三十一 「もう一人の親友」
ベル音が後方から聞こえてきて、自転車が横を抜けていった。
傘に打ちつける雨粒が、耳障りな騒音を立てている。視界は雨の幕で遮られ、数十メートル先も見えづらい。
太陽を遮る厚い雲と冷たい雨のせいで、体温も奪われていた。
もう、何日が過ぎただろう。何人に力を使っただろう。
特異な力を身に宿そうと、それは自分の無力さを余計に感じさせるだけだった。
必要な時に役に立たない力など、無意味だ。むしろ、その忌々しい力のせいで智美とその家族を苦しめてしまったし、実験のために道行く人の傷を抉り続けた。
智美を救う手立ても見つからぬまま、時間だけがいたずらに過ぎている。
「あはは、それはヤバいって!」
「だって普通気づくと思うじゃん!?」
「そうだけどさー」
傘を差し、道一杯に広がってはしゃぐ女子高生三人組が、向かいから歩いてくる。三人は、美奈の存在を意に介さないまま、すっと避けて通り過ぎて行った。
世界は、いつだって変わらない。美奈の力が存在していようと、その力のせいで智美が人生を狂わされていようと、他は、何も。
力も使わず、町中を、あてもなく歩いていた。
他人の心を操ることに疲れた、などとは、言ってはいけないのだろう。それを言う資格は、美奈にはない。ただ、美奈自身の心も、確実にすり減りつつあった。
智美の母親に力を使った時、彼女は酷い疲労感を覚えたようで、すぐに寝室へ去っていった。これまで力を使ってきた人々の中にも、美奈の命令から解放された後に、極度の疲労やめまいを憶える人がいたり、中には美奈の命令に従いながらも、涙を流したり苦悩の表情を浮かべる人もいた。
きっと、心の奥底では望まぬ命令に抵抗しているのだろう。そういう人ですら、無理やり従わせられてしまう。
この力を使い続けることは、もはや人の道を外れた行いとすら言える。
覚悟のうえで始めたことだが、見えぬゴールに絶望し、力を使うことに拒否感も感じるようになっていた。
「っ!」
「っ冷て!」
俯いて歩いていたせいで、前から来た歩行者と傘同士がぶつかった。衝撃で、傘を落としてしまう。
「前見て歩けよ、クソガキ!」
どこかの高校の制服を着ている男は、美奈を睨みつけると、傘を蹴飛ばして、歩き去っていった。
「……そっちが避ければ良いのに」
蹴られた傘を拾い上げ、骨を確認する。一本だけ、曲がってしまっている。
ため息をついて傘を畳み、そのまま歩きだした。
全身は瞬く間に濡れ、制服の中まで染みこんでいく。服の張り付く感覚がして、気持ちが悪い。
結局、そのまま誰にも力を使わず、自宅へ戻った。
門扉を開けて敷地内へ入る。家の中からは、明かりが漏れている。扉を開けると、中から話し声が聞こえてきた。
「ただいま」
物音がして、居間から母親が出てくる。
「美奈、お帰り……って、びしょ濡れじゃない」
「傘が壊れたの」
「コウキ君、来てるのよ」
「え」
靴を脱いで上がると、居間には、確かにコウキがいた。
先日、冷たく突き放したのに。
母親が、タオルを手渡してくる。
「おかえり、美奈ちゃん」
「こんな時間に……どうしたの」
「美奈ちゃんに会いに来たんだけど、まだ帰ってないって聞いてさ。雨だったし、お言葉に甘えて待たせてもらってた」
「美奈。先に、着替えてきなさい」
「……うん」
脱衣所で制服から部屋着に着替える。戻ると、母親とコウキは、また談笑していた。
「お待たせ。私の部屋、行こう」
「うん」
「ゆっくりしていってね、コウキ君」
「ありがとうございます」
コウキを連れて、自室へ入る。クローゼットの中から折りたたみの椅子を取り出して、コウキを座らせた。
「いつ来ても、良い部屋だよな。無駄がなくて」
美奈の部屋は四畳半程度の広さしかないから、折り畳み式の家具やロフトベッドを使って、空間を最大限使っている。亡くなった父親が小さな家が好きで、こういう部屋になったのだ。
美奈自身も、物への執着が殆どないから、この部屋を気に入っていた。
「それで?」
無駄話をする気分にはなれなかった。
「話があるんだよね」
「ああ……あれから、智美とは会った?」
「うん」
「少しは落ち着いてた?」
「多少ね。でも、まだ部屋からはほとんど出られないみたい」
「そっか」
智美がそうなった理由を、コウキは知らない。
「なあ、美奈ちゃん」
「何?」
「……酷い顔、してるよ」
言われた意味が分からなくて、一瞬、頭の中に疑問符が浮かんだ。すぐに、表情のことか、と思った。
「まだ疲れた顔、してるかな」
「疲れたっていうか、今にも死にそうな顔。何日……寝てないの?」
「分かっちゃうか」
「顔見れば一発。お母さんも、心配してたよ」
「……お母さんが?」
智美のことで頭がいっぱいになってから、母に何かを言われたことはなかった。何も気づいていないと思っていたのだが。
「さっき、二人で話してる時に言ってたよ。美奈ちゃんのことを信頼して、何も聞かないようにしてたみたいだけど。あ、部活を休んでることは言ってないから」
それは、意外な母の話だった。
前までの母だったら、美奈のことを心配して世話を焼こうとしたか、事情を根掘り葉掘り聞いてきただろう。
この時間軸に渡ってきて、母との接し方は変わった。それが、母の考えをも変えたのかもしれない。
「ずっと、考えてたの?」
ノートや書籍が散乱している勉強机の方を見て、コウキが言った。
「勉強じゃ、ないよな」
「まあね」
毎晩、力について考えながら、ノートにあらゆる可能性を書きだしていた。
「でも、上手くいってないんだな」
それには、答えなかった。
前の時間軸では、最高峰の大学にも通った。優秀な人間だと言われてきた。人より、頭は良かった。だが、それは勉強ができるという意味でしかなかった。
こういう事態になってみて、自分には何かを変える知恵も力もないのだと思い知った。勉強がどれだけ出来たところで、目の前の一人を助ける方法は、何も思い浮かばない。
「俺さ、何があったのか、ずっと考えてた。智美が過呼吸を起こして、部屋から出られなくなる程のことって、何だろうって。余程精神的なショックがないと、そうはならないと思う。それが何なのか……確かなことは分からない。だけど、俺やお父さん、つまり男性が近づけないって……そういうこと、だよな?」
目を見開く。思わず、身体も固くなってしまった。コウキにも、その一瞬の変化を見抜かれただろう。
諦めて、息を吐いた。
やはり、コウキは鋭い子だ。
何も言わなくても、自力で答えにたどり着いてしまう。
「……俺も美奈ちゃんと同じで、智美を助けたい。俺にも、手伝わせてくれないか?」
その言葉に、顔を上げる。真っすぐに見つめられて、美奈も、見つめ返した。
「美奈ちゃんは一人でやりたいのは分かってる。放っておいてほしいことも。でも、放っておけないよ」
澄んだ目をしている、と美奈は思った。
この数年間、コウキはいつも隣にいた。何をするでも一緒だった。クラスの問題やいじめを解決することだって、二人でやってきた。時には智美も交えて、三人で動いてきた。
親友。
きっと、コウキもそう呼べる存在だろう。
だが、頼って良いのか。男への恐怖を拭えなくなった智美を助けるために、男であるコウキに頼って良いのか。
「智美が俺に近づいてほしくないのなら、俺は近づかない。でも、美奈ちゃんと一緒に考えることはできる。一緒に悩むことも、一緒に乗り越えることもできる。美奈ちゃん一人が苦しむ姿は、もう見てられないよ」
「そんな姿、見せたつもりなかったのに」
「日に日に、顔から生気が消えていってたよ」
「……そっか」
「今……一人きりで苦しんでるんだよな」
それが智美のことを言っていると分かって、美奈は、頷いた。
「でも、美奈ちゃんまで、一人で苦しむなよ。智美を助けるために、美奈ちゃんまで、どこかへ行ってしまいそうになるなよ」
はっとした。
それは、あの日、智美に感じたことだった。絶望を抱え、消えてしまいそうな怖さを、智美からは感じた。
「まるで、美奈ちゃんが美奈ちゃんじゃなくなっていくようで、怖い。俺の前から、いつも笑顔だった二人がいなくなる気がして、怖い。それを、俺はどうする事も出来ずに眺めているだけなのも、嫌だ。また皆で笑える日が来るように、俺にも、背負わせてよ」
コウキが、手を差し出してくる。
その手を、ぼうっと見つめた。白くて、男の子らしからぬ、綺麗な手。トランペットを吹くために、大切にしているのだろう。
そういえば、コウキと一緒にホルンを吹いたのは、もう何週間も前だ。
最後の舞台だった文化祭も、出ないまま終わってしまった。
人の道を踏み外してでも、智美を助けようとした。助けねばならないと思っていた。だが、それは一人ですることではなかったのだろうか。
この真っすぐで澄んだ目をした少年に、助けを求めるべきだったのだろうか。
何をしても、解決の糸口は見えなかった。ただただ、自分の愚かさを痛感するだけだった。
出口の見えない闇の中、もがいていた。
美奈が背負わねばならない罪だと思っていた。
それをコウキに、共に背負ってもらって、良いのか。




