十五ノ二十 「コウキと洋子 二」
体育倉庫の片付けが終わる頃には、十七時を回っていた。
ハードな片付けだった分、倉庫内は、見違えるほど綺麗になった。夏休みが明けたら、倉庫に入った生徒は皆驚くだろう。
体育教師も、満足そうな顔をしていた。
帰りは自転車のつもりだったが、洋子と華が疲れ切っていたため、バスに変更して、先に華を家に送っていった。
それから洋子を送り、家の前で、少し上がっていかないかと誘われた。
普段より早い時間だったから、断る理由はなかった。
洋子の家に入るのは、久しぶりだ。
「居間じゃないの?」
「うん、私の部屋、行こ」
「分かった」
家の中は、静かだ。まだ、洋子の両親と兄は帰っていないのだろう。
二階に上がって、洋子の部屋へ通される。ベッドと机に本棚、そして電子ドラム。
「変わってないね、洋子ちゃんの部屋」
「物が少ない方が落ち着くの」
「電子ドラムも、だいぶ使いこんだな」
「使い終わったら、毎日拭いてるんだよ」
「分かる、綺麗だもん」
洋子が、ベッドに腰を下ろした。
促されて、コウキも隣に座る。
背後の窓から、夕陽が差し込んでいる。今の時期はまだ、西日でも暑い。
洋子がエアコンの冷房を入れると、すぐに冷たい空気が吐き出されはじめた。
外で、カラスが物悲し気に鳴いている。
洋子の影が、生き物のように動き、コウキの影に吸い込まれる。
肩にかかる重さを、コウキは黙って感じた。
しばらくの間そうしていると、やがて、洋子は横になり、コウキの膝の上に頭を置いた。手を触られ、頭へ持っていかれる。そのまま、滑らかな黒髪を、撫でた。
掃除の休憩の時もそうだったが、今日の洋子は、随分と甘えてくる。
昔から、そういう時は、何かあった時だ。
洋子から口を開くのを待って、コウキは、頭を撫で続けた。
静かな時間。
二人だけのこの時間が、コウキは、好きだった。
以前は、ここに拓也もいた。
三人で、いつも一緒だった。
拓也とは、高校が別になってから、会うのは年末年始やお盆くらいになってしまった。
大学生になれば、きっと、もっと会わなくなるだろう。
大人に近づくと、自然と、そうなるものだ。
だからといって、拓也と洋子と、三人での絆が弱まったわけではない。
離れていても、三人の関係は、変わらない。
「コウキ君」
「何、洋子ちゃん」
「私ね、代表選考会の日に、月音先輩に会ったんだ」
「……えっ?」
「私が、会いたくない人と会ってる時にね、助けてもらったの」
「どういう、こと?」
洋子は仰向けになり、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「何があったのかは、具体的には言いたくなくて……ぼかすけど、それでも良い?」
「ああ」
「……その会いたくない人は、光陽高校の人なんだけどね、河合先輩って男の先輩、憶えてるかな」
「打楽器の子?」
「そう」
校内ソロコンのゲストとしてスネアドラムで参加していて、多彩な表現力を発揮して二位になっていた子だ。
「あの人に、前、ちょっと嫌なことをされて。その時も、偶然月音先輩に助けてもらったんだ」
嫌なことという表現が気になったが、コウキは、先を促した。
「その話は誰にもしてなくて……だから、知ってたのは月音先輩だけなの。それで、代表選考会の日に、また河合先輩に私が会っちゃうかもって思って、こっそり見守りにきてくれたんだって」
「そうなんだ」
「それで、代表選考会の日も、助けてもらったの」
洋子と月音。
想像がつかない組み合わせだ。
そんなことになっているとは、二人からも聞かされていなかった。ちょっと前とは、いつのことなのか。
洋子が、手を握ってくる。
「月音先輩にね、信頼できる誰かには、伝えておきなって言われて……真っ先に思い浮かんだのが、コウキ君だった。コウキ君には、知っててほしかった」
ぎゅっと、手に力が込められた。
「河合先輩は、良い人だと思ってたんだけど……なんだか、怖くなっちゃって。また話しかけられるのも……。
だから、大会の日は、できるだけコウキ君のそばにいさせてほしいの。そうしたら、近づいてこれないだろうって月音先輩も言ってたの。コウキ君に、守って欲しい」
「分かった」
「……迷惑じゃ、ない?」
「そんなわけないだろ。ずっと俺の近くにいな」
細かな事情は分からないし、分かる日も、来ないかもしれない。
それでも、洋子から頼まれたなら、応えない理由はない。
信頼して、打ち明けてくれたのだ。守って欲しいと言うのなら、全力で守ろう。
「ありがとう」
「ごめんな、気づいてあげられなくて」
「ううん、私が、隠してたことだから。それよりも、曖昧な話だったのに、ちゃんと聴いてくれてありがとう」
コウキは、首を振って、洋子の頭を撫でた。
「…………学校でも」
洋子と、目が合う。
「何かあれば、すぐに連絡して。駆けつけるから。洋子ちゃんは、俺が守るよ」
ふにゃりと、洋子が笑った。
「ただいま……」
呟きは、薄暗い玄関から続く廊下の闇に消えた。
誰の迎えも、無い。
音葉は、ローファーを脱ぎ揃えて、廊下の奥へ進んだ。
障子戸を静かに開けて、中の様子をうかがう。
部屋の中央に拡げられた布団。祖母が、寝息を立てている。
戸を閉めて、自分の部屋へ向かう。制服を脱ぎ、部屋着に着替えてから、台所で夕飯の準備を進めた。
米と水を炊飯器に入れ、スイッチを押す。かつお節と昆布を鍋に入れて、水で煮込む。冷蔵庫にあった野菜を適当に刻んで、それも鍋へ入れる。しばらく煮込んだ後に、味噌を溶く。
祖母は、昔からこの地方で生きてきた人だ。味噌は、三河地方の赤味噌しか使わないという。音葉は白味噌派だが、それでは祖母が食べない。結局、ここに引っ越してきてから、一度も白味噌は飲んでいない。
料理の準備がある程度終わったところで、音葉は、母親の部屋へ向かった。
戸を叩いてから開けると、母は、椅子に座って、ぼんやりとしていた。こちらを見もせず、反応もしない。
戸を閉めて、音葉は、自室に戻った。
畳敷きの古びた部屋。東京の家から持ってこられたのは、衣類と音楽関係のもの、そして、ほんの少しのぬいぐるみだけだった。
前は、ベッドだった。今は、敷布団だ。明かりは、天井から吊り下がる古ぼけた電球。
壁は、砂壁とか、土壁というのだろうか。ザラザラしていて、触ると粉が落ちるから、近づかない。
何もかもが古びた家で、まるで、時代に取り残されたような空間だ。
認知機能が落ちた祖母は、日に一度は難癖をつけて、母の名を呼びながら、音葉をぶつ。祖母にとっては、教育のつもりなのだろう。母は、祖母にそうされて育ってきたらしい。
それで祖母の気が済み落ち着くのならと、母の振りをして、受け入れている。
否定をして、一層暴れられるほうが、音葉にとっては、苦痛だった。
母は、と音葉は思った。
母は、狂っている。父親だった男に捨てられ、この地に引っ越してきてから、精神を病み、家に引きこもっている。
それでも生活が成り立つのは、祖母の年金と、あの男が振り込む養育費と慰謝料があるからだ。
代表選考会の日、音葉は、母に代表になったことを報告した。
ただ、ほんの少し、褒めて欲しくて。気まぐれで、報告しただけだった。
「あなたは、音楽の事ばっかり」
母は、言った。
「自分の好きなことばかりして、私のことなんて考えもしない。あの人と一緒」
それが、父親だった男のことを指しているのは、すぐに分かった。
「私は、家のこともちゃんとしてるよ」
「ほら、そんなところも一緒。仕事をしてれば、家族を守ってるだなんて」
「あの男と一緒にしないでよ!」
「そうやって、私が何か言うと怒るところも一緒。血がつながってるから、一緒なんだわ」
あの男の話をされると、頭の中が沸騰する。
音葉は、叫んで、髪をかきむしった。
それを見て、母は震える。暴力を振るうのかと、叫ぶ。
音葉は、そんなことはしないのに。
気づいた時には、家を飛び出して、泣いていた。
外は、空に浮かぶ月の光すらも分からない、灰色の世界。
いや、どこにいても、灰色だった。
人生が狂ってから、音葉の世界から、色は消えた。
トランペットを吹いている時だけ、前と同じ色彩豊かな世界に戻る。
音葉が音葉でいられるためには、トランペットを吹き続けるしかない。
もう、残されたものは、トランペットしかないのだ。
何故、自分だけが。
そんな言葉は、無意味だった。
音葉の境遇を理解してくれる者なんて、誰もいない。
音葉は、独りだ。
きっと、この先も、ずっと。




