三十四 「決意」
「後悔しない選択ができるといいね」
去り際に、元子が言った。
「もし薬を探すことを選ぶのなら、もう一度連絡して。出来る限りの協力はする」
「ありがとうございます」
二人で頭を下げると、元子は頷き、玄関を開けて出ていった。
横目で、コウキの方を見る。元子から自身の体質について言及されたというのに、あまり動揺している様子はない。コウキは、自分でも体質のことを自覚していたのだろうか。
居間へ戻り、向かい合って座った。
「どうしたい、美奈ちゃん? 山口さんの話を聞いて」
「……智ちゃんは、今こうしている間にも、過去の記憶に苦しんでる」
「うん」
「薬のリスクは、怖いよ」
「記憶を全て失う可能性もある、って言ってたな」
「家族の顔も、言語も、身体の動かし方も……私達のことも、何もかも忘れる可能性すらあるってことでしょ」
「うん」
「前回は、運が良かっただけ」
あまりにも、代償が大きい。
「じゃあ」
首を振った。
智美は、幼い頃に男に弄ばれた。そのトラウマを無くすことで、どんな変化を遂げてしまうのか。
「智ちゃんは、智ちゃんのままでいられるのかな」
「……今でも、智美は智美のままではいられてないよ。少なくとも、何もかも忘れていた頃の智美には、もう、二度と戻れないんじゃないか」
現実をはっきりと言われると、心が重くなる。
何をどうしようと、智美は、以前の智美ではない。
「実際のところ、薬を探せるかは分からないよな。別の空間なんて何があるか分からないし、子どもの俺達二人では、危険も多い」
「うん」
窓の外から、カラスの声が聞こえてきた。二羽が、交互に鳴いている。
空の色が、ほんの少し変わりかけていることに気がついた。元子に来てもらってから、長時間話していたから、もう、こんな時間なのか。
「……智美は、どうしてほしいんだろうな」
それは、美奈も考えていた。
美奈やコウキがどれだけ悩んでも、中心は智美だ。智美がどうしてほしいかで、全ては変わる。
智美さえ望むのなら、美奈は、一人でも薬を探し出す。
「……私、智ちゃんと話してみる。智ちゃんの考えも聞いて、もし……智ちゃんが望むなら……」
「認識を変える?」
「それが、必要なら」
コウキは、静かに頷いた。
「会いに行こう」
美奈と向き合っている。不眠に悩む智美が少しでも眠れるようにと、一日一度は部屋にやってきて、力を使ってくれるのだ。
だが、目を覚ませば、あの男の顔が蘇る。
記憶のもたらす嫌悪感や不快感は、一向に無くならない。
「……だから、智ちゃんが願うなら、私は薬を見つけてくるよ」
美奈から、今後の話を聞かされたところだった。
力に詳しい人に助言を貰い、智美が昔飲んだ記憶を忘れる薬をもう一度見つけ出すか、智美の心の認識を変えるかという解決策を、考えてきたらしい。
智美が望むなら、美奈はどちらでも実行してくれるだろう。
あの男のことが忘れられるのなら、全ての記憶を失っても構わない。たとえそうなったとしても、今のままよりも、ずっとマシだ。だが、そのためには、美奈の人生を賭けてもらう必要がある。どこにあるかも分からない代物を探し出すのに時間を要することは、考えなくても分かる。
「遠くにあるかもしれないんでしょ」
「……うん」
「じゃあ美奈は、それが見つかるまで戻ってこれないの?」
「遠くに行くなら、そうなる」
智美は、美奈の目をじっと見つめた。その目は、強く固い意思で満たされている。
美奈は、やると決めたら必ずやる子だ。智美がひと言、やって、と伝えるだけで良い。
「コウキも、行くんでしょ」
美奈が、頷いた。
コウキの話も美奈から聞かされていた。智美の事情をコウキには知られたくはなかったが、自ら答えに辿りついてしまったのだという。コウキなら無理もない、とも思う。
「コウキ君も、私と同じ考えだよ。智ちゃんが望むなら、どこへでも行く」
「いい」
智美は、きっぱりと言った。
「いい、って?」
「薬、探さなくていい。二人にそんな無茶してほしくないよ。それよりも、私の心を変えて。それなら、今すぐできるんでしょ」
「でも」
「私の人格が変わるかもって?」
「……そう」
「そんなこと、どうでも良いよ。今すぐ解放されるなら」
気にしないようにと念じても、頭の中ではあの男の顔が繰り返し浮かび上がり、された内容や当時の感情が蘇ってくる。それを跳ね除けようとしても、常にまとわりつく。自分の心のことなのに、どうしようもなかった。
考え方を変えるとか、気の持ちようとか、そんなことを言ったところでどうにかなるほど単純な問題ではない。制御の出来ない恐怖、憎悪、不快感。自分の身も心も汚されたという絶望。
それは、自分自身では、変えられない。
「助けて、美奈。今すぐ、私の心を変えて」
美奈は、一瞬俯き、それから、頷いた。
「分かった」
その言葉に、安堵する。
美奈の力の凄さは、何度も見せてもらった。どんなことだって命令できてしまう、凄まじい力だ。命令されれば、智美はきっと、あの男にされたことを何でもないことだと思えるようになるだろう。
そうしたいと願っても出来ないことが、美奈に言われれば、出来てしまう。
「今から、始める? お母さんにも、言う?」
「今、やって。お母さんには、後で良い」
ふう、と美奈が息を吐く。それから、姿勢を正した。
智美は、逸らさず美奈を見つめた。
二人の視線が、静かに交わる。
こうしている間にも、あの男の顔が目の前にあるかのように、生々しく感じる。この地獄のような苦しみから解放されるのなら、どうなったって良い。
たとえ自分の人格が変わったとしても、今この瞬間よりは、ずっと幸せに生きられるだろう。
どうせもう、今までの無邪気な自分ではいられないのだ。今更何かが変わったところで、この状態より酷くはなりようがない。
数秒にも満たない沈黙の後、美奈の口が、ちょっと動いた。
智美は深い眠りについたから、しばらくは起きないだろう。今までの疲れや心の負ったダメージを回復してほしくて、美奈が力を使ったのだ。
眠らせる前、智美の目に生気が戻っていたから、認識を変えることには成功したはずである。
もう、智美は苦しまなくて済む。
家を出る時に、智美が記憶を取り戻したのは自分が過去を話したせいだと思わないように、と智美の母親にも力を使って言い聞かせた。
夜にはもう一度訪れて、智美の父親と華にも力を使うつもりだ。もう、過去のことで、誰にも苦しんでほしくない。
以前のような、明るい家庭を取り戻してほしい。四人が前の暮らしに戻れたら、美奈の力の役目は終わる。
「結局、俺は何も出来なかったな」
隣を歩くコウキが呟いた。ちらりとそちらを見て、美奈は首を振った。
「コウキ君が協力してくれたから、山口さんのことも思い出せたし、アドバイスももらえた」
「そうかな」
「そうだよ。もっと早く、コウキ君に相談してればよかった」
「……智美は、もう大丈夫かな?」
「多分。目が覚めたら、元気になってると思う」
「どんな風に変わるんだろう」
「分からないけど……変わらないと良いな」
「うん。でも、もし智美の人格が変わったとしてもさ、智美は智美、だよな」
「それは勿論」
足元に転がる石ころが目に入って、美奈は、それを蹴飛ばした。はじめ、まっすぐに転がった石ころは、すぐに進行方向を変え、道路端の排水溝へと落ちていった。
「周りはさ、皆、私を優秀とか天才って言うの」
ずっと隣にいたコウキは、それをよく知っているだろう。
「でも、本当の私は優秀でも天才でもなくて、ただ勉強が人より得意なだけ。誰かの意見に流されて、自分では何かを決める事もできない。自分ってものがない、ただの凡人」
小学校の裏門が見えてきた。そちらを指さすと、コウキが頷いた。半開きの裏門から、中へ入る。母校へ足を踏み入れるのは、卒業以来だ。
教員用の砂利敷きの駐車場を通り過ぎると、木々が生い茂ったエリアがある。そこには小さな池があり、傍らに、怪獣の形に彫られた石像がぽつんと佇んでいる。いつからここにあるのかも、何故こんなところにあるのかも誰も知らない、忘れ去られた石像だ。
「……そんな人間なのに、こんな変な力まで手に入れちゃって。大切な人とその家族を傷つけて、見知らぬ大勢の人も傷つけて……。
こんな力、無ければ良かったのに。そうすれば、こんなことにはならなかった。ううん、そもそも私が力を使おうとしたり、智ちゃんに打ち明けなければ、こんなことにならなかった」
校舎の横を抜けると、グラウンドだ。端の方にはブランコがある。コウキと二人でそこに座って、ゆらゆらと揺れだした。
小学生用のブランコは、十五歳になった二人には、少し小さい。
「後悔って、しちゃうよなあ」
ぽつりと、コウキが呟いた。
「もっとこうすればよかった、あの時ああしてればよかった、あんなことしなければってさ。自分の過去を悔やんで、でもやり直したいと皆が願うんだ」
「コウキ君も?」
「当たり前だよ。後悔なんて、いっぱいある。でもさ、後悔をなくすことはできないけど、それから先をどう生きていくかは、自分で決められる」
何も言えず、美奈は黙り込んだ。
普通ならそうだろう。そうやって自分を納得させ、人生を歩んでいく。だが、美奈は一度人生をやり直している人間なのに、上手く生きられていないのだ。
せっかく得た貴重な機会なのに、前の時間軸と同じ位、愚かな生き方をしている。
「力を使ったらどうなるかなんて、誰にも分からなかったことだよ。美奈ちゃんは、できることをしたと思う」
「そうかな」
「……明日から、智美は元気になってるかもしれないよな」
意図が分からず、美奈は頷くだけに留めた。
「せっかく智美の心を救えてもさ、俺達が落ち込んでたら、気にすると思う」
確かに、智美なら、そうかもしれない。
「智ちゃんには、もう、ずっと笑っていてほしい」
「俺も同じ気持ちだよ」
「私達が、明るい姿を見せなきゃ、なんだね」
コウキが、笑って頷いた。




