選ばせることもできたかもしれなかった。
だが、動かなかった。
「俺が、美奈ちゃんに公立に行こうって言ってたら」
「コウキ君のせいじゃないよ。選んだのは、私だもん」
風が止み、車の音も聞こえない。
外にいるのに、美奈の息遣いが聞こえてきそうなほどの静寂。
「……暗い話ばっかりになっちゃうね、せっかく会えたのに。何か、気分変えて、今までの話でもしない?」
明るく装って、美奈が言った。
「今までの?」
「そう。中学に上がってからのお互いの話。小学校の時の思い出。今まで話せなかったこと、全部話そうよ」
そう言って、美奈は自分が中学に上がってからのことを話しだした。
コウキはそれを聞きながら、ぽつぽつと受け答えをした。とても明るい話を出来る心境ではなかったが、美奈が望んでいたから、応えた。
友達の話。行事の話。智美と仲直りしたこと。拓也や奈々達のこと。
コウキも、自分の思い出を少しずつ語った。
陽が西に傾き始めるまで、互いに思いつく限りの話をした。
「私ね、小学校の頃、図書室でコウキ君と静かに話す時間が一番好きだったよ。楽しかった」
夕陽に照らされながら、美奈が言った。
「……俺もだ。あの時間が、一番だった」
「ほんとに? 嬉しいなぁ」
「俺は……気を許せる人がほとんどいなかったんだ。美奈ちゃんは、俺が自然体でいられた数少ない人の一人だった」
「そっか。私も……似たような感じだったかな」
いつも、交わす言葉は少なくても、美奈とは心が通じている気がしていた。
「俺は……美奈ちゃんが好きだった」
思わず、言っていた。
言ったら、止まらなくなっていた。
「今も、好きだ。もっと早く伝えれば良かった。卒業して会えなくなって、気持ちは薄れるかと思ったのに、逆だった。どんどん強くなって……こんなことになるなら、もっと早く伝えに行けばよかった」
返事が無くて横を見ると、美奈の目に涙がにじんでいることに気がついた。それはみるみるうちに溜まっていき、頬を流れ、顎を伝って落ちた。
「……言うのが、遅かったな。けど、今言わないと、この先言える機会はたぶんもうないから……言っておきたかった」
美奈は涙を流したまま、力なく笑った。
「嬉しいのに辛いって、変だね。ずっと……そうなら良いのにって思ってた。私も、コウキ君のことが好きでした」
流れ続ける涙を、美奈が拭った。
美奈はコウキの気持ちに、何となく気づいていたはずだ。コウキも、きっとそうだろうと漠然と思っていた。
互いに通じ合っていたはずなのに、その気持ちを口にしようとはせず、近づくことを躊躇した。
今になって互いに好きだとはっきりと分かっても、もう遠く離れなければならないことは確定している。
嬉しさよりも、空しさややり切れない気持ちのほうが強い。
「もう、暗くなってきたね」
美奈が立ち上がって言った。
「引っ越すまでの間、会う機会は沢山作れると思う。でも、会えば会うほど、離れた後が辛くなる。だから、会うのは今日で最後にするね」
「そんなっ」
腰を浮かせて、美奈を見た。
「もう会えなくなるのに!」
「だからだよ」
美奈の目には、もう涙は浮かんでいない。
「だから、会わないの。でも、最後に思い出に」
そう言って、美奈がコウキの手を取った。
近い距離で、向き合う。
夕陽に照らされた美奈の滑らかな肌や優し気な目が、間近にある。
美奈が、静かに身体を寄せてきた。背中に手を回され、柔らかい感触に抱かれる。
美奈の頭がそばにあり、その黒髪から、甘い香りがした。
一瞬驚いた後、意識しないうちに、コウキも美奈の背に手を回していた。
美奈のほっそりとした身体が、腕の中にある。美奈の息遣いが、伝わってくる。
まるで心臓の音まで聞こえてくるような気がする、とコウキは思った。
どれくらいそうしていたのか。
長かったのか、短かったのか。
やがて、どちらからともなく、身体をわずかに離した。
目と目が合う。潤んでいる。
唇を、重ねていた。
ほんのわずかな時間のことだった。
そして、また抱きしめていた。
「……充分すぎるくらい、思い出貰っちゃった。これで、向こうでも生きていけそう」
耳元で、ささやくように美奈が言った。
「俺は、引きずりそうだ」
「駄目だよ。私の事は忘れて?」
「無理だって……そんなの」
強く、抱きしめる。離したくないと思った。離せば、終わってしまう。
一秒でも長く、この時間が続いてほしい。
だが、美奈は無理やりコウキの身体を引きはがした。
「駄目。私のせいで、コウキ君の時間が止まってほしくない。忘れられないなら、私との思い出は、夢だったと思って。私も、そう思うことにする」
「何で」
そんなことを言うのだ。
抱きしめた感覚も、唇の感触も、本物だ。
そんな風に、思えるわけがない。
「コウキ君のそばにいたかった。誰よりもその気持ちが強かった自信がある。でも、そばにいる役目は、私じゃなかったみたい。そういう流れだったんだね。だから、コウキ君は引きずらないで。コウキ君には、先に進んでほしい」
「無理だ」
「無理じゃないよ。コウキ君なら出来る。私は、一生分ってくらい幸せを貰ったから、もう良いの。コウキ君も、今日でおしまい。前を向いて。ね?」
コウキは、泣いていた。
終わる。
この時間が。
「今まで、ありがとう。コウキ君に会えて、本当に良かった。元気でね」
寂しそうな顔をしながら手を振り、それから美奈は背を向けた。
止めようと手を伸ばしたが、彼女を掴むことは出来なかった。
その姿が小さくなっていくのを、コウキは呆然と眺めながら、涙が頬を流れ続ける感触を感じていた。
美奈の、笑った時の柔らかな表情が好きだった。
他人を思いやれて、自分の弱さも自覚しているその優しいところも。
落ち着いた、静かな口調も。
自分より少しだけ背の高いコウキを、自然な上目遣いで見つめてくる姿も。
彼女の、すべてが好きだった。
美奈との関係が、終わった。
その事実を、コウキははっきりと理解した。




