十五ノ十 「ここからが、始まり」
いつ頃からか、目覚ましのアラームを用意しなくても、自然と早朝に目覚めるようになった。
それは、丘が、コンクールの度に言っていたことだった。
前日は早めに寝て、朝は目覚ましに頼らずに自然に起きる。そうすることで、身体のリズムを整えて、万全の状態でコンクールへ挑むのだ、と。
去年も一昨年も、コンクールや演奏会の日は、必ずそうしてきた。
そして、実際によく眠り自然に目覚めた日は、調子が良かった。
だから、何でもない日でも、そうするようになった。
夕は、高校から吹き始めた初心者だった。周りより遅れて始めたのだから、せめて、身体面では誰にも負けない調子の良さを作っておきたかった。
日々の調子のムラがなくなれば、それだけ高いパフォーマンスを発揮できる。
「ごちそうさま」
母の作ってくれた朝食を食べ終えて、身だしなみの確認に、鏡の前に立った。
「よし……お母さん、行って来るね」
「頑張ってよ、ちゃんと見に行くから」
「うん。お父さんは?」
「午前で半休を取ってる」
「分かった」
両親は、夕が吹奏楽に打ち込むことを、快く応援してくれている。
コンクールや演奏会も、欠かさずに応援に来てくれるのだ。二人の応援は、夕にとって力になる。
「夕、変わったね」
「何、急に?」
「大人になった」
夕の前に、母が立った。二人の背は、もうそれほど変わらない。
「制服も似合うようになったし、表情も、しっかりするようになった」
「そりゃあだって、高三だよ、もう」
「それだけじゃないと思う。リーダーとして、皆を引っ張るようになったからじゃない?」
「そうなのかな」
一年生の時、同じクラリネットの同期である綾が、退部しようとしたことがあった。
あの頃の部も、クラリネットパートも、まだ団結力が足りなかった。初心者の多いクラリネットパートは足手まといだと言われ、パートメンバーは焦っていた。
夕と同じく、初心者で始めた綾は、周りに迷惑をかけてしまう自分自身に耐えられず、去ろうとした。
あの時、夕は何も出来なかった。
同じ立場であり、綾の気持ちが良く分かったからだ。
迷惑をかけていたのは、夕もだった。何か一つでも違えば、夕があの立場になっていたかもしれない。
あの出来事があってから、夕の中で、クラリネットを上手くなることが、一番の目標になった。
周りに迷惑をかけない部員になりたくて。
綾のような子を、助けられる部員になりたくて。
綾が退部せずに踏みとどまってくれたから、もう一人の同期である和と三人で、誓った。
もう、逃げ出さない。足手まといと言われないようになる、と。
あれから、三人で血の滲むような努力をしてきた。
誰も、夕と綾と和を、初心者だと言わなくなった。
気づけば、周りがついて来てくれるようになった。
「お母さん」
「何?」
「私、本当に、リーダーとしてちゃんとやれてるのかな?」
「お母さんはそう思うよ。夕の評判は、父母会の他のお母さん達からも、良く聞くし」
「そうなの?」
「うん。夕は凄いって言う子、多いみたい。初めて会うお母さんにも、言われるんだから」
そう言ってもらえるような人間に、自分がなれたことが嬉しい。
昔は、何もかも、中途半端だった。前に立つような人間でも、なかった。
「……今日、絶対、県大会突破するから」
「うん、頑張ってね」
「ありがとう。行って来るね」
「気をつけて行ってよ」
「うん!」
母が手渡してきた弁当を受け取り、家を出る。
今から行くと、ちょうど正門が開くかどうかといったところだろう。
自転車に跨り、夕はペダルを踏みこんだ。
「あーあ、負けた」
目の前に自転車を止めて、夕が言った。
「おはよ、夕」
「おはよ、夕さん」
「おはよ、智美、コウキ君。やっぱ二人が先かぁ」
「俺の勝ちだな」
昨日、夕とコウキが、朝どちらが先に登校できるかで、ちょっとした賭けをしたのだ。
「ちぇっ、かなり早く出たのに」
「ごちそうさまです」
「ふんっ」
負けた方が、自販機で奢るらしい。ちなみに、智美は夕に賭けた。
「調子はどう、夕?」
「良いよ。智美は?」
「もち、バッチリ」
「何時に寝た?」
「九時」
「私もー」
他愛も無い会話をしていると、コウキが、お、と声を上げた。視線の先へ目をやると、美喜と勇一が、並んでこちらへ向かってきていた。
「なんだ、三人とももう来てたのか」
「おっはー、昨日の賭け、どっちが勝ったん?」
「俺だよ、美喜さん」
勝ち誇ったように、コウキが言った。
「コウキ君は智美がついてるから卑怯だよ。私は一人で起きたんだからね、目覚ましも無しで」
「俺らだって、別に連絡取りあってないぜ、目覚ましも使ってないし、な?」
智美は、頷いた。
「最近はもう、互いに起こし合うこともないよね」
「早起きにも慣れたなぁ」
「んじゃ、私は三木に賭けてたから、夕に奢ってもらうかねー」
「俺もよろしく」
「んもー、私に賭けてたの、智美だけじゃん」
夕が財布を取り出し、小銭を数えているのを見て、智美は笑った。
「皆、緊張してなさそうだね」
「まあ、県大会程度、さらっと抜けないとだしな」
勇一が、肩をすくめながら言った。
「それねー。こんなとこで緊張してたら、全国行っても、去年の二の舞だし」
「そうだね」
去年、花田高は全国大会へ行った。だが、全国大会の出場経験があった部員は、美喜と莉子の二人だけで、他は初めてだった。
黒塗りの舞台で、五千人の聴衆を前に吹くという未知の体験は、部員の多くが緊張に呑まれて終わった。
結果は、銅。
同じ過ちは繰り返さない。緊張に呑まれないための訓練は続けてきたし、メンバーは三分の二以上が、全国大会を経験している。
環境は、整っている。
一台の車が、正門の前に停まった。丘の車だ。
出てきた丘に、五人で挨拶をする。
「おはようございます、早いですね」
丘が、正門の重い鉄扉を開けた。
「すぐに中も開けます」
「お願いしまーす」
車で坂を上がっていった丘に続き、五人で敷地内へ入る。
集合自体は、八時だ。今は六時半だから、一時間半くらいは、自主練習が出来るだろう。
「部員の様子も、気にかけないとね。万が一気負っているような子がいたら、声をかけてあげなきゃ」
全員が万全の調子で本番に挑めるようにケアするのが、今日の智美の仕事だ。
ふと、そういえば、摩耶や晴子もコンクールの日は同じようにしていたな、と思った。
きっと、摩耶達も部長として同じことを考えていたのだろう。
不思議と、そういうところは後輩へと受け継がれていくのだ。
初めて楽器に触れたのは、小学四年生の時だった。
クラブ活動で金管クラブに入り、コルネットという、トランペットより一回り小さい楽器を渡された。
行進曲や簡単なポップス曲を中心に吹くようなクラブで、コンクールとは無縁だったが、毎日が楽しかった。
身体が成長して六年生になると、トランペットを吹かせてもらえるようになった。
コルネットよりも真っすぐ突き抜けるような音の出るトランペットに、夢中になった。
東中に上がって、吹奏楽部に入って、トランペットを引き続き担当した。
自分には周りの子よりトランペットの才能があるのだと、その頃にはもう気づいていた。だが、別にそれで驕っていたわけではなかった。
周りがどうとかではなく、自分自身と向き合うことに、集中していたのだ。
自分のこうしたいという想いを音で表現できるようになりたくて、毎日そのことに必死だった。
今でも、まだ、思い通りに何でも吹けるわけではない。
多分、一生そうなんだろう。
一つできるようになったら、また一つ、やりたいことが増える。その繰り返しで、ずっとトランペットと自分自身に、向き合い続けていく。
それは、終わりがない。一生、楽しみ続けられるなんて、何と贅沢なことだろう。
だから、音楽が好きだ。トランペットが好きだ。
「華ちゃん」
万里が、声をかけてきた。閉じていた目を開けて、華は返事をした。
薄暗い舞台袖。
豊田市民文化会館のホール。
「もうすぐ、本番だね」
「はい、万里先輩」
万里は、トランペットパートのリーダーだ。学生指導者であるコウキが兼任するのは大変だから、万里が引き受けたのだという。
「いつもの素敵なソロ、楽しみにしてるね」
「任せてください」
花田高で初心者から始めたらしいのに、万里は、そうとは感じさせない音を出す人だ。
それは多分、万里が人並以上に努力してきたからだろう。
華が入部してからの三ヶ月ちょっとの間、万里がサボっている姿を見た事がない。
自分に厳しく、他者には優しい人である。
そして、その優しさは、甘さとは違う、本物の優しさだったと思う。
相手のためになるように、厳しさを持って接する。でも、決して相手を責めるとか追い込むことはなく、寄り添い続けようとする。
人を避ける傾向の強い音葉ですら、万里には一定の尊敬の念を持って接しているのだ。
それだけ、万里が人から認められる人間性を持っている、ということでもある。
「緊張はしてる?」
「いえ、全く。万里先輩は、緊張してますか?」
「ううん、私も、楽しみなくらい。良い舞台で、良い音楽を皆と奏でられる、特別な時間がもうすぐ来るんだもん」
そんな物の言い方も、華は好きだった。
「さすが万里先輩」
心菜が、隣に来て言った。莉子とみかと音葉も、そばに寄ってくる。音葉は、みかに引っ張られて渋々来たようで、頬を膨らませている。
「コウキ先輩は?」
華は、舞台袖を見回した。
「いるよ」
いつの間にか、後ろに立っていた。
「びっくりした、忍者ですか?」
「いや、ずっと居たよ」
「気配がしなかったです」
「華ちゃんが集中してたんだろ」
話しながら、自然と、輪の形になる。
「いよいよだね」
万里が言った。
「パートの全員で出られて、嬉しい」
それぞれが、頷く。
「この約三ヶ月、私達についてきてくれてありがとう」
それは、後輩の五人に向けての言葉だった。
「ここからが、始まりだね」
「うん、行こう、代表選考会」
コウキが言った。
「はい」
五人の声が、揃う。
「トランペットパートが、一番良い音を出すって言われてきた。今日も、その音を、会場に響かせよう。私達なら出来るよ」
万里の力強い言葉に、華は、嬉しくなった。
この人がパートリーダーだったから、トランペットパートはまとまっていた。
それぞれの技量が高いだけでは作り得ない、パートとしての一体感。
他の六人の表情に、緊張は全くない。
今日までに築き上げてきたものが、七人全員の自信になっている。
やれる、と華は思った。
前の団体の演奏が終わり、拍手が鳴った。
花田高の出番が、始まる。




