三十二 「もう一人の親友 二」
いつの間にか、外は小雨になっていた。
タオルで乾かしただけだった身体は、少し肌寒さを感じている。部屋のストーブのスイッチを入れると、重たい機械音を上げながら起動した。
「中一の時を、憶えてる?」
コウキが言った。
「いつのこと?」
「二学期が始まってすぐのとき。田中さんが、不登校になったよな」
「ああ」
クラスメイトの田中という女の子のことだった。夏休みが明けてから、一週間ほど経った日のことだ。
突然、田中が不登校になった。担任も事情を知らなかった。
田中は違う学区から進学してきた子で、同じクラスになって、仲良くなった。大人しいが、自分の意見をきちんと言える清々しい性格の子だった。
夏休みに入るまでは、何もおかしなところはなかった。
コウキと、二人で田中の家に向かった。
田中は、自室に引きこもっていた。中に入れてもらえたが、何があったのかは、何も話してもらえなかった。
コウキと、田中が話したいと思うまで何もしないでおこう、という話になった。それから、毎日田中の家に行き、何も聞かず、ただ同じ部屋で時間を共にした。
田中は、最初こそ沈黙していたが、少しずつ、他愛も無い話をしてくれるようになった。
一週間が経って、田中は不登校になった事情を明かしてくれた。
クラスの女子グループの一つから、いじめられていたのだ。
「上位グループの子達との問題でさ」
「厄介だったね」
「田中さんがまた学校に来られるようにするの、苦労したよな」
「うん」
あの手この手を使って、長い時間をかけて、問題解決を試みた。どうにか田中が学校に来られるようになったのは、三学期の最後の方だった。
「あの時、俺達の力不足を実感した」
「だね」
「でも、二人だから、解決できた」
「……うん」
「俺一人じゃ無理だった」
美奈一人でも、無理だった。
「二人だから、できたんだ」
「分かってる」
「あの後、約束したよな」
これから先も、二人で、協力し合おう。自分達の周りにいる人が、誰も悲しまないで済むように。苦しまないで済むように。皆が心地良く生きられるように。そのために、力を合わせよう。
そう、約束したのだ。
忘れるわけがない。
前の時間軸で、美奈は母に従って生きてきた。それを、自分の選択だと思い込んだ。その結果、無為な人生を送った。
やり直すために、この時間軸へ渡ってきた。自分の人生は、自分で選ぶと決めた。もう誰も失いたくないと思った。いじめを見過ごす、卑怯な自分でいたくないと思った。
変わろうと思って、変わる努力をし続けてこられたのは、隣にコウキがいてくれたからだった。幼いのに筋の通った考え方をし、自分も他人も大切にするこの少年が、美奈をいつも支えてくれた。
コウキがいたから、美奈は前を向き続けられた。
「コウキ君」
美奈は、コウキの差し出した手を、握っていた。
「……ありがとう」
少し休憩を挟んで、また、コウキと向かい合っていた。
もう時刻は十九時で、コウキも小腹が空いているだろうと思い、紅茶とクッキーを出してある。
「前に、少しだけ相談した事を憶えてるかな」
「何の話だった?」
「私が人に指示すると、その人がまるでロボットのように忠実に従う気がする、って」
「ああ、コンクールより少し前の頃、だっけ」
「そう」
「確かに言ってたね」
「あの時は、自分でも良く分かってなかったの」
「何を?」
そこで一瞬、言いよどんだ。しかし、すぐに気持ちを切り替えた。コウキには打ち明けると、手を握った瞬間に決めたのだ。
「私、誰でも言う事を聞かせられるみたい。そういう力が、ある」
コウキの目に、困惑の色が浮かぶ。
「あの相談をした頃は、まだこの力について、はっきりと分かってなかった。だけど、詳しい人に会えて、自分の力について分かった。私が命令すれば、誰でも、絶対に嫌なことだって、従わせられる」
「それは」
「信じられないのは分かってる。でも、実際にその力を、智ちゃんのお母さんに使った」
コウキの表情が、変わった。
「コウキ君は、智ちゃんと幼馴染だったこと、憶えてる?」
「え?」
「幼稚園、同じだったんだよね」
「あ……うん」
「仲、良かったんでしょ」
コウキが頷いた。
「智ちゃんはね、幼稚園時代のことも、コウキ君と仲が良かったことも、こうなるまで忘れてた。小学三年生の夏までの思い出を、全部。
智ちゃんは、自分に記憶がないことに気がついて、その理由を知りたくなった。だから、周りに当時のことを聞いてみた。でも、誰も知らなかった……ご両親以外は」
コウキは、黙って話を聞く気になったようだ。
「コウキ君には、聞けなかったって言ってた。仲が良かったはずの智ちゃんが、コウキ君との思い出を忘れてるなんて伝えたら、嫌な気持ちになるかもしれないから、って」
コウキが、目を伏せる。
「ご両親は、何も話してくれなかったみたい。それで、私が力を使った」
「……智美は、美奈ちゃんの力を知ってたのか?」
「打ち明けたのは、最近。その後に、智ちゃんのお母さんに力を使って過去を聞きだしてほしいと頼まれて……この前、ベランダで曖昧な相談をしたのは、それのことだったの」
「そういうことか」
「私は……力を使うことにした。それで、智ちゃんと一緒に、智ちゃんのお母さんの話を聞いた」
話の内容はある程度察しているだろうが、具体的なことは伏せた。
「そのせいで、智ちゃんは、失ってた過去の記憶を思い出した。辛い経験のことも、全部……だから今、智ちゃんは苦しんでる。私が、力を使ったから……。
私は、この力で智ちゃんの記憶を消そうとした。記憶をもう一度消せば、智ちゃんの身に起きたことは消せないけど、今の苦しみからは救えるから。
でも、消えなかった。どう力を使えば良いのか、ほとんど知らなかったの。だから、智ちゃんを助ける方法を探すために、色んな人に力を使った。沢山試したよ。酷いこともした。
でも、私は覚悟のうえだった。誰に責められても、どんな罰を受けても良いから、智ちゃんを救うために、この力についてもっと知りたかった」
けれど、駄目だった。
「……私の力は、心や感情を操ることはできても、記憶を消すことはできないみたい。忘れたい記憶を持つ何十人の人に試したけど、誰一人として成功しなかった。私は、無駄に大勢を傷つけて、智ちゃんも救えない」
荒唐無稽な話だ。だが、現状を考えれば、コウキはこの話を信じるだろう。美奈が下らない冗談を言わないことも、コウキが一番良く分かっている。
コウキは沈黙し、何か考え込んでいるようだ。美奈も、黙って待った。
ティーカップに注がれた紅茶は、冷めきっている。
「……そのさ」
長い沈黙が明けて、コウキが呟いた。
「美奈ちゃんの力について教えてくれた人は、どういう人なの?」
「あぁ……信じられないかもしれないけど……不思議な店を開いてる女性でね。この世界の不思議なことについて、とても詳しい人。私の超能力、って言っていいのかな。そういう力は他にも沢山あるし、不思議な物や現象も沢山ある、ってその人は言ってた」
話しながら顔を上げると、コウキの表情が、驚愕に染まっていた。
首を傾げ、コウキの顔を窺う。
「やっぱり、信じられない?」
はっとして、コウキが首を振った。
「いや……その店って、どこにあったの?」
「東京だよ。コンクール前に帰省したでしょ。あの時、おばあちゃんの家の近くで見つけた。正確には見つけたっていうか……これも不思議なんだけど、そのお店には人の言葉が分かる猫がいてね。その猫が私の前に現れて、店まで案内してくれたの」
「猫」
「そう、灰色の珍しい毛色の」
「……その人は、女性、だったの?」
「え、うん」
「大柄の男性じゃなくて?」
首を振る。
どうしたのだろう。まるで、コウキも知っているかのような物言いだ、と美奈は思った。
「その店には、俺も行ったことがある」
今度は、美奈が目を見開いていた。
「ほんとに?」
「でも、俺は名古屋で行ったし、店員は大柄の男性だった」
「あ、実は私、前にも一回行ったことがあって……その時は、小学校の近くで行った」
「どこにでもあるのか?」
「……もしかして、コウキ君も、何か力があるの?」
コウキは一瞬目を逸らし、すぐに首を振った。
「いや、俺は何も力はないよ。たまたま行っただけ」
「そう」
美奈は、過去をやり直す時にも、あの店へ行ったから、本当は三回、店を訪れている。だが、さすがに過去をやり直した事を人に話すのは、気が進まなかった。
超能力を持っている事実ですら異質なのに、そのうえ、美奈が本来の美奈ではないとコウキが知ったら、コウキは嫌悪感を抱くかもしれない。
自己保身の行動とは分かっていても、コウキには、嫌われたくない。
「その女性なら、美奈ちゃんの力の使い方について、もっと詳しいんじゃないか?」
言われて、はっとした。
確かにそうだ。元子なら、誰よりも力について詳しいはずだ。
「でも、あの店は、簡単に行けるようなものじゃないんだもんな」
「私、あの人の電話番号、知ってる」
「……マジ?」
「うん。私、本当はこの力を封印したかったの。だから、封印するための道具みたいなものを探してもらってて、見つかったら連絡を貰うことになってた。その前に、智ちゃんのお母さんに使っちゃったけど」
「じゃあ、連絡すれば教えてもらえるかも。いや、もう連絡済み?」
美奈は首を振った。
「自分で力を研究することで頭がいっぱいで、電話番号のこと、すっかり忘れてた」
「じゃあ、すぐに聞いてみようよ」
「でも、今お母さんがいるから……」
「じゃあ、明日の日中は俺の両親が家にいないから。明日、うちで電話しよう。二人とも学校は休んで」
「いいの?」
「早い方が良いだろ」
「……うん。じゃあ、お願い」
コウキが、頷く。
「俺も、一緒に頑張るから。二人で、絶対に智美を助けよう」
「……うん」
コウキが友で、良かった。
美奈は、そう思わずにはいられなかった。




