十五ノ十二 「木下睦美 五」
「コウキ君っ」
睦美の目の前を、洋子が通り過ぎた。部室から出てきたコウキのそばへ駆け寄り、顔を輝かせながら、見上げている。
コウキの身長は、男子の中では平均的な高さだろう。洋子の方が背が低いから、ああして見上げる形になっているのだ。
誰もが見惚れる美少女と、誰もが認める好青年。その二人が談笑する姿は、まるでドラマか映画のようだ。
二人から目を離し、音楽室へ入る。
「お、睦美」
絵里と莉子が、黒板の前にいた。
「休憩終わり?」
「うん。何の話してたの?」
「恋バナ」
「へぇ」
「へぇ、って興味なさそー」
恋愛に夢中になる暇は、今の自分には無いのだ。
「私、今の彼氏と別れようと思ってさぁ」
お構いなしに、絵里が話を続ける。
「また?」
絵里は入学してから今日までで、確か三人、彼氏を変えている。いずれも、学年で人気の高い男子だったはずだ。
「だって、つまんないんだもん、あいつ」
今の彼氏は、二年に上がってから絵里と同じクラスにいるという男子だったか。話したことはないから、顔もぼんやりとしか思い出せない。
「はーあ、どっかに良い男いないかなぁ」
「絵里と長続きする子なんて、そうそういないでしょ」
莉子が言った。
「そーなんだよねぇ」
「いっそ、吹部の男子と付き合えば?」
「候補いないじゃん」
「雅也君とか」
「年下ァ?」
「良いじゃん、年下でも」
「まあ、顔は悪くないけど……もうちょっとクラが上手ければ、考えてやろうかな~」
「じゃ、だいごとかまさき?」
「合わない」
「だよね。言っただけ」
二人の話を聞きながら、睦美は指を動かしていた。自由曲の連符の箇所をもう少し正確に吹きたくて、ここ最近は時間が空いていれば、ずっと指を動かしている。
ほんの少しのもつれでタイミングがずれ、他の人と音が合わなくなるのだ。そうならないために、正確に指を動かせるようになる必要がある。
「莉子は、もうデートしたん? いい加減しなよ~」
「聞いてよ。お盆にすることになった」
「マジ?」
「マジ」
思わず、睦美も指を止めていた。
「おめでと、莉子ちゃん。良かったね」
「ありがと、睦美。もー、ずっと緊張してる」
莉子は、一年生の頃から野球部の人を好きだったはずだ。随分長い片想いだが、少しずつ前進しているらしい。
「じゃ、初デート記念に、これプレゼント」
言って、絵里がポケットから何かを取り出し、莉子の手に握らせた。
莉子が、手のひらを開く。四角い包装に、輪っかのようなものが入っている。
見たことのない物だ。
「何、これ?」
「知らないの、二人とも?」
「うん」
「うん」
「コンドーム」
莉子が慌てて、それを絵里に突き返した。
「要らないよ!!」
「なんで、必要でしょ」
「デートするだけ! こんなもの、使うわけないでしょ!」
「分かんないよ? 莉子はそう思ってても、向こうはそのつもりかも」
「そんなわけないでしょ」
「いやいや、男は皆そんなもんだよ」
言いながら、絵里はコンドームを莉子の制服のポケットにねじ込んだ。
「要らないってばぁ!」
「良いから良いから。お守り程度に持っときなよ。いざするってなって無かったら、困るでしょ?」
二人のやり取りに、睦美は耳を塞いだ。聴いていると、こちらまで恥ずかしくなってくる。
絵里は確かに性の方面でも進んだ子ではあるが、そういうこともしているという事実は、知らなかった。そういうことは、大人になってからするものだろう。
「わ、私、もう行くね」
二人の会話についていけず、睦美は自分の席へと向かった。
個人練習を終えて総合学習室へ入ると、隅の方で、コウキと洋子が話し込んでいた。
何かゴミでもついていたのか、コウキが洋子の髪に触れ、払う仕草をした。洋子は、顔を赤くして髪を抑えている。
自分の荷物が置いてある席に座って、睦美は、そのまま二人の様子を眺めた。
コウキが何か言って、洋子が口元に手を当てながら笑っている。他の子には見せず、コウキと接する時にだけ見せる笑顔だ。
「見てるこっちがキュンキュンしてくる」
隣に座っていたひなたが言った。
「あの二人、お似合いだよねぇ」
睦美は、頷いた。
「なんかさ、洋子ちゃん見てると、一途だなぁって思うよね。コウキ先輩のこと大好き―って感じが、外から見てても分かるしさ、全身で好きって表現してるじゃん」
洋子がコウキの耳元に顔を寄せ、何かささやいている。コウキは吹き出すと、洋子を冗談めかして小突いた。
いたずらを成功させた子どもみたいに、洋子は笑っている。
「私恋愛とかしたことないから、ああいうの、羨ましいなぁって思う」
「恋愛、したいの、ひなたちゃん?」
「ううん、そうじゃないけど。吹部って、結構恋愛してる人多いからさー、なんか、私達の方が異端なのかなって」
「どうなんだろう」
「コウキ先輩も、きっと洋子ちゃんのこと、好きなんだろうなぁ」
「そうかも」
「でも、幸先輩とか月音先輩は、どうなんだろう?」
「どうって?」
「コウキ先輩は幸先輩とも仲良いじゃん」
「うん」
「月音先輩もさ、別れたって言っても、嫌いになって別れたわけじゃないんだろうし」
「うーん……」
「コウキ先輩、本当は誰を好きなんだろうね」
そう言いながらも、ひなたは、もう自由曲の楽譜に目を落としている。
代表選考会を抜けたら、メンバーオーディションがもう一度ある。そこで選ばれなければ、今年のコンクールにはもう出られないということになるから、ひなたにとってはそちらの方が、他人の恋愛事情よりもはるかに重要だろう。
ひなたから視線を外し、もう一度、二人の方を見た。
引っ込み思案で、他人と接するのが苦手で、大人しい。洋子の印象は、初めからそんな感じだった。
どこか、睦美と似ている。似ているのに、根本的な部分では、まるで違う。洋子には、暗さがないのだ。周りに愛され、黙っていても、人が寄ってくる。
睦美にもああいうところがあれば、過去の恋愛も、上手くいっていたのだろうか。
何が、睦美と洋子では違うのだろう。
どうして、洋子はあんなにも輝いているのだろう。
コウキが卒業まで恋愛をしないと宣言したとはいえ、女子部員の中には、今もコウキに好意を寄せている部員は多い。
ああして二人の時間がある一方で、他の女子部員とコウキが仲良くしている姿も珍しくない。
洋子からすれば、内心は穏やかではいられないはずだ。
なのに、心の屈折、とでも言えば良いのか。
そういうものが、洋子からは感じられない。
睦美は、七海が睦美と同じ人を好きになって、積極的に近づいていくのを見る度、心が苦しくなっていた。七海と好きな人がどんどん仲良くなっていく光景に、耐えられなかった。
でも、それが普通ではないのか。
好きな人を誰かに取られるかもしれないとなれば、冷静ではいられないはずだ。
なのに、何故、洋子はいつも笑顔でいられるのだろう。




