十五ノ十一 「長谷川奈美 二」
学校へ戻るバスの中。コウキは、中間辺りの席に座っていた。隣は心菜だ。
バスは、豊田市民文化会館を出て数分もしないうちに、渋滞にはまっている。帰宅する出場校のバスや客の車で、周辺の道路が混雑しているせいだろう。
周辺を抜けてしまえばすんなり帰れるのだが、それまでが、少し長い。
「あ、あ」
最前列に座っていた智美の声が、マイクを通してバスの中に響いた。
「皆、県大会お疲れ様でした」
「お疲れ様でしたー!」
「無事突破できて、まずは一安心だね。でも、四日後の代表選考会に向けて、気を抜かずに頑張りましょう」
「はーい!」
「それじゃあ、この帰宅の時間を使って、講評のコメントを読み上げます」
「よ、待ってました!」
勇一が叫んで、歓声が上がる。
「じゃあ、七枚あるから、一つずつ読んでくね。一枚目」
智美が、用紙をめくる。
「トランペットソロ、素晴らしかった。情景が目に浮かぶようです。全体のハーモニーもよく磨かれていて良かったです。フィナーレがもう少し解放感溢れた演奏になると、もっと引き込まれる演奏になるでしょう」
「さすが華ちゃん」
心菜が言うと、通路を挟んだ反対の席に座っていた華が、ピースサインを作った。
「二枚目。調和のとれた良い演奏でした。しかし、まだまだ細部で磨ける部分が多々あり。より良い音楽を目指して頑張ってください。
三昧目。トランペット、ブラボー。曲の世界に誘いこまれました。和声の進行にもう少し気を配れると良いですね。全体の音量バランスも練ることをオススメします」
四枚目、五枚目と、講評が読み上げられていく。
おおむね好意的な評価が書かれているが、やはり、細かな部分の指摘はある。
「七枚目。立体感のある良い演奏でした。課題曲も上品な休日を表現できていてグッド。自由曲は打楽器が素晴らしい仕事をしていましたね。最後のシンバルは、まだまだ音の研究の良いアリでしょう」
後ろの方から、舌打ちが聞こえた。
だいごのものだろう、とコウキは思った。
『GRシンフォニックセレクション』の最後に、クラッシュシンバルが一発鳴らす。それは、曲中で最も重要で、最も印象的な一発だ。
だいごは、その一発を納得の行く音に仕上げられず、ずっと苦戦している。言われなくても分かっていることだからこそ、舌打ちをしたのだろう。
「以上だね。じゃー、続いて順位の発表だけど」
部員が、一斉にざわつく。
花田高は今日、無事に県大会を突破した。だが、金賞の学校は七校あったから、その中の何番手なのかは、代表選考会の突破にも関わってくる。
代表選考会の出場校は、十四。そのうち、大編成の東海大会へ進めるのは六校。
県大会は二日に分かれていたから、単純に考えれば、各日の上位三位までが、東海大会へ進む可能性が高い学校、ということになる。
もったいぶるように、智美が沈黙する。
「結果は……」
ごくり、と心菜が唾を呑み込んだ音が聞こえた。
「なんと……」
コウキは、目を閉じた。
「二位でした!」
「うおおおおおおお!」
「きゃああ!」
車内が、歓声で包まれた。
無意識に、コウキも、拳を握っていた。
一位でないことは残念だ。だが、二位という結果は、これまでの花田高を考えると素晴らしい成果だと言えるだろう。
全国大会常連校も名を連ねていた中での、二位。この結果は、部員の士気を大いに上げるだろう。
「はいはい、静かに」
智美の一声でも、しばらくは騒ぎが収まらなかった。
「皆、喜ぶのは早いよ。確かに二位だけど、あと四日で、他の学校ももっと演奏の精度を上げてくるからね。油断してると、あっという間に追い抜かれる」
その通りだ。
「明日からも集中して、更に曲を仕上げていこう! 東海大会に行くのは私達だよ。鳴聖女子にも、安川にも、光陽にも負けない演奏をしよう」
「はい!」
去年も一昨年も、花田高のコンクール結果は、決して良いものとはいえなかった。常にギリギリの結果の中、上位大会へ進む度に大きな進歩を遂げて、他の学校を追い抜いていった。
何としても上の大会へ行く、という部員の執念が成し遂げたことだった。他の学校も、必ずその執念を持って追いかけてくるだろう。
だが、関係ない。花田高は、今年も全国大会へ行く。
そして、関わる全ての人の願いである金賞を、必ず得る。
「よ、奈美ちゃん」
「正孝先輩!」
合奏が終わって、昼休憩の時間だった。
図書室を出たところで待っていたのは、さっぱりとした髪型になった私服の正孝だった。
予想していなかった人物の登場に、奈美は、慌てふためいた。
「今日、来る予定だったんですか!?」
「そういうわけじゃないんだけど、奈美ちゃんが苦戦してるって中村さんから聞いてさ。ちょっと練習見てあげようかなと」
そういうことなら、智美も教えてくれれば良かったのに。
「今から昼飯?」
「そうです」
「じゃあ、一緒に食べながら楽譜見る?」
「良いんですか?」
「うん、そのために来たんだし」
「じゃあ、すぐ準備してきます」
「部室で待ってるわ」
「はい!」
昼食はメイとかおるとひなたと食べる予定だったが、それどころではない。
すぐに四階の総合学習室へ上がって、三人に、事情を説明した。
「あー、そうなんだ、いってらー」
三人はそれだけ言って、手をひらひら振って、奈美を見送った。
弁当箱を持って部室へ向かおうとして、鞄から手鏡を出す。髪型や服装に乱れがないか確認してから、息を整える。
そんなことをしても別に意味はないのだが、何となく、正孝と二人になるのを意識すると、せずにはいられない。
「よし」
深呼吸をして、隣の部室へ入った。
「お、来た」
パソコンの置いてある机の前に、正孝が座っている。
「楽譜持ってきた?」
「はい」
正孝が、椅子を差し出してくる。それに座って、正孝と向かい合う。
「いや、向かい合ってたら見にくいって」
言いながら、正孝が隣に移動してくる。
「悩んでるのは、フィナーレだろ?」
「そうです」
「ここはもっとソプラノが出て良い場所だよ。最早、ソロだと思ったほうが良い。オーボエに合わせずにソプラノが主張したほうが、らしくなる」
正孝の教えを、楽譜に書き込んでいく。
「後で実際に吹いてみようか」
「お願いします」
手早く昼食を済ませて図書室へ移動すると、中にはまだ誰もいなかった。
「じゃあ、やろうか」
正孝は、わざわざ自前のソプラノサックスを持ってきてくれていた。
ケースから取り出して組み立て、軽く音を出す。
「うわぁ……」
その音に、奈美は聞き惚れてしまった。
正孝は卒業してから、まだほんの四か月程度だ。なのに、その音は以前よりも磨きがかかっている。
単なる音出しなのに、まるでコンサートに来たかのような贅沢さすらある。
「じゃ、聴いてて」
言って、正孝がフィナーレのフレーズを吹き始めた。
うっとりとするような音色に、一息の長さ。心まで震えてくるかのような華麗なヴィヴラート。
奈美のそれとは、まるで違う。
「ま、こんな感じでさ。どんどん主張してくのよ。私が世界の全てだ、皆私を聞け、くらいの主張でも構わない」
「はい」
「とにかく息は長く。それでいて、しっかりと圧をかけた音に。せっかく一番の見せ場なわけだから、紺野さんに合わせに行くんじゃなくて、紺野さんに合わせさせなきゃ」
「う……はい」
ばたばたと慌ただしい足音が、扉の外から聞こえてくる。扉を開けて入ってきたのは、星子だった。
「正孝先輩!」
「おう、紺野さん」
「今吹いてましたよね?」
「うん」
「一回、私と合わせてもらえませんか?」
遅れて、一年のオーボエの来美が入ってくる。
「いいよ」
「すぐ準備します!」
自然と、来美と並んで、二人の演奏を聴くことになった。
正孝と星子が、向かい合っている。視線を交わし、何の合図もなく、二人が吹き始める。
まるで熟練のパートナーであるかのように、自然に、何の違和感もなく、二人の音が混ざり合った。
いつも奈美が合わせる時は、星子はおおげさにオーボエを振ってくれる。それは、奈美と来美が、正孝のように自然に合わせることが出来ないからだろう。
二人とのレベルの差に、拳を握りしめる。
「凄い……」
来美が、呟いた。
二人の合わせは、今まで聴いたことがないほど美しく、まさに、オーケストラサウンドの核となるような豊かな響きだった。




