十五ノ十七 「月音と洋子 二」
さすがに代表選考会ということもあって、ロビーには、人が溢れていた。その多くは出演する高校生だが、演奏を聴きに来た客もかなりいる。
天井のスピーカーからは、ホール内の演奏が聴こえている。その音に耳を傾けつつ、月音はロビーの端で目立たないようにしていた。
人垣の向こうに花田高の部員がいて、管楽器を片付けている。和やかな雰囲気を漂わせているということは、納得の行く演奏になったのだろう。
月音も客席で聴いていて、充分、東海大会へ進めるだろうと思える演奏だった。
合宿の時よりも、更に一段、高みへ上っていた印象だ。この短期間で、あれだけの仕上がりを見せたのは、さすが、丘とコウキが率いているだけのことはある。
目の前を数人の高校生が通り過ぎて、月音は帽子を目深にかぶり直した。
花田高の集団の中に、打楽器パートの子達は数人いるが、洋子の姿が見当たらない。華や、東中の子達の近くならと思ったが、そこにもいないようだ。
もしかしたら、舞台裏の打楽器の方にいるのかもしれない。
一般客が入れるのはロビーとホール内だけで、舞台裏に行くには、許可証のリボンが必要だ。
朝から部員に同行していれば貰えただろうが、一人で来た月音は、持っていない。
仕方なく、その場を離れ、歩きだす。
本当は、代表選考会を観に来るつもりはなかった。
だが、今日は愛知県の代表校が揃う日であり、光陽高校もいるということを、今朝、思い出したのだ。
光陽高校には、洋子を無理やり抱きしめた男子部員がいる。
もし、洋子がその男子と鉢合わせしたら、また怖い想いをするだろう。
一人でどうにかできるほど、洋子は強い子ではない。それに、周りの子にも打ち明けていないはずだ。
だとすれば、あの日、洋子の身に起きたことを知っているのは月音だけで、万が一を想定できるのも、月音だけということになる。
お人好し、いや、余計なお世話かもしれない。だが、何も起こらないさ、と楽観視は、出来なかった。
何も無ければ、それで良い。会う事もなく、そのまま帰るだけだ。
「こんにちはー」
どこかの学校の生徒に頭を下げられ、月音も頭を下げた。
ロビーの外へ出て、搬入口へ回る。
ブレザー姿の学校が、大型のトラックへ積み込みをしていた。
「ここもいない、か」
行く事のできない舞台裏で何かがあったら、お手上げだ。
だが、そうは言っていられない。
光陽の男子も、打楽器パートだという。もし、洋子と男子が鉢合わせるタイミングがあるとすれば、一番高いのは舞台裏だ。
入り口の方へ戻り、再び、ロビーの中へ入る。
花田高生は、まだ、ロビーで管楽器の片付けをしていた。
遠巻きに部員達の中から、万里の姿を探す。
すぐに、万里は見つかった。咲と美喜と、話し込んでいる。
本当はやりたくないが、やむを得ない。
ため息をつき、月音は、携帯を取り出した。アドレス帳から万里の番号を選んで、電話をかける。すぐに、万里が反応した。
「もしもし」
「もしもし、万里ちゃん、月音だけど」
「お久しぶりです、先輩」
「急にごめんね、私、今コンクールの会場に来てるの」
「えっ、ここにですか?」
「うん」
万里が、周囲を見渡しはじめた。
「花田の皆には、内緒で来てるんだ。それで顔は出せなくて。ごめんなんだけど、ちょっとロビーを出てすぐのところに、来てくれない?」
「分かりました」
「ごめん、ありがとう」
電話を切り、万里を待つ。
すぐに万里はやってきて、こちらに気づいた。
「月音先輩!」
万里の顔が輝き、抱きついてくる。
「おっと」
「お久しぶりです、先輩」
「合宿でも、会ったじゃんか」
「もうひと月も前です」
「はいはい、そうだったね」
苦笑して頭を撫でると、万里は、嬉しそうに笑みをこぼした。
万里とは、メールはたまにしていた。後輩への接し方とか、練習の進め方とか、パートリーダーとしてどうあるべきかの相談を、良く受けていたのだ。
多分、逸乃にもしているだろう。それぞれから吸収して、自分なりのパートリーダー像を作ろうとしているに、違いない。
「あ、皆に内緒って……何かあったんですか?」
身体を離してから、万里が言った。
「うん、実はさぁ、会場の裏に、ちょっと入りたいんだよね」
「許可証がないと入れないですよ」
「そうなの。だからさ、ちょっとだけ、万里ちゃんの許可証貸してくれない?」
「え」
「ごめん、良くないことは分かってる。悪いことに使うわけじゃないよ。だけど、個人的なことで、理由は言いにくいの。お願い!」
顔の前で、両手を合わせる。
万里は、少し迷った様子を見せている。
「用事が終わったら、すぐ返すから」
真面目な万里に頼み込んで、了承してくれるかは分からない。
だが、洋子のことを打ち明けずに、月音の提案を受け入れてくれそうな子は、他には思い浮かばない。
「……月音先輩なら」
しばらく悩んでから、万里が言った。
肩につけた小さなリボンを外し、手渡してくる。
「ありがとう、万里ちゃん」
「私、ここに居れば良いですか?」
「ううん、いつ終わるか分からないから、終わったら、電話をもう一回かける形でも良い?」
「分かりました。この後は、もうすぐ楽器の積み込みがあります」
積み込みが始まれば、洋子は部員と一緒にいることになる。そこまでいけば、もう安心だろう。
「それまでには、戻るね」
万里と別れ、再びロビーへ入る。
入り口にいたスタッフに許可証のリボンを見せて、月音は、舞台裏へ続く扉へ向かった。
緊迫した空気が、舞台裏に漂っている。
出番を待つ学校が袖に集まって、前団体の演奏を聴いている。
つい数ヶ月前まで、自分も、この時間を過ごしていたのだ、と思った。
もう二度と味わうことのできない、特別な時間。
幸せだった頃。
寂しさのような、懐かしさのような、胸を締め付ける感覚を覚えて、月音は頭を振った。
今は、こんな感傷に浸っている暇はない。
団体の脇を抜けて、舞台裏を一通り回る。
すぐに、花田高の打楽器の置き場所は分かった。だいごが、立っていたのだ。だが、近くに洋子の姿はない。
だいごに話しかけるべきか、月音は迷った。
あまり話したことがないから、どういう子なのか、ほとんど分からない。話しかけて、月音が来ていることを部員達に言われたくはなかった。
月音は、本当はこんなところに居てはいけない存在なのだ。
だが、洋子がいるとすれば、ここしかなかった。なのに、居ないということは。
不安が、胸の中に生まれる。
「っ……もうっ」
息を吐き、月音は、だいごに近づいた。
帽子を脱ぎ、だいごの腕に手を触れる。振り返っただいごは、目を見開いた。
「やっ」
「え、先輩……何でっすか?」
訳が分からない、といった表情を浮かべている。
「今日、来てましたっけ」
「まあ、まあ。それよりさ、洋子ちゃんのこと見なかった?」
「え、あー、さっきまで一緒にいましたよ」
「どこ行ったの?」
「さあ、なんか光陽の奴が来て、連れて行きましたけど」
「男子?」
「はい」
胸が、ざわつく。
やはり、か。
「どっちに行った?」
だいごが、後方を指差す。わずかに開いた扉の隙間から、暗い舞台裏へ、明かりが入り込んでいる。
「ありがとう」
「はあ」
だいごの前を抜け、扉から出た。リハ室などに通じる通路だ。洋子の姿は、ない。
通路を足早に進み、ホールの裏手へ抜ける扉を開ける。蝉の騒々しい鳴き声が、耳に飛び込んできた。ここにも、洋子は、いない。
どこだ。
会館内の構造を、思い出す。
もし、男子が洋子と二人で話そうとするなら、人の少ない場所へ行くはずだ。
この辺りから行くとしたら。
ホール裏の広場へ通じる方は、写真撮影の学校がいるから、まずない。その反対方向は、駐車場へ通じる裏道で、せいぜい楽器運搬のトラック運転手や一部の学生しか通らない。
あの辺りなら、可能性はある。
月音は、外へ飛び出して、壁沿いに走った。こっちにいなければ、完全にお手上げだ。
いてくれ。
願いながら、駆けていく。
角を曲がろうとしたところで、月音は慌てて動きを止めた。壁に背をくっつけ、弾む息を抑える。
角から、そっと顔を出して、視線を動かした。
建物の構造上、少し奥へ下がった空間で、異なる制服を着た二人が、向かい合っていた。
男子と、女子。
いた。
「あの時は、本当にごめん。嫌な思いをさせたかったわけじゃないんだよ、洋子ちゃん」
予想は、当たっていたらしい。
背の高い男子が、洋子の前に立っている。
月音は、飛び出した。洋子の表情を見た瞬間、こいつだ、と確信したのだ。
「僕は、本当に君のことを……!?」
洋子の前に立ち、男子を睨みつけた。
「うちの後輩に、何か用?」
「えっ、あ?」
男子は、何事かという表情を浮かべている。
「勝手に連れ出さないでくれる? この子、うちの大事な部員だから。返してもらうよ」
言って、洋子の方を振り向く。
怯えた顔で、今にも泣きだしそうだった洋子の目に、驚愕の色が浮かんでいる。
どうして、と。
何も言わずに笑いかけて、その手を握る。
「行くよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
空いている方の手を掴まれて、月音は、瞬時に振り払おうとした。だが、その手は、振りほどけなかった。
「痛い! やめて!」
叫ぶと、慌てて、男子部員が手を離す。
「っ、ごめんなさい! あ、あの、僕は光陽高校の部員で、河合良太って言います。洋子ちゃんとは、知り合いなんです」
「知ってる。でも関係無い」
「どうしてですかっ!?」
「この子の顔、見れば分かるでしょ。迷惑なの」
良太が、洋子に目を向ける。
「洋子ちゃん……」
洋子を、自分の背に隠す。
「もう、二度と洋子ちゃんに近づかないで」
強めの口調で言うと、良太は、狼狽えた様子で、足を引いた。
「僕は」
「河合君!」
良太が、はっとした。
声のした方へ、目を向ける。光陽高校の制服を着た女子生徒が、こちらに駆けてきた。
「志野、先輩」
良太が、ばつの悪そうな顔をする。
「何してるの、こんなところで。勝手に抜け出すのは許可されてないでしょ!」
「あなたは?」
問いかけると、志野と呼ばれた女子生徒が、こちらを見た。
「光陽高校吹奏楽部の副部長の、志野です」
「あっそ。その男子生徒、うちの部員に手出そうとしてきたんだけど?」
志野の顔つきが、さっと変わる。
「この子の様子見れば、察せられるでしょ、その男子生徒のしたこと」
志野が、洋子の顔を見る。鈍い子ではないようだ。すぐに、険しい顔つきで、頭を下げてきた。
「……申し訳ありません、私達の監督不足です」
「ほんっとに迷惑だから、もう二度とうちの部員に近づかせないで。てか、その人をコンクールに出させるのもやめて欲しい。会場で顔を合わせるのだって、こっちには精神的に負担なんだから」
志野は、唇をきつく結んでいる。
「大事にはしないから、そっちでちゃんと処理してよね。副部長のあなたに言っても、意味ないかもだけど」
「……申し訳ありません」
「次、その人がうちの子に近づいて来たら、学校か教育委員会に抗議するからね。そうされたくなければ、こっちの視界にも入らないように、徹底させて」
「……徹底、します」
「行こう、洋子ちゃん」
奮える洋子の手を引っ張り、歩きだす。
「何してるの、あなた!」
角を曲がったところで、向こうから、志野の怒声が聞こえてきた。
「こんな日に問題を起こすなんて!」
甲高い声が、うるさい。
だが、志野が来てくれて良かった。これで、良太が洋子に近づく可能性は、ぐっと減るだろう。
壁沿いに会館の裏手へ戻り、洋子を建物の中へ入れた。月音も入ると、ひんやりとした空気が、外の熱気と緊張で火照った身体を包み込んだ。
息を吐き、胸を抑える。
少しだけ、自分の身体が震えていることには、気がついていた。
緊張のせいか、それとも、恐怖のせいか。
「月音、先輩」
振り返った洋子の目は、涙で滲んでいた。唇も、かすかに震えている。
「偉い、よく耐えたね」
頭を撫でてやると、洋子は、感極まったように、月音の胸に顔を埋めた。
その身体を抱きとめ、背中をさする。
歳は離れているのに、背丈があまり変わらないのは、なんだか複雑だ、と、どうでも良いことが思い浮かんだ。
「間に合って、良かった。いや、若干、間に合ってなかったけど」
洋子が、頭を振る。少しだけ、甘いような鼻をくすぐる香りが、髪から漂ってきた。
「どうして……来てくれたんですか?」
「んー……どうして、かなぁ」
「たまたま、ですか?」
「そういうわけじゃ、ないけど……いや、でもまあ、そういうことにしとく」
洋子が心配だったから、などと、わざわざ言う必要はなかった。
感謝をされたくて、来たわけではない。
「来てくれなかったら、私、また、前みたいになってたかもしれません」
「うん」
「ありがとう、ございます、月音先輩」
「今は大丈夫? 気持ち悪さとか、怖さとか」
「……はい」
洋子を抱きしめる腕に、少し、力をこめる。
「……もう、こういう時に一人になっちゃ駄目だよ。常に、誰かと一緒にいること。誰かに呼び出されても、絶対に、一人でついていかないこと。嫌な時は、ちゃんと嫌っていうこと」
「……はい」
「何も無くて、ほんとに良かった」
探す場所を間違えていたら、洋子には会えなかったかもしれない。
志野が来なかったら、良太から何かをされていたかもしれない。
何も無かったのは、ただの偶然。たまたま訪れた幸運でしかない。
洋子のような子は、何もしていなくても、他者の悪意に晒される可能性がある。
それは、自分自身で避ける努力をしなくてはならない。
「私がいつでも一緒にいられるわけでもないし、今日みたいに来られるとも限らないから、誰か信頼できる人に、事情を伝えておいたほうが良いと思う」
「……でも」
「分かってる。何をされたかとかは、言わなくても大丈夫。ただ、あの男子とは会いたくないってことは、ちゃんと周りにも理解しておいてもらう方が良いよ」
「……分かり、ました」
「ん」
洋子の身体を離し、笑いかけた。
「あっちの副部長、しっかりしてそうだし、大丈夫だと思う」
こくん、と洋子が首を折る。
「もうちょっとそばに居てあげたいけど……楽器の積み込み、あるんだよね、もうすぐ」
「はい」
「皆が心配するから、行ってきな」
「月音、先輩は?」
「私はこのまま帰るよ。内緒で来てるから」
「でも……」
「洋子ちゃんも、私に会ったことは内緒にしてて、ね?」
洋子は困ったような表情をしながらも、小さく、頷いた。
「ありがと。またね、洋子ちゃん」
洋子が、深々と頭を下げる。名残惜しそうに歩きだし、時折、こちらを振り向く。早く行け、と手で送り出し、舞台裏へ入っていくまで、見守った。
完全に姿が見えなくなってから、月音は、その場にしゃがみこんだ。
どっと、疲れた。
舞台裏ならだいごもいるし、そろそろ他の打楽器の子も積み込みのために来ているはずだ。
警告はしておいたし、洋子がまた会場で話しかけられることは、多分、ないだろう。
本当なら、花田高の誰かに、このことを伝えておきたい。
だが、それは、月音が勝手にして良いことではない。洋子が、誰かに話したいと思って、初めて打ち明けることだ。
月音がまだ高校生だったなら、守ってあげられただろう。
だが、そうではない。
洋子は、自分の身を、自分で守らなければならない。
もう、何事もないことを、願うばかりだ。




