三十 「友のために 二」
翌日も、学校へ行って、授業が終わったら、町へ繰り出した。
人気のない所を中心に回り、人がいれば、力を試していく。
「もういいよ、命令に従うのは終わり。行ってください」
ぼうっとした表情をしていた男子高校生に言うと、何事もなかったかのように、路地から出ていった。
「はあ……」
またしても空振り。
「次だ」
頭を振り、頬を叩く。路地を出て、歩き始めた。
しばらく歩くと、平屋建ての民家の敷地内で、老婆が箒を動かしているのが見えた。
「こんにちは」
門扉の外から、老婆に声をかける。振り向いた老婆は、見ず知らずの美奈に対して、少しだけ警戒の色を見せた。しかし、すぐに中学生である事に気づいて、笑顔を作って、頭を下げてきた。
「どうもご丁寧に。こんにちは」
「良い天気ですね」
「そうねぇ。夏も終わったのにねぇ、暑いくらいで」
「お掃除してるんですか?」
箒に目をやって、老婆が頷いた。
「そうなの、家は綺麗にしないとだから」
「素敵ですね。おばあちゃんは、今は一人で住んでるんですか?」
「そうねぇ。息子夫婦はいるんだけどねぇ、別に暮らしてるのよ。お嬢さんくらいの孫も、いるんだけどねぇ」
「そうなんだぁ……寂しいですね」
「そうねぇ……」
「あの、家の中に入れてください。ちょっとお話しましょう、おばあちゃん」
「え、ああ、良いよぉ、どうぞどうぞ」
老婆は、力にかけられたことも気づかないまま、喜んで美奈を敷地内へ招いた。
悪人が使えば、何でも盗み放題だし、どこにでも侵入できるだろうな、と美奈は思った。
老婆の後に続いて家に入り、客間で向かい合う。
「おばあちゃんは、記憶を忘れたいなって思った事はありますか?」
「記憶?」
「そう、とっても嫌な記憶、辛い記憶、そういうの」
「そうねえ」
一瞬考える様子を見せて、老婆は頷いた。
「生きてれば、色々あるから」
お茶、用意しようかね。
そう言って立ち上がろうとした老婆を制し、座らせた。
「その記憶、教えてください。一番辛い記憶を」
「はあ……そうねぇ、まあ、やっぱり、戦争の頃かしら」
見た目からして、老婆は七十は超えていそうだ。終戦の時期で、今の美奈と同じくらいの年齢だったかもしれない。
「当時は岡崎市に住んでてね。終戦間際の時に、アメリカ軍の空爆で、家という家がどんどん焼けていって……小さかった弟や妹を連れて逃げ回って……今生きてるのが、不思議なくらいよねぇ」
美奈は、戦争の話を人から聞いたことはなかった。祖母からも、聞いた憶えはない。
「目の前で焼け焦げる人も見たし、あれは、地獄だった」
「……そうだったんですね」
「戦争の後、お父さんは戦死していたし、お母さんと、弟たちを抱えて暮らしを立て直すのも、厳しかった」
平成の人間には決して分かることのできない、辛い時代だっただろう。その時代の人々の犠牲があったから、日本は今、表面的には平和なのだ。
「その記憶は、忘れたいですか?」
美奈の問いかけに、老婆は静かに笑いながら首を振った。
「嫌な記憶ですよぉ。でもね、忘れたいとは思わないねぇ」
「……辛かったのに?」
「戦争のことは、忘れちゃいけないよ。私達日本人が起こしたことなんだから。どんなに辛くても、それは忘れずに、自分のものとして抱え続けなきゃ」
思わず、拳を、ぐっと握っていた。
「じゃあ……他に、戦争のこと以外で、忘れたいことを教えてください」
「ないねぇ」
さっぱりと、老婆は言った。
「どれもこれも、私の経験です。良い事も悪い事も、全部含めて、私の思い出」
「……そう、ですか」
この人は、凄いな。
素直に、美奈はそう思った。
「すみません、大切な思い出を、見ず知らずの私に話させてしまって」
「いいえ。お嬢さんには、なんだか何でも話せてしまう気になって。私も、つまらない話を聞かせちゃって」
それは力のせいだ、とは美奈は言わなかった。
「もう、行きますね」
「また、お話に来てね」
「……ありがとうございました」
老婆の家を出て、歩きだす。
黙々と歩きながら、老婆の話について、思い返していた。
どんなに辛い記憶も、地獄のような景色も、忘れない。それは、あの老婆の持つ強さなのだろう。嫌なことから目を背けず、向き合い続ける。それが出来るのが、人の強さだ。
だが、誰もがそうやって強く在れるわけではない。
智美は、今まさに苦しんでいる。記憶を消したいと願っている。
それは、智美が弱いからか。
そうではないはずだ。老婆のように、受け止め続けることも人生だろう。だが、辛すぎる記憶を忘れて、何も知らない状態で生きたいと願うのもまた、人生のはずだ。
良い悪いじゃない。智美が願っているから、それを叶える。
美奈には、そうする責任がある。
「おい、大村、起きろ!」
怒声が耳元で鳴って、身体が跳ねた。顔を上げて、英語の教師が般若のような形相であることに気が付く。
「大村、お前、最近たるんでるぞ。何回寝るんだ!」
「す……すみません」
「そんなに寝るなら立って授業を受けろ!」
言われるがまま、立ち上がる。クラスメイトの視線が注がれるが、美奈は気にせず、息を吐いて顔をこすった。
授業に戻った教師の声を聞き流しながら、首を回す。変な寝方をしていたのか、少しだけ、左の方が痛む。
寝不足が続いていて、授業もまともに聞けていない。夜はずっと智美を救う方法について考えているのだ。眠れたとしても、一時間か二時間、うとうととするだけだった。
美奈に、休んでいる暇はない。一日でも早く、智美を救わねばならないのだ。
美奈が呑気に寝ている間にも、智美は過去の記憶に犯され続けているのだから。
チャイムが鳴って、授業が終わる。立ちっぱなしから解放されて、美奈は椅子に腰を落とした。
「はあ……」
「美奈ちゃん」
すぐに、コウキが近寄ってきた。
「大丈夫か、美奈ちゃん」
「……うん」
「疲れてるのか」
「……まあね」
コウキが話しかけてくるのは、久しぶりだった。コウキが、というより、美奈が他人と話すのを避けていたのだ。楽しく話す気分でもなかったし、時間があれば、力のことについて考えていたかった。
「あんまり、無理するなよ」
美奈は、コウキをじろりと睨んだ。
「無理でもなんでも、しなきゃいけないから」
「でも」
「ごめん、放っておいて」
言って、席を立った。教室から、ベランダに出て扉を閉めた。
コウキに気を遣っている余裕はない。今は、智美のことと力のことで、精一杯なのだ。
無理だなどと、美奈に言う資格はない。誰よりも苦しんでいるのは、智美である。その智美を差し置いて休む権利など、あるものか。




