三十五 「智美の気持ち」
あの時ああすればよかった、こうすればよかった。そんな後悔は、幾度もしてきた。
その度に、あれは仕方がなかったのだと自分に嘘をついてきた。そうして心を鈍くして人との関りを絶っていき、母と祖母を失ってひとりぼっちになり、何のために生きているのかも分からなくなった。
生きながら死んでいた、と言えるのかもしれない。
そんな自分が、新しい人生でやり直す選択肢を貰った。
無意味な人生を捨て、生きている意味が欲しくなった。
積み重なった後悔をやり直し、思うままに生きたいと思った。
父と母と祖母を救いたいと思った。
友人を失いたくないと思った。
その全てを求めて、やり直した。
そして、また失敗をした。
前の人生より今が良いものになっていると、胸を張って言えない。
少なくとも、前の人生では今ほど多くの人を傷つけることはなかったし、分不相応な力に頼ることもなかったし、誰にも迷惑をかけないように生きていた。
今の自分は、多くの人を傷つけすぎた。
自分の人生だけを見つめていいのなら、何とでも言える。だが、生きるという行為は、独りではないのだ。自分の選択が、他者の人生にも影響を与える。
美奈が平穏に生きている陰で、苦しんだ人を生み出してしまった。その傷ついた他の人達は、前の人生よりも良い人生だとは、言えないのではないか。
「美奈」
呼びかけられて、振り返る。
制服姿の智美が、小さく手を振っていた。
「智ちゃん」
「お待たせ、先生の話長かったー」
「いいよ、行こう」
並んで、歩きだした。制服のスカートを揺らしながら、智美は上機嫌に歩いている。
昨日、髪を少しだけ短くしたようで、ふわりとしたボブカットが良く似合っていた。
以前よりも見た目の女の子らしさが増した智美は、男子からも注目されだしている。前までは、近寄りがたい雰囲気と、告白しても必ず振られるという噂から、智美に声をかける勇気のある男子はほとんどいなかったのだ。
あの件から随分と時間が経って、すでに季節は冬となり、三学期に入っていた。
卒業まで、ひと月だ。
智美は、大きくは変わらなかった。今まで通りの優しくて、明るくて、友達想いの女の子のまま。だが、周りから女の子として見られることを、嫌がらなくなっていた。
心の認識を変えた事で傷が取り払われ、素直に自分を表現できるようになったのだろう。
以前から女の子らしいことが嫌いだったわけではなかったから、それを隠さなくなった。
美奈もコウキも、智美が大きく変わらなかったことに安堵していた。過去のことについても、あれ以来、話題になることはないし、家庭内の雰囲気も元に戻ったようだ。
美奈もあれ以来、力は使っていない。
元子が力を封印する道具を見つけてきてくれたおかげだった。飲み薬のようなもので、飲むと力が使えなくなる効果があった。継続して封印し続けるためには、一年に一度は服用が必要らしい。副作用が全く
ないわけではなかったが、構わなかった。
何もかもが、平穏に戻っている。
「ねえ、美奈」
「なに?」
「もうすぐバレンタインデーじゃん」
「そうだね」
「チョコ、誰かに渡す?」
「ううん、誰にも。私、そんな相手いないもん。あ、でも智ちゃんと洋子ちゃんにはあげるよ」
洋子には、互いの手作りチョコを交換しようと言われているから、ガトーショコラでも久しぶりに作ろうと思っていたところだ。智美も呼んで、三人で食べるのも楽しいかもしれない。
美奈が菓子作りを教えてから、洋子はめきめきと腕を上げている。そう遠くないうちに、美奈よりも美味しいものを作るようになるだろう。今回も、フォンダンショコラを作るんだ、と気合を入れていた。
「コウキには?」
「ああ、うん。コウキ君にもあげようかな。いつものお礼に」
「やっぱり、そうだよねぇ」
「洋子ちゃんも用意するって言ってたよ」
「華もだなぁ」
ということは、すでに三つはチョコを貰うことが確定している。全員本命チョコではないにしても、さすがはコウキだ。
ファンクラブの子からも、大量に貰うのだろう。
「智ちゃんはあげないの?」
問いかけると、智美の表情が硬くなった。
「……いやぁ」
歯切れの悪い返事に、首をかしげる。
「なに?」
「……実はさぁ、あげようかなとは思ってるんだけど」
「うん」
「そのぉ……」
「その?」
「義理チョコじゃなくて、なんだけど」
「ふーん、義理チョコじゃなくて…………えっ、義理チョコじゃなくて?」
「うん」
智美の顔が、瞬時に朱くなる。後頭部をぽりぽりとかきながら、智美はへらりと笑った。
「本命、を用意しようかなぁ、と」
「コウキ君に?」
「そう」
「智ちゃんが?」
思わず足を止めて、智美の顔を凝視した。嘘を言っている顔ではない。
「やっぱ、変、かな」
慌てて、首を振った。
「変なんかじゃないよ。良いと思う」
「でも、コウキにどう思われるかな」
「なんで、きっと喜んでくれるよ」
「そう、かなぁ」
智美がチョコを誰かにあげること自体、珍しい事だ。コウキにすら、せいぜい市販のチョコをあげるくらいだったのに、本命とは。
「そっかぁ、智ちゃんが、コウキ君を」
呟いてから、妙に感慨深くなって、美奈は息を吐いた。
「いつから?」
美奈の問いに、智美は照れ臭そうにしながら歩きだした。歩調を合わせ、顔を覗き込む。
「はっきり意識しだしたのは、最近かな」
「そうなんだ」
「私のあのことがあってからさ、コウキ、凄く私のこと大事にしてくれるようになったでしょ」
確かに、智美の認識を変えてから、コウキは可能な限り智美の傍を離れなかった。いつ、何があっても良いようにと。
「不思議なんだよね、自分のことが」
「どういうこと?」
「きっとね、コウキ自身は何も変わってないの。前から私に優しかったし、私を女の子扱いしてくれてた」
「うん」
「それってコウキの人としての優しさなんだと思ってただけだった。でもね、今はコウキにそうされると、妙にドキドキするんだ」
「へえ」
「私、変なのかな?」
「そんなことないよ」
力を込めて、美奈は言った。
「その気持ちは、凄く素敵だと思う。誰だって、女の子扱いされたら嬉しいものだし」
「美奈も?」
「え、私は、ないよ」
美奈からすると、コウキは十歳以上下の子どもなのだ。時折はっとするような大人びた言動はあっても、コウキにドキドキするということはない。まして他の男子なら、余計にだ。
かといって、年上の異性にドキドキするかと言えば、それも無い。
そもそも、自分自身ですら、恋愛というものが分からなくなっている。
「……私は、そういうのじゃないから」
「誰だって嬉しいものなんでしょ?」
「そうだけど、私は、うーん、違うんだ」
「何それ……変なの」
「私の事はいいじゃん。それより、本命チョコあげるなら、成功させたいね!」
「う、うん。でも、受け取ってもらえるかな」
「大丈夫、きっと受け取ってもらえるよ。だって智ちゃんだもん」
コウキにとって、智美は特別な存在だ。断るとは思えない。
「そうだといいなぁ」
智美の呟きが、冬の空に乾いて響いた。




