終 「新しい三年間」
竹ぼうきが地面を擦れる音が、何度も繰り返される。
老婆は、こちらに背を向けたまま、玄関の前を掃いていた。落ち葉一つないにもかかわらず、老婆は隅の方まで、丁寧に掃いている。
きっと、ゴミや塵が溜まってから掃いていては遅いのだ。ああやって、毎日掃除をするから、美しい玄関先を維持できるのだろう。
前の時間軸で一人暮らしをしていた頃は、家の中だけは綺麗にしていたが、とても玄関先まで気を回す余裕はなくて、滅多に掃くことはなかった。
庭も、家庭菜園のスペース以外は、よく草が伸び気味になっていたものだ。
「こんにちは」
老婆の背に声をかけると、振り向いた彼女は、笑顔を見せた。
「あらぁ、美奈ちゃん」
「遊びに来ました」
「どうぞぉ、入って」
頭を下げ、敷地内へ足を踏み入れる。
老婆は、以前、智美を救うために力を使っていた時に出会った人だ。力を試すために、何十人という人を実験台にしたうちの一人である。
何度か通ううちに、顔見知りとなっていた。
こうして会うのは老婆だけではなくて、美奈が力を使った人の中で居場所の分かる人とは、定期的に会っていた。彼ら彼女らが、力の影響で苦しんでいないか確かめる意味もある。
それは、美奈なりの贖罪の示し方でもあった。
最初は関係の構築から始めねばならなかったから、中には、上手くいかなくて、遠くから見守っているだけの人もいる。それでも、こうしていなければ気が済まない。
「今日も、綺麗にしてるんですね」
「癖みたいなものねぇ」
「常にお家を綺麗にしていられるのって、心が整っていないと出来ないことだから、尊敬します。その人の心は、住む場所に表れる、と私は思うから」
老婆は意外そうな表情を浮かべてから、頬を緩めた。
「素敵な考えねぇ」
そういう意味では、前の時間軸の美奈の心は、荒んでいた。
「私、中学卒業したんですよ、おばあちゃん」
「あらぁ」
老婆の顔が輝いた。
「卒業、おめでとう」
「四月から高校生なんです」
「もうすっかり大人ってことねぇ。美奈ちゃんは、どこの高校に行くの?」
「花田高校って知ってますか?」
「勿論知ってますよぉ。隣町のね」
「そうです」
「良い高校生活になるといいねぇ」
「友達も一緒に行くから、きっとなると思います」
「あら、そうなの」
老婆はまるで自分のことのように、満面の笑みで頷いている。
「おばあちゃん」
「はい?」
「ちょっと、聞いても良いですか?」
「勿論、良いよぉ。座るかい?」
そう言って、老婆は玄関先の小さなベンチを勧めてきた。頷いて座ると、老婆も隣に腰を下ろした。
「それで?」
「……人を傷つけてしまった人間は、幸せになる資格って、あるんでしょうか」
老婆の目が薄く開かれる。それから、少しの間を空けて、老婆は口を開いた。
「美奈ちゃんは、そういう人は幸せになる資格はない、と思うの?」
「……はい」
「私は、そうは思わないねぇ」
「どうしてですか?」
「誰かを傷つけてしまった者は幸せになる資格がないだなんて、そんな許しのない世界は、辛いじゃない。人は生きている限り、誰でも幸せになったり、やり直す権利があるよぉ」
「でも、自分のせいで誰かが幸せになれないかもしれないんですよ」
「生きている限り、人は必ず誰かを傷つけるものじゃないかしら。それに、人に限らず、肉や魚や野菜を食べることだって、他の命を傷つけたり奪う行為じゃない」
「それは……そう、ですけど」
「私達は、生きている限り、他の命を傷つけずにはいられないのよぉ」
「でも、故意に傷つけた場合は?」
「それなら、その相手への贖罪の気持ちを忘れずに、一人でも多く他の人を幸せにすることだねぇ」
「相手ではなく、他の人を、ですか?」
「相手を幸せにできたとしても、自分が罪を犯した事実は消えないもの。誰かを傷つけたなら、それ以上に多くの人を幸せにするくらいでなきゃねぇ。
私も、なるべく人のためになることをしようと意識して生きてるよぉ」
「すごいなぁ」
老婆が、ふ、と笑った。
「でもそのためには、自分自身も幸せでなきゃ。罪の意識だけで生きている人に、人を幸せにすることはできないもの」
「……なるほど」
老婆が、美奈の膝に手を置いてくる。
「美奈ちゃんは、誰かを傷つけたのかい?」
問われて、美奈は戸惑いがちに、首を折った。
「それで、悩んでいるのかい」
「はい」
「私はねぇ、美奈ちゃんが周りの人を助けながら生きて、見知らぬ人も苦しまないような生き方をしていれば、美奈ちゃん自身も幸せになろうとして良いと思うよぉ」
「そうでしょうか」
「私は美奈ちゃんがこうして時々遊びに来てくれるおかげで、寂しさが紛れて、幸せですよぉ」
顔を上げて、老婆を見る。
老婆は、美奈に力を使われたことを憶えていないだろう。憶えていたとしたら、こんなことを言ってくれただろうか。
この悩みを、なぜコウキや母親や元子ではなく、この老婆にしようと思ったのだろう。
考えてみて、この老婆の生き方や考え方が、美奈の中で気になったからだろう、と思った。この老婆は、人生というものを深く見ている。この人なら、何か、違った意見をくれるかもしれない、と思ったのだ。
それは、間違いではなかった。
穏やかな微笑みを向けられて、美奈も、薄く笑顔を浮かべた。
春。入学式。ちょうど、桜の季節だ。
花田高へは、受験の時にも来ていた。その時はまだ、正門の急坂の桜達は、咲いていなかった。
今は、満開を少し過ぎたところといった感じだった。
風が吹いて、花びらが舞っている。
コウキと智美と、それを見上げていた。
「いよいよかぁ」
智美が言った。
「まさか、私達が花田高なんてね~」
「ついてきてもらって良かったのか、本当に?」
「今更それ聞く? もう入学してるのに、ねえ、美奈?」
「うん」
頷いて、美奈は笑った。
「勉強は、どこでも出来るよ。それよりも、吹奏楽部が楽しみ」
「ああ」
花田高への進学を決めたのは、コウキからの誘いだった。
三河地方で吹奏楽の強豪校といえば、安川高校、北高校、花田高校の三校だ。
せっかく中学の三年間を吹奏楽に費やしたのだから、高校でも頑張ろうと思っていた。そこに、コウキからの誘いだ。
智美も行きたい高校があったわけではなかったようで、コウキの誘いに、すぐに乗っていた。
二人が行くつもりなら、美奈に断る選択肢はなかった。
三人とも、教師達には何度も志望校を変えるように説得された。それでも、意思を変えることはなかった。
勉強をするために生きているわけではない。その気になれば、自分ひとりでも勉強はできる。
誰と、何をして生きたいか。
それが、一番大切だろう。
美奈にとっては、親友である二人と共にいることだった。
「智美は、陸上部だよな」
「もち」
「こっちに入れば良いのに」
「私は、身体を動かす方が好きだもん」
誰からともなく、歩きだす。正門を抜け、急坂を上っていく。
「生徒玄関から入るんだよね」
「そうだな」
坂を上りきって左手に曲がれば、生徒玄関が見えてくる。新入生も在校生も、皆同じところから入るから、混雑しているようだ。
「いてっ」
誰かが、コウキとぶつかった。随分と、小柄な女子生徒だった。
同級生だろうか、と美奈は思った。
「あ、ごめん」
「いえ、こちらこそ」
女子生徒はその一言だけで、そのまま前へ歩いて行ってしまった。
「あ、何か落ちてる」
智美が、何かを拾い上げる。
「生徒手帳だ」
覗き込むと、開いた一頁目の写真の下に、名前とクラス名が書いてある。
山口月音。二年生のようだ。
「あの人のだよね」
「すみません!」
コウキが呼びかけたが、女子生徒は気づかないまま、生徒玄関の人込みへと消えてしまった。
「……後で、探してみるか。クラスは、書いてあるし」
「うん、コウキ、持っておいてよ。顔、憶えられてるだろうし」
「分かった」
受け取った生徒手帳を、コウキがポケットにしまった。
「じゃ、行くか」
「はーい」
「うん」
もうすぐ、高校生活が始まるのだ、と美奈は思った。
前の時間軸では、無味乾燥な三年間だった。本当に、ただ勉強しかしていなかった気がする。どんな思い出があったかも、全く記憶にない。
今度は、そうはならないだろう。
隣に、コウキと智美がいるのだ。この二人が居れば、退屈などとは無縁である。
無意識に、美奈は立ち止まっていた。
先日、老婆と話した内容を思い出していた。
周りの人を助け、見知らぬ人を苦しめない生き方をする。
老婆が教えてくれたそれは、罪を犯した美奈がすべき生き方だ、と思えた。そうやって生きていられたら、美奈も、この幸せな時間を噛みしめても良いのではないか、と思える。
自分が傷つけた人達も、それ以外の人達も、幸せでいられるような生き方をする。そのために、力を尽くす。
結局、やることは、これまでコウキとやってきたことと変わらないのかもしれない。だが、それだけではなく、もっと出来ることをしたい。
自分の持つ知識や経験も活かして、この高校生活を、自分だけでなく周りの人も、良い三年間だったと思えるように。
「美奈、立ち止まってどうしたの?」
少し先を歩いていた二人が、振り返っていた。
美奈は微笑んで、首を振った。
「何でもない」
言って、二人に駆け寄った。
きっとまた、色々なことがあるだろう。
だが、その解決のためにあの力を使う事は、二度とない。
過ぎた力は、不幸を呼ぶ。
特別な力を持たないただの大村美奈として、生きていきたい。
ここからが、美奈の新しい三年間の、始まりだ。




