十五ノ十四 「コウキと睦美」
三人で向かい合い、唸っていた。
パート内で何か問題があれば、三人で合議して、対処する。それが、和と綾と決めたことだった。
一応、パートリーダーは綾ということになっているから、綾が決めてそれに夕と和も従うのが普通だろう。
だが、パートリーダーを任せる時に、綾一人に背負わせたくないと、夕も和も思った。綾も、二人と力を合わせたいと言った。
だから、三人でパートを背負っていく、と決めたのだ。
「夕は、どうしたらいいと思う?」
綾が言った。
「どうにかしてあげたいけど……事情が分からないんじゃなぁ」
「そう、だよね」
話題は、睦美のことだった。
あの子は、何かを抱えている。それは、去年からそうだった。
しかし、パートの誰も、睦美が何に悩んでいるのかを知らない。
何故か、サックスの元子は事情を知っているようだが、決して教えてはくれない。
「睦美ちゃんが希望したなら話すけど、そうじゃないのに、睦美ちゃんの悩みを私が言いふらすわけにはいかないよ」
元子の言い分は、最もだった。
睦美は、自分から意見を言うような性格ではない。いつも大人しくて、パートでの決め事も、黙って従うような子だ。
抱えていることを、睦美自身が話したがらないのなら、こちらも探りようがない。
英語室に、三人のため息が響く。
「どしたん、三人」
不意に声をかけられて、顔を上げた。コウキが、廊下側の窓から、顔を出していた。
「あ、コウキ君」
「うん」
「ちょっと来てよ」
綾が、手招きする。コウキは頷いて、中へ入ってきた。
和が、椅子を差し出す。
「ありがと、和さん」
「ちょっとさ、話聞いてほしいんだけど」
綾が、目くばせしてくる。夕は頷いて、先を促した。
「睦美ちゃんのことで、今話しててさ。コウキ君なら気づいてると思うけど、睦美ちゃん、ずっと何かに悩んでるんだよね」
「そうだね」
「やっぱ気づいてた? 私達、何とか力になってあげたいなって思うんだけど、事情が何も分からなくてさ」
「うん」
「七海ちゃんも、分かんないみたいだし」
コウキが、腕を組む。
「睦美ちゃん、練習もまじめに取り組んでるし、人に話したがらないんだから、あえて突っつかなくても良いのかもしれないけど……」
「けど?」
「一昨年の私みたいなことも、あるかもしれないしさ」
一年生の頃、綾が退部をしかけたことがあった。突然のことだったが、兆しはずっとあった。あの頃の夕も和も、分かっていながら、何も出来なかった。
何か一つでもずれていたら、綾は、今ここにはいなかった。
同じことは、もう起こしたくはないのだ。
「こういう時ってさ、コウキ君なら、どうする?」
「なるほど……」
考え込んだコウキを、三人は黙って待った。
部員の問題を解決するのが一番得意なのは、コウキだ。これまで、何十人の部員が、コウキに救われてきたか。
パートの二年であるののかは、元はアルトサックス奏者だった。だが、花田高へ入部して、クラリネットに転向させられた。
そんなののかがクラリネットに真剣に取り組むようになったのも、コウキが親身になって相談に乗り続けてくれたからだという。
綾の退部の件も、コウキが陰で動いてくれたから引き留められたと、後になって晴子と未来に聞かされた。
花田高が部としてまとまっていられたのは、コウキの働きが想像以上に大きい。
だからこそ、コウキの答えに、期待する自分がいる。
「俺が、睦美ちゃんと話してみようか」
「良いの?」
「うん。一応学生指導者という立場があるから、話しかけても違和感はないだろうし」
「そうしてもらえると、私達は助かるけど。情けないけど、私達、あんまりこういう時に上手く動くの、得意じゃないし」
「ごめんね、綾ちゃん、私、何も出来なくて……」
「和のせいじゃないって」
「お願い、コウキ君」
夕は、頭を下げた。
「花田高が全国大会金賞を目指すには、ひとり一人の問題解決も大切なことだと思うの。全員で、一直線に突き進むために。悩んでる子がうちのパートにいるなら、助けてあげたい」
「まあ、俺も気になっていたことではあったよ、夕さん。今までは、睦美ちゃん自身がひとりで抱えようとしてる節があったから、見守っていたけど。三人がそこまで気になるなら、聞くくらいはできる」
「ありがとう、コウキ君。代表選考会近い時に、ごめん」
立ち上がったコウキが、肩に手を置いてくる。
「任せろ」
頼もしい言葉に、夕は、笑顔になった。
夏休み中の二年五組の教室は、ただ机と椅子が並ぶだけの、寂しい空間だ。
黒板は綺麗に消されてあって、掲示物も、全てはがされている。
規則正しく鳴る壁掛け時計を眺めながら、睦美は、頭の中で拍を刻んでいた。
昨日、洋子から教わったテンポキープの練習方法だ。
時計の秒針は、一分間に六十回動く。つまり、テンポ六十。これを頭の中へ叩き込めていれば、倍にすればテンポ百二十、三倍すると百八十、それを半分にするとテンポ九十。
いつでも、四つのテンポで演奏できることになる。
この基本が身についていれば、どんなテンポでもある程度対応できるようになるのだ、と洋子は言っていた。
睦美は、リズム感やテンポ感があまり良くなかった。だから、連符の箇所で苦戦する事も多い。洋子のようにテンポキープがきちんとできるようになれば、解決するかもしれない。
それで、密かに練習することにしたのだ。
ただ時計を眺めているのは、退屈だ。だが、嫌いじゃない。
「お、いたいた」
びくりとして入り口に目をやると、コウキがいた。
「こ、こ、コウキ先輩」
「驚かせた?」
「いえ……」
「ごめんな。入っても良い?」
「え、あ、どうぞ」
立ち上がって迎え入れると、コウキは、手近な席に腰を下ろした。
微笑みかけられて、顔が熱くなる。
「なんで、じっと時計見てたの?」
「洋子ちゃんに、テンポをキープする方法を教わったんです。それで、出来るようになりたいなって」
「ああ、あれね」
「コウキ先輩も、知ってるんですね」
「洋子ちゃんに教えたの、俺だしね」
そうだったのか。言われてみれば、基礎合奏や曲合奏の時、コウキはちょっと指揮を振るが、テンポが乱れるということがない。
コウキも、これをやっていたのか。それを聞いたら、俄然やる気が出てきた。
「出来るようになると結構役立つよ、頑張ってね」
「はい。それで、あの」
「あ、来た理由?」
こくん、と頷く。
コウキの方から話しかけられることは、そう多くはない。挨拶は頻繁に交わすが、一対一での会話となると、久しぶりのことかもしれない。
「睦美ちゃんとちょっと話したくてさ」
「私とですか?」
「うん。歩きながら話さない?」
「良いですけど……」
コウキが立ち上がる。睦美も、後に続いて、教室を出た。
窓の外に目を向けながら、コウキは黙っている。生徒棟の廊下からは、グラウンドが見える。今は、野球部とサッカー部が活動しているようだ。
「最近は、部の雰囲気も良くなったよな」
コウキが言った。
「そう、ですね」
「一年生の問題も、一旦は落ち着いてるし。クラの子達の様子は、どう?」
「かこちゃんはいつも通りです。メンバー外の三人は、オーディションに向けて頑張ってるみたいです」
「もうすぐだもんな」
「はい。でも、オーディションはいつ頃やるんでしょうか」
「代表選考会を抜けたら、すぐにでもやると思うよ」
かな、深雪、雅也の三人がメンバーになれる可能性は、高くはないだろう。技術的には、三人ともまだ今一つというところだからだ。
バンドの編成バランスで言えば、クラはあと二本は欲しいはず、というのが睦美の予想だが、その二本をねじ込めるほど、他のパートでも余裕があるわけではない。
「周りに落ち込んでる子とかは、いない?」
問われて、部員の顔を思い浮かべた。二年にも一年にも、思い当たるような子はいない。皆、コンクールへ向けて懸命に努力している。
「いない、と思います」
「そか」
にこりと笑いかけられて、睦美は目を逸らした。コウキの笑顔は、眩しい。一年共に部活動に励んできたとはいえ、睦美にとっては、雲の上の存在だ。
そもそも、なぜ睦美へ話しかけてきたのだろう。コウキは忙しい人だ。睦美に構っている暇など、ないはずだ。
「じゃあ、睦美ちゃんは?」
「え」
「何か、悩みとかないの?」
「わ、私は、特にないですよ」
ぴたりと、コウキの足が止まる。身体ごとこちらを向いて、目線を合わせてきた。
「嘘だね」
「う、嘘じゃありません」
「分かりやすいもん、睦美ちゃん。俺、学生指導者だよ。リーダーとして、毎日、部員全員の顔を見てるんだ。些細な変化だって分かるくらいにはね。
睦美ちゃんは、去年からずっと何かを抱えてる。そうだなぁ……リーダー決めの後くらいからかな」
どきりとした。
「当たってるでしょ」
答えられず、睦美は目を伏せた。
「そんなに前から分かってたなら、なんで今声かけたんだって思うかもしれないけど」
言いながら、コウキは再び歩きだした。
「睦美ちゃんが、それを人に言おうとしなかったからだよ。自分で自分の悩みに向き合おうとしているように見えたから、俺は声をかけなかった。求められてない助言は、ただのお節介だからな」
一階から、渡り廊下へ出る。コンクリート製の渡り廊下の窓という窓は、開け放たれている。中央は切り開かれていて、左右の中庭に出ることが出来る。コウキは、西側の中庭へ出ると、手近なベンチに腰かけ、睦美にも促してきた。
少し離れて、隣へ座る。
「誰かに相談は、したくないの?」
「……そういうわけじゃ、ないんですけど」
「けど?」
「……理解、してもらえるか、分かんないので」
「俺は?」
「コウキ先輩、ですか?」
「うん。これでも、悩み相談に乗るのは得意なんだ」
「知ってます。皆、コウキ先輩を頼ってますから」
「なら、俺に相談してみてよ。話せる範囲で良いからさ。もしかしたら、何か力になれるかもしれない。俺は、睦美ちゃんの力になりたいと、本気で思ってるよ」
くさい台詞を平気で吐けてしまうところが、コウキの凄いところだ。そして、それは本当に言葉通りそう思っているんだと、睦美ですら知っている。
コウキは、見せかけでこんなことを言う人じゃない。誰よりも、部員の為に動いてくれる人だ。
それこそ、自分のためにリーダーになろうとした睦美とは真逆。皆のためにリーダーになった人。
睦美は、膝の上に置いた両手を、ぐ、と握りしめた。
「……先輩は、どうして、人のために動けるんですか?」
「というと?」
「誰だって、自分を他人に良く見せたいとか、もっと理想の自分になりたいとか、そういう内向きの想いがあるはずです。そのことに精一杯で、他人を気に掛ける余裕なんて無い人だって多いのに、どうして先輩は人のために動けるんですか?」
コウキが唸った。
「先輩には、他人に対する劣等感とか、無いんですか……」
「それは、あるさ」
顔を上げた。コウキが、困ったような笑顔を浮かべている。
「俺だって、別に人より優れた人間じゃないから、他人を良いなぁと思うことだってあるよ。例えば、星子さんなんて、天性の音楽センスがある。あれは、ほんとに羨ましいよ」
「そんな風には、見えません」
「そう? まあ、誰かが自分より優れているからといって、別に、自分の価値が下がるわけじゃないじゃん」
「え?」
コウキが、左手を腹の辺りに、右手を顔の前辺りに動かした。
「俺が左手、自分より優れている人が右手ね。自分と比べたら、その人は確かに上だ」
「はい」
「でも、俺の位置は、ココ」
左手を、僅かに揺らす。
「自分より優れている人がいるからといって、俺の位置は、常にココなんだ。別に、俺自身の価値は、下がってるわけじゃない。俺は、ずっと俺。
でも、俺も努力すれば、少しは上に行ける。それが五年後か十年後か、二十年後かは分からない。ただ、努力を続ければ、確実に上には行ける。いずれ、俺もここまでの人間になるかもしれない」
左手が、右手の横に移動する。
「そしたら、当時の俺からしたら格上に見えた人が居た位置に、俺もたどり着いてることになる。
今の時点で他人と差があるからといって、将来もずっとそうとは限らない。人には、それぞれ成長のスピードがあるからな」
手を下ろして、コウキが笑った。
「だから、今の時点で他人と比べてどうかを気にするよりも、俺は俺自身の成長に目を向けて頑張るだけだ。仮に、それでたどり着けなかったとしても、俺はそれでも良いと思ってる。だって、俺は俺だ」
「私は、そんな風には思えません。人より駄目な自分が、嫌になります」
「睦美ちゃん……」
七海の愛らしい笑顔が、ちらつく。
「私は、七海より何もかもが劣ってるんです。双子なのに、同じ時に生まれて、同じように育ったのに、何もかも、七海に負けてるんです。私が七海より優れているところなんて、一つもない。それを、それで良いんだ、なんて思えないです」
足元の雑草が、強い日差しのせいで、力なく葉を撓れさせている。建物の影に生えた雑草は、活き活きと葉を立てているのに。
生まれ育った場所が相応しくないばかりに、こんなにも弱々しく、情けない。きっと、生き残るのは、あの日陰の雑草達の方だろう。




