十五ノ七 「丘の指導」
三階から、吹奏楽部員達の練習の音が聞こえていた。
今は、基礎合奏でコウキが指導している時間だ。
夏休みの間はクーラーのある図書室の使用が許可されているから、扉も窓も閉め切っているはずで、それでも芯のある音を感じるということは、全員の音をきちんと一体化させ響かせられている証拠である。
丘は、コーヒーをすすりながら、自由曲の総譜を眺めていた。
県大会は、明後日に迫っている。今年、最初の大会だ。
今日と明日は、課題曲と自由曲の通し合奏を中心として、時間計測も行い、県大会でタイムオーバーにならないよう、入念な確認をするつもりである。
『ブライアンの休日』と『GRシンフォニックセレクション』を通して、十二分以内。
それが絶対だが、時間配分はかなりギリギリの構成だった。
ほんの少しのミスが、時間オーバーに繋がる。
それだけは何としても阻止しなければならず、例年以上に、通し合奏が重要になる。
もう一度コーヒーをすすり、立ち上がった。
総譜を持って四階へ上がると、メンバー外となった部員達が、総合学習室や音楽室で練習していた。
何人かは、卒部生が来て付きっきりで見てくれているようだ。
「あ、丘先生。おはようございます」
部室へ入ると、二年生のオーボエのひなたとフルートのかおるがいた。
「おはようございます」
近づいて、譜面台を覗き込む。
「どうですか、調子は」
「うーん……ひまり先輩に教わったことを、自分でも出来るようにしようとしてるんですけど、難しい、です」
ひなたが言った。
「何を教わったのですか?」
「フレーズの音を、一音ずつで捉えず、流れを意識したほうがフレージングが上手くなるって言われました」
「合奏でも、いつも言っていることですね」
「はい」
「曲は、音の集合体です。特にフレーズは、音と音が並びくっついて出来上がっている。それを楽譜通りに吹こうとすると、一つひとつの音に意識が向きすぎてしまう」
「私はそこの癖が強いみたいで、ひまり先輩にも、直したほうが良いと言われました」
「どう直すのかは、教わりましたか?」
「息を、ずっと流し続けるように、って」
「ふむ、詳しく」
「えっと……フレーズを吹き終わるまで息の流れを変えずに、一本の息で吹くように、音が高いとか低いとか、音量が大きいとか小さいとかに関係なく、息の調子を変えないことを意識してみて、って言われました」
どの吹奏楽器であっても、大切なことだ。
やはり、ひまりにひなたの指導を任せたことは、間違いない。丘があれこれ言わずとも、ひなたに適切な指導をしてくれるはずだ。
「是非、それをしっかり続けなさい」
「はい!」
「谷地はどうですか」
かおるは、合宿の時は牧絵に教わっていたはずだ。ただ、牧絵は大学が県外にあって、普段は練習を見に来ることが出来ない。
だから、別の卒部生が普段は担当している。
「私は、牧絵先輩にもっと力を抜いたほうが良いって言われましたぁ」
のんびりとした話し方の子だ。動作もいつもゆっくりで、二年生の中でもあまり目立つ方ではない。
その割に、楽器を吹く時は、常にぐっと力が入ったような身体の使い方をする。
「でも……力を抜くって、良く分からなくて」
「ふむ」
「楽器を構えるのも、息を吸ったり吐くのも、唇を固定するのも、力って要るのになぁって」
「それはそうですね。では、溝口はどういう練習をしろと言っていましたか?」
「無理に吹こうとしない方が良い、とは言われたんですけど……」
口ぶりからして、かおるにはあまりピンと来ていないようだ。
「せっかくですから、今から言う事を、一ツ橋も一緒に考えなさい」
「あ、はい」
「二人とも、音を出すために必要なものはなんだと思いますか?」
二人が、顔を見合わせる。
「リード、です」
ひなたが言った。
「私は、息だと思いまぁす」
「あ、そっか」
丘は、頷いた。
「どちらも正しいですよ。オーボエはリードが無ければ音が出ないし、どちらも息がなければ音は出ない。
では音を出す時のことを考えてみましょう。フルートなら楽器を構え、唄口に唇を当て、息を吐ききってから息を吸い、唄口へ吹き出して音にしますね」
「はい」
「その時、例えばドの音を出すためには必ず、ドを出すのに必要な息の量や唇の力加減、フルートの持ち方がある。それは、どれくらいの加減なら出るのか、というのは分かっていますか?」
かおるが、首をかしげる。
「つまり……ドを出すための必要最低限の力、というものがあるのです」
丘は、顔の前に指を一本立て、ふ、と軽く息を吹き出した。
「ピアノでもメゾピアノでも、自然に出てくる小さな音量で構いません。必要最低限の息の使い方で、ドの音を出してみるのです。無理に出そうとするのではなく、あくまで自然に出るように。出そうと思わずに。やってみなさい」
かおるが、楽器を構えた。
「楽器を構える時も、肩や腕や肘、足や腰……身体のどこかに無理な力がかかっていないこ事を意識しなさい。谷地は普段、実にリラックスした動き方をしていますから、その普段通りの身体の使い方で構いません。無理に背筋を伸ばそうとか、腕をしっかり上げようとか考えず、楽に構えなさい」
かおるが、少しだけ楽器の位置を下げた。
「その状態で、ゆっくりと鼻から息を吐き、吐ききってから、息を吸う」
言った通りに、かおるがする。
「そして、ふ……と、自然に、ドが出るだけの息を出す」
プ、とフルートから、はっきりとしたドの音が出た。
「今は、かなりはっきりと音が出ました。ドを、きちんと出そうと意識しすぎましたね?」
「そう、かもしれません」
「それは、どこかに無理な力を加えてしまっているということです。そうではなく、自然に息を出し、自然にドが出るのを待つのです。待つ、というのが大切です」
かおるが、目を閉じ、静かに、呼吸した。
それから、静かに、息を吹き出した。最初は、息の音がするだけで、音にならない。
「それで良いので、何度か繰り返してみなさい。自然にドが出るまで。身体や唇や舌に、余計な力を加えずに」
何度か繰り返すうちに、息の音に混じって、少しだけドの音が聞こえてくる。
「そうです、続けて」
さらに繰り返すと、息を出した瞬間に、静かにドの音が鳴った。
それは、力みのない、実に済んだ良い音だった。
「それです。それが、フルートでドの音を出すための必要最低限の力です。どうですか、力は必要でしたか?」
かおるが、首を振った。
「唇や身体にも強い力は不要でしょう?」
「はい」
「それが、音を出すという事です。どの音を出す時も同じですよ。高かろうと低かろうと、その音に必要最低限の力で出せることが大切です。
力を使えば、無理やり音は出る。だが、それでは楽器本来の美しい音にならない。楽器ごとに必要な力というのは決まっているのです。後はそれがメゾピアノなのかフォルティッシモなのか、速い曲か遅い曲かといったところで変わるだけで」
表情の明るさから、何となくでも、かおるにも伝わったようだ。ひなたも、感心したように頷いている。
「ドだろうとレだろうと、オクターブ上だろうと……全て、必要最低限の力で、無理なく自然に出せるように意識してみなさい。美しい音で、というのを忘れずに」
「はーい!」
声に、明るさが出た。大丈夫だろう。
頷いて、丘は二人から離れた。
「丘先生、ありがとうございました!」
「頑張ってください」
部室を出て、他のメンバー外の生徒の元へ向かう。
合奏の前には、ひとり一人を回って、必要であればアドバイスをするようにしていた。
代表選考会を抜ける事が出来れば、東海大会の前には再度オーディションを実施する予定になっているから、今メンバー外でも、そこでメンバーになる可能性はある。
去年の万里が、そうだった。
メンバー外になったからといって腐ってしまわないよう、心のケアをするのも、顧問としての仕事の一つだ。
その積み重ねが、部員一人ひとりの成長に繋がる、と確信している。
「おっと……」
最後の一人を見終えたところで、合奏の時間が迫っていた。もうすぐ、コウキが呼びに来るだろう。
一足早く、図書室へ向かおう、と丘は思った。




