二十六 「智美の過去 三」
「あなたには、忘れたままで居て欲しかったの」
母親の話を聞き終えても、智美には、まるで実感がなかった。
「どうして……話しちゃったのかしら」
息を吐きだすと、母親は頭を抑えながら、立ち上がった。
「大丈夫、ですか?」
「ちょっと……疲れたみたい。部屋で休むから……美奈ちゃん、ゆっくりしていってね」
「あ……はい」
居間から出ていく母親の背を見送り、智美は、ソファに全身を預けた。
二人きりになっても、美奈は何も言わなかった。智美も、黙ったままだった。
自分が、幼い頃に事件にあっていた。
そんな話を聞かされても、まるで実感がない。何一つ、憶えてすらいないのだ。
そもそも、母親の話自体、荒唐無稽な内容だった。薬で記憶を忘れた、などと。
事件の記憶がないだけでなく、幼稚園から小学三年生までの記憶を失っているのも、その薬の効果だったというのか。
馬鹿馬鹿しい、と笑って済ませてしまいたいのに、智美の隣には、超能力を持つ美奈という存在がいる。この世界に不可思議なことは実在するのだと、親友が証明してしまっている。
母の態度が急変し、隠していた過去をすんなりと話してしまうほど、特異な力。それが存在するのだから、母親が出会った店も、智美が飲んだという薬も、あってもおかしくない。
二人とも何も言わぬまま、一時間ほど、居間で過ごした。
「やっぱり、実感、ないや」
美奈が、顔を上げる。
「自分の話じゃないみたい」
「……ごめん、智ちゃん」
「何が?」
「力を使うべきじゃなかった。それに、私は聞いちゃいけない話だった」
「いや、私が知りたいって言ったし、美奈にも居て欲しいって言ったんだから」
「でも、明かすべきじゃなかった」
「今更言っても仕方ないって。それに私は、私の記憶がない理由が分かって良かったよ。うん。実感は、ほんと……全くないけどさ。ああ、そういう理由だったんだ、って。ちょっと信じがたいけど、でも……うん、分かった」
自分に言い聞かせるように、言っていた。
この身体は、見ず知らずの男に、どこまでもてあそばれたのだろう。母すらも知らない事実。最早、誰も知りえない事実。
いや。
犯人だけが知っている事実、か。
智美は、小学校にいた。懐かしい教室。
先日、記憶が戻らないかと見に行った教室だ、と思った。
担任を見上げて笑いかけ、手を振った。そのまま、教室を出た。
どこの教室も、やたらと大きく見える。そこで、教室が大きいのではなく、自分の身体が小さいのだと気づいた。
廊下にある姿見の前に来て、自分が、小学生の身体であることを認識する。
この身体は。そうか、夢か。
周りが騒がしい。開け放たれた窓という窓からは、けたたましい蝉の鳴き声。
登校日だ、と直感した。ホームルームの終わった他クラスからも、同じくらいの背格好の子達が飛び出してくる。
三年三組、三年二組、三年一組。階段を降りると、下駄箱だった。靴を履き替え、校舎を出る。
夏だ。まばゆい日差しの中、校門を抜け、通学路を歩いていく。
家に帰ったら、母親がご飯を作って待ってくれている。
お腹が空いた。早く、帰ろう。
しかし、途中で尿意を感じてしまった。学校で、済ませてくればよかった、と智美は思った。
家まで我慢したほうが良いか。でも。
迷って、智美は通学路にある公園へ立ち寄った。男女で分けてある公衆便所があるのだ。
女性用の個室をノックをし、誰もいない事を確認して、戸を開ける。
突然、背中に衝撃を感じた。誰かに、押されていた。気づくと、個室の中にいて、口を抑えられていた。荒い息遣いが、頭の上から聞こえていた。
騒ぐな。
低く、腹に響く声。全身に電気が走るような、身の危機を感じさせる声だった。
ゆっくりと、振り向かされる。
そこにいたのは、智美の身体を覆い隠すほどの巨体の男だった。巨体だったのか、それとも、智美が小さいからそう見えただけなのか。
薄暗い個室で、男の息遣いが近かった。男は何も言わず、智美の首を絞めてきた。急な圧迫で、喉から息が漏れる。男の顔が、悦びに歪んだ。
騒いだら殺す。
また、低く、腹に響く声。苦しくて、男の手を引きはがそうと両手で掴んだ。しかし、岩のように固く引き締まったその手は、智美の力では、どうにもならない。
静かにできるか。
男の問いかけ。反抗したら殺される、と直感した。智美は、絞められた首を必死に動かそうとした。男が、不気味に笑う。不意に、頭を撫でられた。それから、頬。鼻。唇。蛇のように蠢く五本の指が、智美の顔をはいずり回る。
良い子だ。
また、男の声。
そこからの映像は、言葉にもしたくないものだった。
恐怖とおぞましさで逃げ出したいのに、身体は固く、震えるだけ。動かそうにも、指一本動かせない。
逃げたい。逃げたい。
嫌だ。嫌だ。
嫌だ。
何度も叫ぼうと、喉を動かそうとした。誰かに気づいてほしくて。だが、出来なかった。
永遠とも思える時間。男の吐き気を催すような体臭。鼻につく口臭。耳を汚染するような吐息。
嫌だ。嫌だ。
嫌だ。
何度目かの叫びを上げようとした時。
「嫌だ!!!」
ようやく、叫べた。
真っ暗な部屋だった。
目の前の男は、消えていた。
今までに経験したこともないような、荒い息を上げていた。全身が滝のような汗で濡れ、小刻みに震えている。
慌てて、首に手をやる。そこには、なにもない。
「……んもう、何、お姉ちゃん」
苛立ちと眠気の混ざり合った声色で、華が言った。
今しがた見た光景。言葉にするのも恐ろしい、地獄のような時間。
あれは。
「っ!」
急に、胸の辺りに、激痛が走った。
呻く。
「ちょっと、お姉ちゃん!?」
飛び起きた華が、そばに来る。
痛い。激痛で、死にそうだ。
丸まり、胸を両手で抑える。心臓でもない。肺でもない。どこか分からない身体の内側で、何かが暴れている。
それはほんの一瞬のことだったが、智美の感覚では、あまりにも長かった。
身体の中の何かを握りつぶされているかのような痛みが去ると、今度は、幼い日々の記憶が頭の中に流れ込んできた。
あの時の、あのおぞましい時間の記憶までもが、鮮明に、今体験したかのように、智美の頭の中で再生される。
それは、夢で見たものと、寸分たがわぬ映像。
「……あ、あああ!!!」
叫んでいた。自分のものとは思えぬ叫び。
聞きつけた両親が、部屋に駆け込んでくる。
頭をかきむしった。ベッドに頭を打ち付け、頭の中に植え付けられた記憶を、追い出そうとする。
「どうしたのよ! 智美!」
「お姉ちゃん!」
「智美!」
父に身体に触れられた瞬間、悪寒が立ち上り、全身が総毛だった。
なおも触れられている父の手を、押しのける。
「触らないで!!」
父の見開かれた目。その姿に、あの男が重なる。
「嫌! 来ないで! 出てって!!」
叫んでも、なおも父は離れない。
また手で触れられた瞬間、智美は、その手を強く払いのけた。
「出てって、出てってよぉ! 触らないで!!」
戸惑うように、父が入り口まで下がっていく。
荒く乱れる吐息は、抑えようとしても制御が効かない。頭をかきむしる。呼吸が、ますます早くなっていく。吸う。吐く。吸う。吐く。浅く、早く、何度も、何度も。
息を吸うたびにちらつく、おぞましい男の顔。
「智美!?」
母の声。
次第に、顔全体が痺れたような感覚がしてきた。それでも、呼吸が止まらない。繰り返される浅い呼吸。また男の顔。腕まで痺れてきた。呼吸は、いつまでも止まらない。
それは、突然だった。
「い、痛っ!」
両手の指が、まるで鳥のくちばしを形作るかのように固まってしまった。それでも、さらにぎゅっと縮こまろうとする。まるで自分の手ではないかのように、自由が利かない。顔にも、目が開けられないほどの硬直が起きた。
「あ、あ、あ! 何なのぉ!!」
「過呼吸だ!!」
父が叫んだ。部屋に入ってこようとする。
「来るなぁ!」
絞り出すように、言った。
「智美ぃぃ!」
目の前の母は、泣き叫び。
「呼吸を、呼吸を落ち着かせろ!」
父の叫び。
華の泣きわめく声。
自分の身体に起きていることなのに、制御が効かない。両手が、かたまってしまっている。危機感と不安で、頭の中はガンガンと音が鳴り続けている。
「救急車! お父さん! 救急車ぁ!」
「違う、呼吸だ、呼吸を落ち着かせろ! 過呼吸で手が痙攣してるんだ!!」
「智美、ゆっくり!! ゆっくり呼吸するのよ!!」
地獄のような光景だっただろう。
自室で繰り広げられる光景を、智美は痺れに耐えながら、どこか俯瞰するような気持ちもあった。
その間も頭の中では、蘇ってきた膨大な記憶が繰り返し繰り返し、再生されていた。
幼い頃のコウキの笑顔だ。頬をくっつけて笑っている。
次の瞬間には無邪気なコウキの笑顔は消え、醜い大男の笑顔が、智美の頬にくっついていた。




