五ノ五 「変えられない結果」
「じゃあ、確かに渡したから」
智美はそう言って、家に上がることなく帰っていった。
部屋に戻り、受け取った手紙を開封する。
コウキから手紙を貰ったのは初めてのことで、こういう気持ちはもう持たないようにしようと決めたのに、嬉しいと胸が弾むのを抑えられない。
装飾の無い封筒に、白地に線が引いてあるだけのシンプルな便箋で、そっけないな感じがいかにも男の子の手紙という印象だ。
一度、深呼吸をして、それから手紙に目を通した。
手紙に書かれた文字は、なんてことはない、言ってしまえば上手いとは言えないようなぎこちない字なのに、不思議とコウキの気持ちが伝わってくる気がする。
頭から終わりまで読んで、小さく息を吐いた。
内容は、美奈と会って話がしたいというものだった。
何かあったのなら、力になりたい。今週末、小学校で待っているから。手紙には、そう書かれていた。
心が揺れた。
会いに行こうか。そんな気持ちが、わずかに湧き出てくる。
けれど、会ってどうするのだ、と美奈は思った。
何を話すべきなのかも、分からない。
たった一通、手紙をもらっただけで気持ちが揺れてしまう意志の弱い自分が、嫌になる。
結局一人では考えがまとまらず、翌日、智美を招いて相談に乗ってもらうことにした。
「会うの?」
手紙の内容を話した後、智美が言った。
「わかんない。もう会わないって決めたのに、今は手紙を読んで、気持ちが揺れちゃってる」
「気持ちが揺れるってことは、会いたいってことなんじゃ、ないの?」
「……なんか、駄目だね、弱くて」
「そんな、弱いなんて思わないけど」
「でも、会ったとしても何を話せば良いのか分からないし、やっぱり辛いだけだろうなって思う」
「じゃあ、会いに行かないの?」
「それは……」
言葉に詰まった。
行かない。その一言が、出ない。
智美がイスをこちらに近づけて、美奈の手を握ってきた。
「私は、美奈の気持ちが大事だと思ってる。美奈がもうコウキと会わないって言った時は、すごく強い気持ちを感じた。だから止めなかった。でも今は、違うんじゃないの?」
「……一度、会わないって決めたのに、やっぱり会おうかな、なんて駄目だよ」
「駄目じゃない。気持ちなんて、些細なことで変わるものじゃん。会いたいと思ったなら、絶対会わないと後で後悔する。あの時ああしていれば、って、ずっと」
智美が、目を伏せた。
あの時ああしていれば。
それは、何度も考えた。
公立の東中に進学していれば。洋子を追うコウキを引きとめていれば。連絡を取っていれば。会っていれば。
過ぎたことなのに、思い返しては苦しい気持ちが蘇って辛かった。
後悔ばかりを繰り返してきた三年間だった。
「……智ちゃんの言う通りだね」
「じゃあ」
言葉を出すのに、勇気が必要だった。
喉が詰まりそうになるのを耐え、搾り出すように、言った。
「……会う」
声にして、ようやく、私は自分の気持ちをはっきりと自覚した。
「やっぱり、会いたい」
握られた手に、ぎゅっと力がこめられた。
智美の目が潤んでいる。
「ありがとね、智ちゃん」
うつむいて、智美は首を振った。
「ほんとはずっと、コウキと今すぐにでも会ってほしいって思ってた。会わないまま終わるなんて、絶対二人は後悔すると思ってたから。だからもう一度会うって決めてくれて、嬉しい」
「うん……。智ちゃん、私、智ちゃんが友達で良かった。一人で悩んでいたら、また新しい後悔を抱えてたかも」
「……うん」
握られた手が、あたたかい。
智美が考えを聞いて、導いてくれた。そのおかげで、自分の気持ちに少しだけ素直になれた気がする、と美奈は思った。
したいことは、しないと後悔する。
本当にその通りだ。
昨日までは悩んで眠ることも出来ず、胸がずっとモヤモヤしていた。コウキに会おうと決めたら、それだけで、すっきりと胸のつかえがとれたような感じがする。
今週末。小学校。
もう一度だけ、コウキと会おう。
会わないまま、終わらせられない。
とにかく、思ったことを伝えてみよう、と美奈は思った。
休日の昼時だと、小学校の校庭には人の姿が無い。校舎も完全に閉まっていて、学校の周囲を走る車の走行音と、時折吹く弱い風の音だけが、静かな学校に流れている。
陽は出ているので暖かいのが幸いだ、とコウキは思った。
小学生用の小さすぎるブランコに乗って、ゆらゆらと揺れながら、美奈が来るのを待った。
約束の時間は五分過ぎている。
来ないかもしれない。そんな思いもよぎったが、待てるだけ待つつもりだった。
もし来てくれたら何を話すかは考えてある。
いつも、美奈と会うと言葉が出なくなっていた。他の人と違って美奈だけは、目の前にすると緊張してうまく話せないのだ。
今日こそは、思っていることを言葉にする。心の準備は、済ませてきた。
校舎の二階の図書室が、ブランコからは見える。
よく、美奈と図書室で過ごした。人が少ない静かな空間で、他愛も無い話をして過ごすのが好きだった。
過去に戻ってきてしばらくは、拓也と洋子以外に自然体の自分で向き合えたのは、美奈だけだ。
本を人よりも読む子だからなのか、母親と二人暮らしという生い立ちによるものなのか、美奈は大人びていた。
他の子とは出来ないような話でも、美奈はしっかりと理解をしてくれた。美奈と過ごすのは、拓也や洋子と居る時とも違う、落ち着いた時間だったと言える。
だからなのか、この身体になって初めてコウキが異性として意識したのは、美奈だった。
いつの間にか、美奈の存在がコウキの中で大きくなっていた。二人でいる時間が、一番大切なものと感じるようになっていた。
だが、美奈が私立へ行くと決め、離れ離れになると分かった時、コウキは自分の気持ちを伝えないことにした。
離れても互いを思い続けるのがどれだけ難しいか、よく知っていたからだ。
中学校に上がって会わなくなれば、気持ちは薄れるだろうと思った。自然と忘れていくだろうと。
だが、会えなければ会えないだけ、気持ちは強まっていった。
自分の気持ちを押し殺すことなど、出来はしないのだと悟った。
「コウキ君」
不意に声をかけられて、振り向いた。
美奈がいた。
「ごめんなさい、遅れちゃって」
「いや」
立ち上がって、向かい合う。
「来てもらえて良かった」
どちらからともなく、並んで二台のブランコに座った。小学生向けのちいさなブランコだ。美奈も膝を曲げて座っている。
話しかけようと口を開いたところで、先に美奈が言葉を発した。
「初詣の日は、いきなり帰っちゃってごめんね」
「……いや」
「あの時は、もうコウキ君とは会わないようにしよう、って決めてたんだ。だけど偶然会っちゃったから、びっくりしてあんな態度取っちゃった」
予想外の言葉だった。
「……どうして、会わないって?」
美奈はこちらを見て、しかしすぐに逸らし、足元に目を落とした。
「何か、あったの?」
唇を噛みしめている。
美奈が話すのを、待った。
「……私ね、引っ越すんだ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
ゆっくりと、言われたことを思い返し、それで脳が理解した。
頭を殴られたような衝撃を感じ、思考が滅茶苦茶になった。
「いつ?」
「春から。東京のお母さんの実家に引っ越して、そこで暮らすんだ」
「東京」
言われていることは理解できているはずなのに、頭に入ってこない。
何故、いつまで、どうして。
疑問ばかりが浮かんできて、矢継ぎ早に質問を繰り出しそうになるのを抑えた。冷静さを保とうとしても、頭の中はかき乱れている。
「こっちの家は手放すみたいだし、もう愛知に戻ってくることは、たぶん無い。そしたら、コウキ君とももう会えなくなるってことだから。それなら、もう今から会わないでいたほうが良いじゃん、って思って、それで……」
美奈は、空を見あげた。
「辛くなるから」
小さな声で言った。
東京と愛知。あまりに離れすぎている。少なくとも、こどもである二人にとっては、遠すぎる距離だ、とコウキは思った。
「私ね、中学生になってからはいつも辛かった。心の中では私立なんて行かなければ良かったってずっと思ってた。公立を選んでればとか、もっとコウキ君や小学校の皆と連絡を取ってればとか、後悔ばっかりが頭に浮かんで、心の底から中学生活を楽しめなかった」
黙って、美奈の話を聞く。
衝撃は続いていたが、それでも、聞き逃してはいけないと思い、耳を傾けた。
「学校でも勉強、家でも塾でも勉強。他にすることがなくて、ひたすら勉強してた。学校で友達は出来たけど、そんな生活してたから遊んだりもしなかったし、私、何のために学校行ってるんだろうって思ったりもした」
二年生の時に町の図書館で偶然会った美奈は、そんなに思い詰めた様子ではなかったように見えたが、あの時からすでにそうだったのか。
コウキは、全く気がつきもせず、美奈に会えたことを喜んで浮かれていただけだった。
「自分で選んだはずなのに後悔ばっかりして、これじゃ駄目だって何度も思った。だけど、どうしても後悔が浮かんできちゃって。色々限界だった時に、お母さんから東京に引っ越すって言われた。その時も、私、嫌って言えなかった」
自嘲するような表情。
「いきなりの話で、もういっぱいいっぱいになって……そういうタイミングで、智ちゃんが会いに来てくれたんだ。それからは智ちゃんが何度も遊んでくれて、おかげで少しずつ気持ちも落ち着いてきて……。智ちゃんにだけは東京へ行くことを伝えたけど、他の子には伝えるか悩んだ。コウキ君にも」
「ひっそりと、いなくなるつもりだったの」
「……うん」
神社で会えていなかったらと思うと、恐ろしい。気がついた時にはこの町から美奈がいなくなっていたなどとなっていたら、冷静でいられなかったかもしれない。
「でもね、コウキ君から手紙を貰って、やっぱり会ってきちんと話をしようって思った。そうするべきだ、そうしたい、って思った」
美奈の目には、強い意志を感じる。
自分の現実を、受け入れている目だ。
美奈が、離れていく。
コウキは、その事実を信じたくはなかった。




