十五ノ九 「長谷川奈美」
食事を終えると、各自思い思いに丘と会話したり、部員同士で会話をしたりする。
普通、こういう会は丘が部員に対して、何かを話したりするのではないかと思うのだが、丘は、そういうのは好まないらしい。
集まった部員の中から生まれるその時々の話題について、各自が思ったことを話す。それによって、それぞれの中の考えが育まれていくのだ、と丘は考えているらしい。
それでも、やはり丘は人気だから、部員に沢山囲まれて、常に誰かと話している。
奈美は、そこまでグイグイと割り込んでいけるほど図太い神経は、持っていない。仕方なく、部屋の一角で座って、奏多の相手をしていた。
「奈美ちゃん、隣良い?」
横に、コウキが立っていた。向こうから話しかけてくるのは、珍しかった。
「勿論です」
少し横にずれて、コウキが座るスペースを空ける。
腰を下ろしたコウキは、奏多に、おいで、と言った。奈美の隣から、コウキの膝の上に奏多が移動する。
「抱っこ、上手なんですね」
「丘先生の奥さんに教えてもらった」
笑いながら、コウキが言った。
コウキは、丘の家での集まりに、全て参加しているらしい。正学生指導者なのだから、当然だ。それで、奏多もコウキには懐いているようだ。
「丘先生と話さなくて良いの?」
問われ、奈美は目を泳がせた。
「自由曲のこと、聞きたいんでしょ?」
「えっ、なんで分かるんですか」
「超能力があるから」
「まさか」
「じゃなきゃ当てられないって」
「コウキ、また適当言って。奈美ちゃんが信じるでしょ。真面目な子なんだから」
向かいに座っていた智美が言うと、コウキが舌を出した。
「一応学生指導者だからな。毎日前に立ってると、部員の変化が良く分かるんだよ」
「それって、学生指導者なら自然と身に着くものなんですか?」
「さあ、どうかなぁ。心菜ちゃんは、まだ出来ないみたいだけど」
「正孝先輩も出来てたんですかね」
「いや、出来てなかったと思う」
「……やっぱ、コウキ先輩って凄いんですね」
「慣れだよ、こんなの。常に意識すれば、誰でも出来るようになるって。で、良いの、話さなくて?」
「あー、いえ、あんまり人がいっぱいの中に入ってくのは苦手で……またの機会にします」
そっか、とコウキは呟いて、動きたがった奏多を、膝の上から下ろした。
奏多が、丘の方へゆっくりと歩いていく。
「丘先生には、どんなことを聞きたかったの?」
聞かれて、コウキの方を見た。
「俺で良ければ、少し聞くけど」
「良いんですか?」
「勿論。奈美ちゃんが話したければね」
「じゃあ」
咳払いをして、座布団の上に座り直す。それから、少しコウキの方へ、身体を向けた。
智美も、奈美の話をこのまま聞くつもりらしい。
「私、『GR』のフィナーレが、どうしても思ったように吹けないんです」
「うん」
「星子先輩と完璧に合わせて、丘先生が言うヴァイオリンみたいな音が出せたらと思うんですけど、どうしたらそんな音になるのか、分からなくて」
参考の音源CDは、何度も聴いた。
聴く度に、心が震えるような名演である。本当に、丘が言うような、弦楽器の音が聞こえてくる。それを、奈美も音にしたい。
だが、上手く行かない。
「星子先輩と私の力量が、違い過ぎるからなんでしょうか。どうしたら良い音になるのか」
「……オーケストラの主体は、弦楽器だね」
コウキが言った。
「『GR』も、元々はオーケストラ向けに書かれた曲を、吹奏楽のために編曲しなおしたものだ」
「はい」
「ということは、曲の基本はオーケストラにある。ちなみに、奈美ちゃんが言ってるのは、フィナーレのメロディのことだよな?」
「そうです」
「あそこは原曲では、弦楽器が担当してる」
それは、星子に借りたCDで確認していた。
「サックスにはサックスの吹き方があるように、弦楽器には弦楽器の弾き方があるんだ」
「……はあ」
「つまり、ヴァイオリンでメロディを弾く時には、音によって弓を上から弾き下ろしたり、下から弾き上げたり変える。アップかダウンか、ってことね」
「へー、知らなかった」
智美が言った。奈美も、知らなかった。
「うん。で、弦楽器はアップで弾く時とダウンで弾く時じゃ、音が変わるんだ。どう変わるかっていうと、ダウンだと重力の力も加わって、より力強い音を出せる。逆にアップだと、優しい音。表現が合ってるか分からないけど、人の声で言うなら裏声的な?」
「そうなんですね」
「じゃあ、あのフィナーレのメロディは、どの音がアップでどの音がダウンなのか」
「考えたことも、なかったです」
「弦楽器特有の強弱の付け方が、きっとある。それから、ヴィヴラートのかけかたも、弦楽器と管楽器じゃ違う。トランペットとサックスでも違うでしょ」
「はい」
「確かにソプラノサックスとオーボエの音が混じり合うと、まるでヴァイオリンのような音がする。でも、それはただ音程や音色が合うだけじゃだめなんだ。やっぱり、ヴァイオリンのような音を出さないと」
「……」
「それから、ヴァイオリンには息継ぎは存在しない。だからフレージングも、管楽器とは違うよな。そういった様々なことを考えながら、意識してみて。そうしたら、少しは突破口になるかも」
「三木の言う事は、正しいですよ」
驚いて振り返ると、丘が後ろに立っていた。
「丘先生、聞いてたんですか?」
「ええ、大事な話が聞こえてきましたから」
「恥ずかし」
「何も間違っていません。大事な事です、せっかくですから、皆さんにも聞いてもらいましょう」
丘がそう言うと、室内がすぐに静まった。
「我々花田高が目指すのは、まるでオーケストラのようなサウンドです。豊かなダイナミクスに、自然な音楽表現。まるで弦楽器が存在するかのような調和のとれた響き……そのために、木管セクションの数も増やしました」
部員は、皆丘の言葉に耳を傾けている。
「オーケストラの方が優れているとかそういう意味ではありませんよ。ただ、より重厚で濃密な音を出せるのは、やはりオーケストラなのです。そして、クラシック音楽はそのオーケストラによって築かれてきた。だから、コンクールで演奏されるようなクラシック音楽の流れにある吹奏楽曲も、オーケストラの音楽を意識することは必要なのです。
今、三木が長谷川に対して、弦楽器のボウイングやフレージングについて解説していましたが、まさにそれは吹奏楽での演奏でも考慮すべきことです。弦楽器のために書かれたメロディを管楽器で演奏するにあたって、その弦楽器の音へのアプローチ方法を意識する。そうすることで、より上品で美しく、自然な音楽表現に近づきます。全員、そのことをよく考えてください」
サックスは、オーケストラに入ることはほとんどない。古い曲であれば、サックスはまだ誕生すらしていないから、当然の話だ。
それでも、オーケストラの音楽というものが、サックスにも通用するというのか。
今まで、考えたこともないことだった。
それを丘が言わずとも考えているコウキという人は、さすが、と思わざるを得ない。
奈美から見たコウキは、遠い人、だった。
常に部員の前に立ち、皆を引っ張っている。部員一人ひとりをよく観察し、困っている子や悩む子に助け舟を出している。そのうえ、学生指導者として、去年は正孝のフォローをし続け、今年は自らが頂点として膨大な仕事をしている。
にもかかわらず、楽器の腕もある。今のトランペットパートの主柱は、間違いなくコウキだ。彼の吹くソロは、トランペットらしい華やかさと輝きがあり、奈美も聞き惚れるほどである。
おまけに、部内で熾烈な争いが起きるほど、女子部員からの人気が高い。好意を表立って見せている幸や洋子意外にも、コウキに想いを寄せる部員は何人もいる。
どこか、遠くの世界の人。そういうイメージが、奈美の中に染みついている。
奈美にはない音楽観を、きっとコウキは持っている。
恐らく、星子も。星子は、奈美が足踏みしていることに、不満を抱いているだろう。
それでも、星子は待ってくれている。
「私が、やらなきゃなんですね」
室内は、また騒がしさが戻っていた。
隣に座るコウキにだけ聞こえるように、奈美はつぶやいた。
「先生やコウキ先輩の言う事を、理解できるようにならないと」
「うん、頑張って。奈美ちゃんなら出来る」
奈美は、コウキの目を見た。笑いかけられて、奈美は、静かに頷いた。
集まりが解散するのは、二十一時前だ。
生徒は必ず一人では帰らず、同じ方角の者同士で帰るように、徹底させている。
また、帰宅したら部長の智美に連絡を入れる、ということも決めていた。
玄関から出ていく生徒達を一人、また一人と見送っていく。
最後に出ていくのは、いつも智美とコウキだ。
「丘先生、今日もお邪魔しました」
「はい、気をつけて帰りなさい」
「次は、県大会の後ですか?」
「そうですね……三日後が良いでしょう」
「また、部員に声かけておきます」
「ええ、よろしく、中村。それから、三木、今日の弦楽器の話は、とても良かった」
「あ、ありがとうございます」
「生徒でそこに気づける者は、中々いない。さすが、学生指導者ですね」
「オーケストラも、好きなので」
「そうですか、良いことです。ところで……提案があるのですが、三木」
「何でしょう?」
「急ではありますが、もし、あなたが興味があれば、指揮も学んでみませんか?」
「えっ?」
丘が、ずっと考えていたことだった。
「あなたの役職は、学生指導者という名前ですが、実際に基礎合奏や曲合奏をする時は、指揮もしていますよね」
「簡易的なものですけど……」
「では、指揮をもっとしっかりと学べば、より良い合奏に出来ると思います」
コウキと智美が、顔を見合わせた。
「一応考えていることとして、もし本気で指揮を学ぶのであれば、定期演奏会で、貴方にも一曲振ってもらうつもりです」
「はい!?」
「部長は、表彰を受けたり取材を受けたりと、部の顔として周りに認められる活動もありますが、学生指導者はそれに比べると陰の仕事です」
「あんまり……そう考えたことはないですけど」
「あなたはそうでしょう。ですが、学生指導者にも公で陽があたる場面があっても良いはずです。それに一番最適なのは、演奏会で曲の指揮をすることだ、と私は考えました」
「はあ」
「返事はすぐでなくても構いませんが、もしやる気があれば、そのつもりで進めますから、また返事を聞かせてください。高校最後の晴れ舞台で指揮を出来る、貴重な機会ですよ」
「はい、分かりました」
「では、二人とも気をつけて」
「失礼します」
自転車に乗って走り去る二人を見送って、丘は、家に戻った。
コウキにはあのように説明したが、思惑は他にもあった。ただ、それはまだコウキに話すことではなかった。
コウキが指揮を学ぶと言えば、いずれ話す日も来るだろうが、それまでは、わざわざ口にする必要はない。
「さて、どうなるか」
先の話よりも、まずは県大会だ。
明日の練習もやることは詰まっている。一秒たりとも無駄にしないために、今から明日に向けての計画を立てておこう、と丘は思った。




