十五ノ十八 「三木コウキ 二」
無事に代表選考会を突破できたことで、帰りの車内は、祝いのムードに包まれていた。
学校に戻ってからのミーディングも、明るい雰囲気で進み、皆の顔は晴れやかだった。
練習の成果は、着実に積みあがっていることが証明された。
これで、次は月末の東海大会が目標となる。
そのためのオーディションの日程も、改めて発表された。
十日後の、八月二十日。
最後のオーディションだ
ここで、最終メンバーと、トランペットソロの担当が決まる。
今日の華のソロは、実に素晴らしかった。隣で聴いていて、心が痺れた。
コウキだけでなく、あの場にいた聴衆や部員の心も、掴んだだろう。
そういう感情を揺さぶる演奏を、華は本番という重圧のかかる場面でも、してみせるのだ。
過去をやり直して、自分では、大きく成長したと思っている。
それでも、奏馬や正孝、逸乃や月音といった、コウキよりはるかに音楽家として優れた人間が、星の数ほどいる。華も、その一人だ。
過去をやり直して、ようやく彼らに追いつくことが出来たレベルなのが、自分だ。
才という意味では、凡庸な人間だろう。
それでも、だからここまでだ、と諦めることはできない。
そんな自分でも、皆の先頭に立つ奏者でいられるのだと、示したい。
努力は、誰もがしている。
才のある者も、必ずしている。
努力をすれば報われるなどとは思っていない。
だが、それは努力をしないで良い理由にはならない。
才がないのなら、周りがする努力以上のものを積み重ねる。
そうやって、新しい人生をやり直してきたのだ。
やることは、変わらない。
自分の価値を証明するために、出来る事をするのだ。
しゃわしゃわと、蝉が鳴いている。
家主が出てくるのを待つ間、コウキは、庭のみかんの樹を眺めていた。
柑橘系の樹は、どれも似たような樹だ。
小さな青い実がいくつもなっているが、これが温州みかんなのか、何か別の柑橘なのか、コウキには判断がつかない。
「お待たせ、いらっしゃい」
扉を開けたのは、泉だった。
「泉先生、こんにちは」
「入って」
促されて、中へ入る。
いつもなら学校でレッスンのところを、特別レッスンとして、泉の家でやることになったのだ。オーディションに向けて、最後のレッスンである。
レッスン用の防音室に案内され、楽器を出した。
すでに、泉のトランペットはスタンドに立ててある。
「昨日は、代表選考会突破、おめでとう」
「ありがとうございます」
「いよいよ、オーディションだね」
「はい。今度こそ、ソロをものにしたいです」
「僕も、出来る限りの協力をするよ。じゃあ早速やろうか」
頷いて、コウキはマウスピースをトランペットにはめた。
「まずはウォーミングアップからね」
「はい」
いつも泉とやっているものを、まず泉が吹いて、次にコウキが真似る。そういう形で進んでいく。
泉の音色、音質、そういったものを強く意識しながら、音にしていく。
十五分程度、それを済ませてから、泉に出されている課題曲に取り組む。
最近は、泉が自ら作った『リップフレキシビリティ』という楽譜が課題曲だ。
リップ、つまり唇の柔軟性を培うための基礎練習曲で、一番から七番まである。
今は、まだ二番だ。
「前回よりかなり良い感じだね」
「ほんとですか」
「うん。前より滑らかになってる。前も言ったかもしれないけど、重要なのは、必要最低限の力で、充分な音を出す身体の使い方を身に着けることだよ。
綺麗な音を出すコツは力を抜くこと、とよく言われるけど、それは力が要らないという意味じゃないからね。目的の音を出すために、最低限必要な力というのが必ずあって、その力だけ使えば良い、ということだよ」
「はい」
「そういう意味で、三木君は、もう少し高音域で力を抜けると良いね」
「意識します」
「でもね、重要なのは、高音域ではなく中低音域だよ。中低音域でいかに最低限の力で吹けるか。そして、それを音域があがっても同じように吹けるか、だからね」
「分かりました」
「それじゃ、本題、行こうか」
頷いて、『GRシンフォニックセレクション』の楽譜を取り出した。
「オーディションは、二十日だっけ」
「そうです。時間は、あんまりないなと」
「そうだね」
「どうすると、華ちゃんより良い演奏ができるのか、答えがまだ出ていません」
泉は、腕を組んだ。
「僕は、正直に言えば、三木君と中村さんの間に大きな技術差はないと思ってるよ。桜さんもね。皆それぞれに良い所があって、三者三様の魅力がある。
では、なぜ前回は中村さんが選ばれたのか。おそらく……それこそが、心の部分だと思う」
「心の、部分」
「うん。中村さんの中には、誰にも負けないほど、表現したいものがあったんだろうね。それが、音として表れた」
何を表現したいか、それが大事なんだ。
泉はそう言って、微笑んだ。
コウキが、このソロで表現したいこと。色々と、考えていたつもりだった。だが、それでは足りない、ということか。
「三木君は、このソロで、何を伝えたい?」
その問いに、コウキは、すぐには答えられなかった。
指揮者は、指揮を振るのが仕事だから、全ての箇所を、きっちりと振らねばならない。
そういう先入観があると、見やすくて拍子は分かりやすいが、音楽性に面白みがない指揮になりやすい。
若い指揮者にありがちだ。
極論、指揮者は一から十まで振る必要はない。情感豊かで目立つパートがある所は、その奏者に演奏を委ねることだって、あって良いのだ。
指揮を振るのが仕事ではあるが、指揮を振ることが必須ではない。
「丘先生も、若いじゃないですか」
丘の話に、コウキは思わず突っ込んでしまった。
「年齢ではなく、指揮の年数の話です。年数の浅い指揮者は、指揮を振らないことで表現できるものに、目が向かない」
職員室で丘と向き合っていた。
少し前に、指揮の指導を受けないかと提案されて、やることにしたのだ。
現状でも、基礎合奏や合奏練習で簡単な指揮は振っていたのだから、それをより洗練させることができると考えれば、受けない選択肢はなかった。
今日で、二回目の指導だ。
「指揮者はテンポをキープしたり、フレージングをまとめたりする役目がありますが、テンポを示すのは、指揮棒だけではない。目線、口、手指や肩、足などの、身体の些細な動き。そうしたものでも、テンポは示すことが出来ます。
指揮者はメトロノームではないのです。バンドの音楽の方向性を作り上げ、それを要所要所で示す。それこそが役目だ、と私は考えています。王子先生や鬼頭先生、進藤先輩などは、また違った考えかもしれませんがね」
「つまり、フレージングやアゴーギグの指示の方が重要、ということですか?」
「私はそう思います」
「なるほど……」
丘の指揮論は、面白かった。
確かに丘の指揮は、常にきっちりと拍を刻むようなタイプではない。時には指揮棒そのものが下げられることすらある。また、表情や身振りによって意図を伝えてくる割合が、かなり多い。
指揮棒だけでなく、丘の全身から表現される意図を読み取るのが、コウキが奏者として丘に向き合う時に、意識していることだ。
今まで、何人かの教師の指揮は見てきた。プロ奏者の演奏会で、大物の指揮者を見たこともある。
ひとりたりとも、同じ指揮をする人はいなかった。
そして、実力を備えた指揮者ほど、その指揮は型にはまらず柔軟だった。
「三木は、テンポキープは充分に出来るでしょう?」
「うーん、それなりには、です」
丘が頷く。
「指揮で奏者に、何を、どう伝えるか。それを自分なりに工夫してみなさい。明るい調子の場面では、笑顔を見せる。攻撃的で前進するような場面では、まるで歩いているかのように身体を振る。そんな風に、もはや演者と言っても良いくらいに」
「慣れなきゃですね、そういうのに」
「良く見られたいという意識が強いうちは、指揮に柔軟さも自由さも出てこない。そういう意味での自分がどう見られるかを意識するのではなく、自分の表現をどう見せれば、思った通りに伝わるか、を意識できるようになることが大切です」
「努力してみます」
「これも渡しておきます」
ホチキスで留められた、コピー紙の束だった。
丘が資料としてまとめた、指揮法の細かな話が載っている。
「凄い量」
「前も言いましたが、定期演奏会では、三木にも振ってもらいますからね」
「んーー、頑張ります」
丘が、ふ、と笑った。
「演奏会で生徒に指揮を振らせるのは、初めてのことです」
確かに、前の時間軸では、こんな出来事は起こらなかった。正孝も、奏馬も、やっていなかった。
「期待していますよ」
「はい」
「さて。もうこんな時間ですから、終わりにしましょう」
後ろの壁に目をやり、時計を見る。二時半を回ったところだ。
立ちあがろうとしたところで、誰かが、職員室の扉を開けた。
「おお、丘先生」
呼ばれて、丘が顔を向けた。
体育の教師が、扉の前で顔を曇らせている。
「他に先生は、いないですか」
「ええ、私だけですね、今は」
「そうですか、参ったな……」
「どうされましたか?」
「いや、体育倉庫の整理をしようと思ったんですが、手伝わせようと思っていた運動部共が逃げまして」
「ああ、例の」
「ええ。今日中にやりたかったのですが」
「何かあったんですか?」
「体育倉庫が、何者かに荒らされていたんですよ、三木。それで、片づけをせねばならないのです」
「へぇ」
「他に生徒はいないのですか、田中先生?」
「ええ。運動部は、全員帰ってしまったようですわ。それで、誰か先生がいればと思ったのですが」
「でしたら、私が手伝いますよ」
慌てて、体育教師が両手を振った。
「いけません!」
「何故です?」
「丘先生は、大事な大会が控えているでしょう。怪我でもして指揮ができなくなったら大変ですから」
「ですが、お一人では大変でしょう。今日はもう部活動もないですから、大丈夫ですよ」
「良いです良いです、どうにか一人でやります」
「しかし……」
「あの、俺、手伝いましょうか」
コウキは、言った。
「人手いるなら、やりますよ」
「良いのですか、三木?」
「はい」
「結構大変だぞ?」
体育教師は、コウキのクラスの体育も担当してくれている。だから、顔見知りだった。
「大丈夫ですよ」
「なら、手伝ってさしあげなさい、三木」
「分かりました」
「それじゃ、すみません、丘先生、三木を借ります」
「ええ」
「来てくれ、三木」
「はーい」
例年ならこの時期は夕方までみっちり合奏をするのだが、珍しく、丘は午後練習を早めに切り上げた。
気まぐれか、何らかの意図があってのことか。丘の性格からすると、多分、後者だろうが、あえて聞いてはいない。想像するのも、訓練になるのだ。
「あ、三木」
「はい」
「まだ残っている部員が居れば、声をかけて手伝わせなさい」
「あー、じゃあ一回上行ってきます」
「助かるな、頼むぞ、三木。先に体育倉庫に行ってるぞ。体育館横の方だからな」
「はーい」
丘が怪我の心配があるというなら、コウキや他の部員も同じことなのだが、体育教師の中では、多分生徒と教師で違うのだろう。
別に、自分から手伝いを申し出たのだから、そこは、大して気にはならなかった。怪我をしないように、慎重にやれば良いだけだ。




