五ノ四 「手紙」
蓋を開けたままの水筒から、湯気が立ち上っている。
今日は冷えるので温かお茶を入れてきたのだが、熱くしすぎてしまった。それで、少し冷めるのを待ちながら、ぼんやりと湯気のゆらめきを眺めている。
時折吹く風が冷たい。マフラーに顔を埋めるようにしていても、露出している耳や手はひりひりとする。
智美との待ち合わせの時間より少し早いが、いつもトランペットを練習する公園に来ていた。
今日ほど寒いと、さすがに公園には誰もいない。トランペットを持って来ようかとも思ったが、今の気分で吹いても、練習に気が乗らない気がしてやめた。それに、寒さで口も手もうまく動かず、いつものように演奏できないというのもある。唇を振動させて吹く楽器は、真冬は練習場所に困るのだ。
サイレントミュートという消音器をつければ室内でも練習できるが、抵抗が強くなるため、つけていない時と吹き心地が変わる。その状態での長時間の練習は弊害も大きいので、あまり頻繁に使えなかった。
どこか、室内でじっくり思うままに吹ける場所が欲しい。高校に上がってからもそういう場所があれば練習時間を多く取れるのに、とコウキは思った。
しばらくぼんやりと待っているうちに、近づいてくる足音に気がついた。そちらに目を向けると、智美が軽く手を上げながら近づいてきていた。
「お待たせ」
「いや。寒いのに悪いな、来てもらって」
「良いよ、暇で退屈してたし」
智美は細身のジーンズに赤のローファー、フードのついたコートを着て、マフラーを巻いている。
普段から中性的な恰好が多いが、肩にかかるくらいの黒髪と、髪をかけて出している右耳に、小ぶりのイヤリングを着けているのが、うまく女性らしさを引き出している。高校生でも通用しそうな大人びた見た目なので、耳にアクセサリーをつけていても違和感が無い。
智美は私服の時は、穴を開けないで着けられるイヤリングを好んで使用していた。
「イヤリング新しいやつ?」
「あ、うん。そうそう。洋子ちゃんと華と買いに行ったんだ」
そういえば洋子が年末にそんな話をしていた。冬休みに入ってから三人で遊んだそうだ。
「似合ってるじゃん」
「へへ、でしょ」
ベンチに二人で腰かけた。
「はーっ、寒いねぇ」
手に息を吐きかけながら智美が言った。
それで、コウキは鞄にカイロを入れてあるのを思い出し、取り出して手渡した。
受け取ると、智美が嬉しそうに開封してカイロを揉んだ。
「ありがと。気が利くね」
「いつも使ってるから。ちょうどあって良かった」
「ん、それで? 何か話があるんでしょ?」
「ああ……美奈ちゃんのことなんだけど」
ぴたりと、智美の動きが止まった。そして、ゆっくりとこちらを向いてきた。表情がかたい。
何か、知っていると直感した。
「初詣に行ったら偶然会ったんだよ。それで話そうとしたら、まるで俺のこと避けるみたいにいなくなっちゃって。何かあったのかって気になってるんだけど、智美は何か知らないか?」
智美が視線を逸らした。カイロを握りしめながら、複雑な顔をしている。
一瞬口を少し開いて、しかし、何も言わない。
やはり、何か言いづらい事情を聞いているのではないか。
「俺が避けられるようなことをした覚えはないから、美奈ちゃんに何かあったんだと思うんだけど」
「もし……」
カイロを握る智美の手に、力が込められたのが見えた。
「もし、私が知ってたとしても、勝手に話せないよ」
それだけ言って、智美はうつむいてしまった。ぎゅっと唇を結んで、手元に目線を落としている。
「……そうだよなぁ」
「うん……」
智美は間違っていない。他人の悩みを簡単に人に話すなど、信頼に関わる。
分かりきったことなのに、聞いてしまった。
冷たい風が吹きつけてきて、思わず身体が震えた。
いつの間にか、水筒から湯気は出なくなっていた。一口飲んだが、すでにぬるくなっている。
やはり美奈と直接話すしかないだろう、とコウキは思った。
初詣の時の様子からして、会ってくれるかは分からないが、話さなくては何も分からないままだ。
「智美は美奈ちゃんに連絡取れる?」
「取れるけど、取ってどうするの?」
「直接会って話すしかないと思って。会ってくれないかって伝えて欲しいんだ」
コウキは、美奈の連絡先を知らない。
家の場所なら知っているが、いきなり押し掛けるのは非常識だ。誰かを経由して反応を確かめてからのほうが良い。
しかし、智美は冴えない表情をしたまま言った。
「私は……会わないほうが良いと思う」
「え、なんで?」
「今二人が会っても、良い事ないもん。コウキの力にはもちろんなりたいよ。けど、二人を会わせることが、二人のためになるとは思えない」
そこまで言うほどのことが、美奈に。
なぜ、と言いそうになったが、智美を問い詰めるのは筋違いだ。引き下がるしかなかった。
コウキと美奈が会うことが、二人のためにならない。
どうしてなのか、考えてもわからない。
ただ、この日は智美とは少し話をしただけで別れた。
家に帰って、ひたすら考えた。考えて考えて、それでも答えは出ない。
洋子や拓也に遊びに誘われたが、出かける気になれず、残りの冬休み期間も部屋に引きこもった。何をするでもなく、ただひたすら、ベッドに横になったまま、美奈に何があったのかを考え続けた。
しかし、美奈とは全く会っていなかったし、連絡も取っていなかったのだ。どんな状況なのかもさっぱり分からない状態で、自分ひとりで答えなど見つけられるはずもない。
結局、悶々とした気持ちはそのままに、三学期の始業式を迎えることとなった。
気温がかなり下がり、町に再び雪が積もった。
極寒の体育館で震えながらの始業式を終え、各教室に戻って担任の簡単な話を聞いて解散した。担任は受験に向けて気を引き締めろとか、そんな話をしていた気がする。
通り過ぎて行くクラスメイト達に挨拶を返しながら、拓也を待った。
「お待たせ。ほんで、話って?」
ほどなくしてやってきた拓也と合流して、下駄箱へ向かった。
拓也に美奈のことで相談をしたいと頼んでいたのだ。今は智美には聞いてもらえないだろう。
ただ誰かに聞いてほしかった。
初詣で起きたことと智美との話の内容を、かいつまんで拓也に話した。
黙って耳を傾けていた拓也は、聞き終えると、細く長い息を吐いた。
「で、お前はどうしたいの?」
「俺? 俺は……」
美奈に会って、話したい。
そう呟いた。
「なら、すれば」
拓也が言った。
「お前は、いつも誰にでも全力でぶつかっていくじゃん。なのに、自分自身のことになると臆病になるのな」
それだけ言って、拓也は黙った。
「……その通りかもな」
コウキは、美奈の心に踏み込むことを、躊躇していた。
彼女が私立か公立かを悩んだ時も、そうだった。彼女を思ってのアドバイスだったのは嘘ではないが、コウキ自身の気持ちを伝えることで、彼女の人生を変えてしまうかもしれないと、躊躇したのではないか。
中学生になってからも、会おうと思えば会えたのに、連絡を取ることをしなかった。
どこかで、怖がっていたのかもしれない。いずれ、かつてと同じことが起きるのではないかと。
だが、近づかなければ何も変わらないし、始まらない。
それを忘れていた。
「ありがとう」
拓也は答えず、ただ頷いた。
帰宅後、手紙を一通したためた。美奈にあてた手紙だ。
コウキの言葉を伝える手段として、これしか思いつかなかった。
その手紙を、翌日の放課後に智美に渡した。
「俺の言葉を伝えるにはこれが一番だと思った。嫌かもしれないけど、智美から渡してほしい」
手に持った手紙を見つめながら、智美はわずかに頷いた。
「……渡すだけだよ」
「それでいい」
智美の表情は冴えない。辛い役回りを任せている。だが、俺と美奈のつながりは、智美しかいない。彼女に頼むしかない。
手紙を鞄に仕舞うと、智美はそのまま歩きだした。横に並び、特に話すでもなく、二人で帰った。
「渡すけど、それで美奈が読むのかまでは、私には分からないよ」
分かれ道で一旦立ち止まると、智美はこちらをじっと見つめてきた。
「うん」
「美奈が、読んでも何も答えないかもしれないよ」
「分かってる」
「本当に、渡すだけだよ」
「助かる。ありがとう」
智美がまた口を開きかけて、目を伏せた。結局、何も言わず、背を向けて去っていった。
結果は待つしかない。
美奈なら、応えてくれるはずだ。




