十五ノ五 「大花火 三」
元子の嘘でトイレまで来ただけで、別に用事はなかった。
だが、コウキについてきてもらった手前、中に入らないわけにもいかず、洗面所で汗を落としたり前髪や服装を整えて、時間を潰した。
今日は、少しでも可愛いと思ってほしいから、本当は化粧もして来たかった。けれど、智美からコウキは化粧をしない子の方が好きだと聞いていたから、やめたのだ。
せめて他のところで精一杯可愛く見えるようにお洒落をしてきたが、コウキには、どう見えているのだろう。
鏡に映る自分に、目をやる。グレーの膝上丈のプリーツスカートに、ゆったりめの白Tシャツの裾をインしている。スニーカーはキャンバス地の白。可愛らしさとラフさと清楚感を良い具合に出すためのコーディネートだとかで、手持ちの服の中から智美が組んでくれた。
服のコーディネートについては、智美の方がずっと詳しい。だから勝負の日は、つい頼りたくなる。
最後にもう一度髪をチェックして、女子トイレを出る。
トイレの外は、待ち合わせや列に並ぶ人で、混雑していた。男子トイレの方が特に混んでいるようで、まだ、コウキは出てきていない。
他の人の邪魔にならない位置で、トイレの出入り口から見える場所に移動し、コウキを待つ。
大分時間が経ったからか、少しずつ、花火の量も頻度も増してきていた。トイレ付近は木々が生えているせいで全体が見えないが、色とりどりの花火が打ち上げられている。
大花火が打ちあがるまでは、あと一時間弱はあるだろうか。
「お、やば」
隣から声がした。
「君、めっちゃ可愛いね、一人?」
いつの間にか男が二人、そばに立って幸を見ていた。
銀色、と言えば良いのか。くすんだ色合いに染められた髪は、ワックスでかっちりと決められている。白のTシャツにダメージの入ったジーンズと革靴に、程よく鍛えられた肉体。少し年上に見えるから、大学生くらいか。
もう一人は、違う所と言えば黒の短髪であることくらいで、銀髪と対して差のない恰好をしている。
「やば、今日イチ可愛いわ」
あっという間に前方を左右に位置取られた。
カバンを身体の前で抱え、後ろに下がる。だが、トイレの建物に背中が当たる。
これでは、逃げようがない。
「……私、ですか?」
「どう見てもそうじゃん。いや、ほんとに可愛いね。もしかしてモデルとか芸能人やってる?」
「……やってない、です」
「マジか、東京行ったら絶対スカウトされるレベルだって」
「今一人?」
「……人、待ってます」
「マジ、男?」
無言で、頷く。
もしかしなくてもナンパだろう。最悪だ、と幸は思った。
夕達の危惧は、正しかったのだ。
コウキは、まだトイレから出てきていない。
「いやぁ、マジか。高校生? だよね? 待ってる奴って同級生?」
「……」
「そいつ置いてってさ、俺らと花火見ない?」
「マジ逃したくないわ、君みたいな可愛い子」
周囲に目をやる。他の人達は、幸がナンパされていることには気づいているようだが、助けようとはしてくれない。
薄情、と言うことはできない。幸でも反対の立場なら、何も出来ないだろう。
「……大丈夫、です」
男は二人とも、百八十センチはあろうかという長身だ。見下ろされるような形で挟まれていると、圧迫感よりも恐怖感の方が強い。
妙に鼻につくニオイも、不快だった。よく見れば、二人とも顔が赤らんでいる。
アルコールか。
「お、大丈夫? なら行こっか」
「行こうぜ行こうぜ。場所取ってあるから」
腰に手を添えられて、ぞわりとした。
「ちょ、やめてくださいっ……」
有無を言わさぬ圧力で腰を押されて、足が前に出る。
「ほんと可愛いね。モテるでしょ? 名前、なんて言うの?」
「教えてよ教えてよ。名前、知りたいわ」
強引で、遠慮がない。この二人、相当酔っているのだろう。
腰の手を払いのけたいが、拒否をしたら、どうなるか分からない。
また、助けを求めて周りに視線を送る。
トイレの周辺にいる男性や、道を歩く人波の中の男性達は、こちらを見る事はあっても、近づいてきてはくれない。
少しずつ、トイレから離れてしまう。人の波の中に入られたら、コウキに見つけてもらえなくなるだろう。
二人組は、なおも好き勝手に話している。腰に回された手も、一向に離れる気配がない。
立ち止まろうとしても、腰の手に押されて無理やり歩かされる。
「ちょっと」
聞き慣れた声に、はっとした。
「その子、俺の連れなんですけど」
コウキだった。
一瞬、目が合う。コウキは、すぐに二人組に目を向けた。
幸は、安堵を感じて、ぐっと唇を噛んだ。
間に合ってくれたのだ。
涙が出そうになるのを、こらえる。
「何、お前?」
「邪魔すんなよ」
二人組が、コウキを囲んで睨みつける。
コウキも背が低いほうではないが、この二人と比べると十センチほどは低いから、見下ろされる形になっている。
しかし、二人から睨みつけられても、コウキは物怖じした様子もなく、向き合っている。
「この子、俺らと花火見るから。どっか行っていいよ、お前もう」
「はい、子どもは帰りな。お疲れー」
言いながら、黒髪の方が、コウキの肩を小突く。一歩よろめいたが、コウキはそれ以上は下がらなかった。
心臓が、あり得ないほど早鐘を打っている。
今まで、コウキが誰かと喧嘩をした所は見たことがない。きっと、得意な方ではないだろうし、酔った二人を相手に勝てるほど、強いとも思えない。
にもかかわらず、額が触れそうな程の距離で睨まれても、コウキは動じていない。
「その子、俺の連れなんで。返してください」
「しつこ。女の前でカッコつけようとすんな、雑魚が」
「イキんなよ?」
額を小突こうと、黒髪が手を伸ばした。その手を、コウキが難なく避ける。黒髪が、目を見開いた。
「てめぇ、舐めてんのか?」
「こっち二人だからな? 勝てると思ってんのかよ?」
「もう良いって」
怠そうに、コウキが息を吐く。
「目撃者多いんだから、やめよ。あっち見てみ、ほら」
コウキに言われて、二人組がトイレの方に目をやった。
数人が携帯を構えて、やり取りを撮影している。ビデオカメラを構えている人もいた。
「このやりとり、撮ってもらってるから。俺のことを殴っても良いけど、そしたらあの映像を警察に渡すよ。捕まるのは、そっちだからね」
二人組の腰が、わずかに引いた。
「この付近、結構警察いるから。ほら、あそこにも」
コウキが指差した方を見る。道に出来た人波の奥に、一段高いところに立つ男性警官の姿があった。花火会場のいたるところに居る見張りだ。少し離れているが、大声を出せば、聞こえそうな距離である。
「これ以上やるなら、叫んで呼ぶよ」
「ッ……クソが!」
二人組は、顔を酷く歪ませると、コウキに思いきり肩をぶつけた。そのまま、こちらを睨みながら、人の波の中へ消えていった。
「……ってーなぁ」
「だ、大丈夫、コウキ君?」
「ああ、うん。幸さんは?」
「私も……」
「良かった」
「あの」
「ごめん、先にちょっとついてきて」
手を握られた。そのまま、カメラを構えていた人達の元へ向かうと、コウキは深々と頭を下げた。
「すみません、急なお願いしちゃって。助かりました」
「いやぁ、これくらいしか出来なくてごめんよ」
「私も、助けに入れたら良かったんだけど」
「いえいえ、撮影してくれてただけで、めちゃくちゃ助かりました。おかげでこの子を連れていかれずに済みました、ありがとうございます」
ビデオカメラを構えていた中年の男性が、こちらを見てくる。
「君、良い彼氏さん持ったね。あんな連中を追い払えるなんて、凄い子だよ」
「ほんと。喧嘩にならずによく止められたね!」
「ひやひやしたなぁ」
「皆さんのおかげです、本当にありがとうございました」
それから一言、二言交わすと、撮影していた人達は、皆立ち去った。
彼らを見送ってから、コウキはこちらに向きなおって、両手を合わせた。
「助けるのが遅くなってごめん。幸さんが連れていかれそうになってたのは、トイレから出てすぐ気づいたんだけど、二人組だったから喧嘩しても勝てる気しなくてさ。今の人達に、撮影してもらえないかって頼んでたんだ。周りの目があれば、あいつらも思いとどまるかなって。それで、遅くなった」
「そうだったんだ」
「俺が中に入らずに、トイレの前で待ってればよかった、ほんとごめん」
「……ううん、助けてくれてありがとう。コウキ君が来てくれなかったら……私、ほんとに連れていかれてたと思う」
「とにかく無事で良かった。怖かったよな」
言われて、自分の身体が震えている事に気がついた。
「ちゃんと守れって智美達にも言われてたのに……ほんとごめん」
幸は小さく首を振り、一歩、コウキへ近づいた。そのまま、コウキの肩へ、頭を預ける。
「幸さん」
「少し、こうしてても良いかな、コウキ君」
無言。それを、肯定と受け取った。
背後で、次々と花火が打ちあがっているが、その音も振動も気にならないほど、幸は心臓の鼓動に意識が向いていた。
二人組に連れて行かれそうになって、恐怖はあった。だが、それ以上に毅然とした態度で助けてくれたコウキの姿に、見惚れてしまった。
あんな風に颯爽と助けてくれる人は、なかなかいないだろう。
顔が、今までに感じたことがないほどに熱い。全身も、火を噴きそうなほど、火照っていた。
とても、コウキと目を合わせられない。
もうしばらく、こうしていたい。




