三十六 「コウキの気持ち」
雪だ。それも、かなりの降雪量である。あまりの勢いの強さに、窓の外が白で埋め尽くされている。
この地方にしては、珍しいことだった。雪が降るだけなら毎年あるが、この勢いだと明日は積もるだろう。
「何か、雪ってテンション上がるね」
ストーブの前で丸くなりながら、洋子が言った。美奈の部屋は狭いから、このストーブ一台でも充分に暖まるのだが、寒がりの洋子には辛いらしい。
「そうだねぇ。久しぶりだもんね」
答えて、美奈は窓から離れ、ストーブの前に移った。自分が使っていたひざ掛けを、洋子の肩にかけてやる。
ありがとう、と言われ、美奈は微笑んだ。
「お姉ちゃん、ちゃんとやれてるかなぁ」
トランペットのボディを布で磨きながら、華が言った。学校から持ち帰ってきたらしい。
「もうコウキ君と会ってるの、華ちゃん?」
「多分。朝に出て行ったし」
「智美先輩にも、食べて欲しかったなぁ」
折り畳み式の机の上には、洋子の作ったフォンダンショコラと、美奈のガトーショコラ、華の生チョコが置かれている。
バレンタインデー当日。深夜から雪が強まった影響で、今日は学校が臨時の休校になっていた。だから、昼にもかかわらず三人で集まれているのだ。
別に来なくても良いと言ったのに、二人は雪の中やって来た。
「コウキ君と智美先輩、付き合うのかな?」
「どうかなぁ。コウキ先輩って、恋愛のことどう考えてるのかよく分かんないし」
「私は、付き合って欲しいなぁ。二人とも大好きだもん」
「まぁ、私も、そうだけどねぇ~。美奈先輩はどう思います?」
「うーん。コウキ君と智ちゃんなら、上手くいくと思うけど」
「けど?」
「どうなんだろうねぇ」
今まで、コウキと恋愛の話をしたことはなかった。モテることは知っているし、ファンクラブの存在も知っている。常にと言っていいほど隣にいたから、コウキに告白をしてきた子は何人も見てきた。
それでも、そういう話をする機会はなかったのだ。美奈も、同年代は皆子どもに見えてしまうから、そういう想いになったこともない。
時折、自分が幼い十五歳の大村美奈に感じることはある。だが、やはり主の感覚は大人の美奈のようで、周りの子達を大人の眼差しで見守るような、常に一歩引いた立ち位置になりがちだ。
そういう状態だからか、恋愛というものにも、興味が沸かない。
そもそも誰かを好きになること自体、前の時間軸のコウキが最後の相手だった。今の時間も含めれば、十五年以上、そういう気持ちを異性に抱いてこなかったことになる。
好きとか嫌いとか、そういう感覚そのものが、分からない。
「早く報告聞きたいなぁ」
無邪気に言う洋子。この時間軸の洋子は、コウキへの好意の形が違っていた。乙女としてではなく、兄に対する妹が持つ好意のような、そんな類のものだ。
頼る存在として、美奈という同性がいたからだろうか。コウキも、洋子の事を妹のように扱っている。
だからこそ、智美の想いが分かった今でも、こうして和やかに過ごせている。前の時間軸では、考えられないことだった。
二人で、ゲームをしていた。
ピンク色の丸い生物が、敵を吸収して力をコピーする。その力を使って、ステージをクリアしてボスを倒していくアクションゲームだ。
コントローラーを二つ用意すると、二人プレイもできる。幼い頃、コウキと二人で遊んでいた時によくやっていたものだ。
「そこ! そいつ倒して!」
「やるやる、待ってくれ」
「あ、ホイール! 私これになりたい」
「オッケー」
はしゃぎながら、次々とステージをクリアしていく。二人だけでこうして遊ぶのは、いつぶりだろう。
「よし、クリアー!」
最後のボスを倒して、エンディングが流れる。コウキと手を打ち合わせた。
「久しぶりにやると楽し~。しかも、昔のゲームってすぐ終わるから良いよね」
「だな。俺もめっちゃ久々にスーファミ出した」
「おっきくなったら、やらなくなるよね~」
オープニング画面に戻ったゲームを消し、コウキが息を吐いた。
「はぁ、腹減った。そうだ、ケーキ食べて良い?」
「もち! いっぱい食べてよ。全部食べても良いから」
「そんなん、ほんとに食べ切っちゃうぜ」
「どうぞどうぞ」
美奈に教えてもらって、チョコケーキを自作した。今日は、それを持ってきたのだ。十二センチのホールだから、それ程大きいわけではない。
フォークで一口切り分け、コウキが口へ運ぶ。瞬間に、その目が、とろんと緩んだ。
「めっちゃ美味い!」
「でしょ。頑張ったんだよ」
「智美がなぁ。凄いじゃん」
菓子作りがそれほど得意ではないことは、コウキも知っている。
「コウキの為だけに作ったんだよ」
「なっ……何だよそれ」
顔を赤らめて、コウキが目を逸らす。
「ほんとだって! 私、バレンタインデーに手作りを男の子にプレゼントするの、初めてなんだからね」
目を瞬かせ、また逸らされた。コウキの顔は、完全にゆで蛸のように染めあがっている。
「昔はさ、よく二人で遊んだよね。ここで」
「え、ああ、そうだな」
「私が記憶を無くしてからさ、遊ぶことなくなったじゃん」
「だな」
「コウキはそのことについて、どう思ってたの?」
「え……どうって」
もう一口ケーキを食べて、コウキは視線を上に流した。
「あの頃は、俺人見知りだったからさ、ああなんか智美に嫌なことしちゃったのかなと思って、声かけられなかったよ」
「そうなんだ」
「次に同じクラスになった時には、なんか初対面みたいな対応されて、ちょっと寂しかったのは覚えてる。そんなことがあったなんて、想像もしてなかったからさ」
「……もし私が事件に合わなくてさ、記憶もなくしてなかったら……私達、どんな関係になってたんだろ」
「どうだろ。変わらず、仲は良かったんじゃないか?」
「かな」
すでに、ケーキは半分になっている。コウキの手が止まらないところを見ると、相当気に入ってくれてるらしい。作った甲斐があるというものだ。
「あ、そういえば、コウキって幼稚園の頃さ、私と遊んだ日には私の話ばっかおかあさんにしてたんでしょ」
コウキが激しく咽せ、目を白黒させながら紅茶を流し込んだ。口元を拭い、こちらを見てくる。
「ど、どこ情報だよ!?」
「コウキのおかあさんが言ってたよ。前にスーパーで会った時」
「余計なことを……」
「私のこと、大好きだったんだねぇ」
からかうと、またコウキの顔が朱くなった。
「小さい頃の話だろ!」
「えー、今はじゃあ好きじゃないの?」
「何言ってんだよ!」
「私は、コウキの事好きだよ?」
そう告げると、コウキの動きが止まった。
「だから、頑張ってケーキ作って会いに来たんだもん」
コウキの目が、ケーキに落ちる。
「好きじゃなきゃ、こんなケーキ作らないよ、私が」
「え、あ」
「今日は、今までのお礼と、私の気持ちも伝えたくて来たんだ」
コウキの顔が、真剣なものに代わる。智美も、姿勢を正して、真っすぐにコウキを見た。
「色んなことがあってからさ、私のこと、ずっと守ってくれてありがとね、コウキ」
「……いや」
「凄く嬉しかったよ。大切にされてるって感じてた」
「うん」
「コウキが傍に居てくれたから、私、今日まで毎日楽しかった。それは、美奈もそうだけどね。二人のおかげで、私は普通に生きられてる」
コウキが頷く。
「やっぱり美奈に心の認識を変えてもらった影響なのかな? 私ね、自分でも不思議な感覚になるんだけど、それまでとそれ以降でがらっと変わった自分自身っていうのを、はっきり自覚してるの。
前までは、男の子にドキドキするなんてこと、なかった。好意を見せられたり、優しくされるのも、なんだか凄く嫌だった。例外はコウキだけだったかな。
でもね、あれ以降は、コウキに優しくされるとね、凄くドキドキするようになったんだ。変だよね。認識っていうのが変わるだけで、こんなに自分が変わるなんて」
自分でも、驚いている。
元々、女の子らしいことをするのは嫌いではなかったし、お洒落だって好きだった。一方で、周りから女の子として見られたくないという想いもあった。
今では、自分の女の子らしさというものを、きちんと表現したいと思っている。そしてそれを、コウキに見て欲しいと思っている。
「コウキって、こんなにかっこよかったっけ?」
「な、何言ってんだよ」
「ほんとにそう見えるんだもん。なんか、変だよね」
冗談めかして言っても変に茶化さないところも、コウキの良いところだ。
「でも、この感覚も気持ちも、凄く心地いいんだ。誰かを好きになるって、こんなに素敵なことなんだって気づいた。胸がきゅってなって、あったかくなって、幸せって感じがするの。
それに気づかせてくれたのはコウキなんだよ。だから、ちゃんと伝えたかったの。コウキのこと、好きだよって」
「智美」
「記憶を取り戻した時はさ、死にたいくらい辛かった。でも、今は不思議なくらいあの時の苦しみって身体の中から消えててね。
今じゃ、コウキとの記憶も取り戻せたし、コウキを好きっていう気持ちも知れたし、自分を素直に表現できるようにもなったし……良かったって思う」
「……そっか」
「ね、コウキ。コウキは? 私のこと、どう思ってる?」
「それ、聞くのかよ」
「当たり前じゃん。気になるもん。やっぱさ……私より長く一緒に居るし、美奈の方が、好き?」
コウキが、はっとした顔をした。
智美の中では、それだけが気になっていた。コウキと美奈は、智美以上に一緒に居る時間が長い。いつも二人で学校内の様々なことを解決していたし、校内で知らない者はいないというくらい有名なペアだ。
コウキに好きな人がいるとしたら、美奈だろうというのは、傍にいる智美じゃなくても分かることだった。
「別にそれならそれで良いの。私は、今のままの関係で。三人の関係を壊したくないもん。でも、コウキの気持ちだけは、はっきり聞きたい」
じっと、コウキを見つめる。
「今言ったほうが、良いか、やっぱ?」
「聞きたい」
「……」
コウキの視線が、僅かに揺れる。それから、ぐ、と唇を結び、智美を見つめてきた。
「美奈ちゃんは、信頼できる仲間というか、親友だ。好きとかそういうんじゃないよ。向こうも、多分そうだと思う」
「そうなんだ」
「うん。好きとかそういうので一緒にいるわけじゃないから」
「じゃあ、好きな人、いないんだ」
「そうは言ってないだろ」
「え、じゃあいるの?」
コウキの顔が、また朱くなる。
「言わなくても分かるだろ」
首を傾げ、智美は眉をひそめた。
「分かんないよ、どういうこと?」
「……わざとか?」
「ほんとに分かんないんだって!」
「智美以外に、いるかよ」
「へ?」
「だから、俺の好きな人。智美以外にいるわけないだろ。いたら、こんなに一緒にいないだろ。二人っきりにも、なるかよ」
思わず、自分を指さす。
コウキも、黙って頷いた。
コウキを指さす。自分を指さす。コウキが頷く。
思わず、頬が緩んでいた。
「そうなんだ」
「そうだよ」
「それは、ちょっと、いや、かなり嬉しい」
「そりゃどうも」
「いつから? いつから好きになってくれたの?」
「言いたくない」
「駄目、言って」
「嫌だ」
「言わないと今日帰らないよ」
「どうせ雪が弱くなるまで帰れないだろ」
「コウキのおかあさんに、あれこれ聞いちゃうよ、コウキの昔話」
「やめろっ」
「じゃあ教えてよ。いつからなの?」
ぐい、と顔を近づけると、コウキは、初心な少年のように唇を震わせ、目を逸らした。
普段はぐっと大人びた雰囲気で格好いいのに、こういう時は、笑ってしまうくらい可愛い反応になる。そのギャップもまた、コウキの魅力だった。
昔は気づかなかった。今は、そんなコウキがたまらなく愛おしい。
「それだけは秘密!!」
言って、コウキが後ろに下がった。
「近づくのも禁止!」
「なんで?」
「恥ずかしくなる、無理だ!」
「やだよー、両想いなら良いじゃん」
「駄目! 徐々に!」
「むぅ」
頬を膨らませても、コウキは両手をバツの形にして拒否した。
「じゃあ、そのうち教えてよ?」
「……そのうちな」
「約束だからね?」
「……ああ」
「ね、コウキ」
「何」
「……へへ」
「何笑ってんだよ」
「好きだよ、コウキ」
「……うん」
「コウキも言ってよ」
「ええ~……」
「ほら」
コウキは、口を開け、息を吸う動作をしてから、また閉じてしまった。すぐに、また開ける。しかし、閉じる。
空いている方の手で、髪の毛をかき回し、ぶすっとした表情をしながら、また口を開いた。
「好き……だ」
「……うん、ありがと」
笑いかけると、コウキは、むくれたまま、顔を背けてしまった。
智美の心の中に、あたたかい幸福感が満ちていた。




