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青春ユニゾン  作者: せんこう
番外・美奈編
412/444

二十六 「智美の過去 三」

「あなたには、忘れたままで居て欲しかったの」


 母親の話を聞き終えても、智美には、まるで実感がなかった。


「どうして……話しちゃったのかしら」


 息を吐きだすと、母親は頭を抑えながら、立ち上がった。


「大丈夫、ですか?」

「ちょっと……疲れたみたい。部屋で休むから……美奈ちゃん、ゆっくりしていってね」

「あ……はい」


 居間から出ていく母親の背を見送り、智美は、ソファに全身を預けた。

 二人きりになっても、美奈は何も言わなかった。智美も、黙ったままだった。


 自分が、幼い頃に事件にあっていた。

 そんな話を聞かされても、まるで実感がない。何一つ、憶えてすらいないのだ。

 そもそも、母親の話自体、荒唐無稽な内容だった。薬で記憶を忘れた、などと。

 事件の記憶がないだけでなく、幼稚園から小学三年生までの記憶を失っているのも、その薬の効果だったというのか。


 馬鹿馬鹿しい、と笑って済ませてしまいたいのに、智美の隣には、超能力を持つ美奈という存在がいる。この世界に不可思議なことは実在するのだと、親友が証明してしまっている。 

 母の態度が急変し、隠していた過去をすんなりと話してしまうほど、特異な力。それが存在するのだから、母親が出会った店も、智美が飲んだという薬も、あってもおかしくない。


 二人とも何も言わぬまま、一時間ほど、居間で過ごした。


「やっぱり、実感、ないや」


 美奈が、顔を上げる。


「自分の話じゃないみたい」

「……ごめん、智ちゃん」

「何が?」

「力を使うべきじゃなかった。それに、私は聞いちゃいけない話だった」

「いや、私が知りたいって言ったし、美奈にも居て欲しいって言ったんだから」

「でも、明かすべきじゃなかった」

「今更言っても仕方ないって。それに私は、私の記憶がない理由が分かって良かったよ。うん。実感は、ほんと……全くないけどさ。ああ、そういう理由だったんだ、って。ちょっと信じがたいけど、でも……うん、分かった」


 自分に言い聞かせるように、言っていた。

 この身体は、見ず知らずの男に、どこまでもてあそばれたのだろう。母すらも知らない事実。最早、誰も知りえない事実。


 いや。 

 犯人だけが知っている事実、か。


















 智美は、小学校にいた。懐かしい教室。

 先日、記憶が戻らないかと見に行った教室だ、と思った。


 担任を見上げて笑いかけ、手を振った。そのまま、教室を出た。

 どこの教室も、やたらと大きく見える。そこで、教室が大きいのではなく、自分の身体が小さいのだと気づいた。

 廊下にある姿見の前に来て、自分が、小学生の身体であることを認識する。 


 この身体は。そうか、夢か。


 周りが騒がしい。開け放たれた窓という窓からは、けたたましい蝉の鳴き声。

 登校日だ、と直感した。ホームルームの終わった他クラスからも、同じくらいの背格好の子達が飛び出してくる。


 三年三組、三年二組、三年一組。階段を降りると、下駄箱だった。靴を履き替え、校舎を出る。 

 夏だ。まばゆい日差しの中、校門を抜け、通学路を歩いていく。

 家に帰ったら、母親がご飯を作って待ってくれている。


 お腹が空いた。早く、帰ろう。


 しかし、途中で尿意を感じてしまった。学校で、済ませてくればよかった、と智美は思った。

 

 家まで我慢したほうが良いか。でも。


 迷って、智美は通学路にある公園へ立ち寄った。男女で分けてある公衆便所があるのだ。

 女性用の個室をノックをし、誰もいない事を確認して、戸を開ける。


 突然、背中に衝撃を感じた。誰かに、押されていた。気づくと、個室の中にいて、口を抑えられていた。荒い息遣いが、頭の上から聞こえていた。


 騒ぐな。


 低く、腹に響く声。全身に電気が走るような、身の危機を感じさせる声だった。

 ゆっくりと、振り向かされる。

 そこにいたのは、智美の身体を覆い隠すほどの巨体の男だった。巨体だったのか、それとも、智美が小さいからそう見えただけなのか。

 薄暗い個室で、男の息遣いが近かった。男は何も言わず、智美の首を絞めてきた。急な圧迫で、喉から息が漏れる。男の顔が、悦びに歪んだ。


 騒いだら殺す。


 また、低く、腹に響く声。苦しくて、男の手を引きはがそうと両手で掴んだ。しかし、岩のように固く引き締まったその手は、智美の力では、どうにもならない。

 

 静かにできるか。


 男の問いかけ。反抗したら殺される、と直感した。智美は、絞められた首を必死に動かそうとした。男が、不気味に笑う。不意に、頭を撫でられた。それから、頬。鼻。唇。蛇のように蠢く五本の指が、智美の顔をはいずり回る。


 良い子だ。


 また、男の声。

 そこからの映像は、言葉にもしたくないものだった。

 

 恐怖とおぞましさで逃げ出したいのに、身体は固く、震えるだけ。動かそうにも、指一本動かせない。 

 逃げたい。逃げたい。

 嫌だ。嫌だ。

 嫌だ。


 何度も叫ぼうと、喉を動かそうとした。誰かに気づいてほしくて。だが、出来なかった。

 永遠とも思える時間。男の吐き気を催すような体臭。鼻につく口臭。耳を汚染するような吐息。


 嫌だ。嫌だ。

 嫌だ。


 何度目かの叫びを上げようとした時。


「嫌だ!!!」


 ようやく、叫べた。

 真っ暗な部屋だった。

 目の前の男は、消えていた。

 

 今までに経験したこともないような、荒い息を上げていた。全身が滝のような汗で濡れ、小刻みに震えている。

 慌てて、首に手をやる。そこには、なにもない。


「……んもう、何、お姉ちゃん」


 苛立ちと眠気の混ざり合った声色で、華が言った。

 

 今しがた見た光景。言葉にするのも恐ろしい、地獄のような時間。

 あれは。


「っ!」


 急に、胸の辺りに、激痛が走った。

 呻く。


「ちょっと、お姉ちゃん!?」


 飛び起きた華が、そばに来る。

 痛い。激痛で、死にそうだ。

 丸まり、胸を両手で抑える。心臓でもない。肺でもない。どこか分からない身体の内側で、何かが暴れている。

 それはほんの一瞬のことだったが、智美の感覚では、あまりにも長かった。


 身体の中の何かを握りつぶされているかのような痛みが去ると、今度は、幼い日々の記憶が頭の中に流れ込んできた。

 あの時の、あのおぞましい時間の記憶までもが、鮮明に、今体験したかのように、智美の頭の中で再生される。

 それは、夢で見たものと、寸分たがわぬ映像。


「……あ、あああ!!!」


 叫んでいた。自分のものとは思えぬ叫び。

 聞きつけた両親が、部屋に駆け込んでくる。

 頭をかきむしった。ベッドに頭を打ち付け、頭の中に植え付けられた記憶を、追い出そうとする。


「どうしたのよ! 智美!」

「お姉ちゃん!」

「智美!」


 父に身体に触れられた瞬間、悪寒が立ち上り、全身が総毛だった。

 なおも触れられている父の手を、押しのける。


「触らないで!!」


 父の見開かれた目。その姿に、あの男が重なる。


「嫌! 来ないで! 出てって!!」


 叫んでも、なおも父は離れない。

 また手で触れられた瞬間、智美は、その手を強く払いのけた。


「出てって、出てってよぉ! 触らないで!!」


 戸惑うように、父が入り口まで下がっていく。

 荒く乱れる吐息は、抑えようとしても制御が効かない。頭をかきむしる。呼吸が、ますます早くなっていく。吸う。吐く。吸う。吐く。浅く、早く、何度も、何度も。

 息を吸うたびにちらつく、おぞましい男の顔。

 

「智美!?」


 母の声。

 次第に、顔全体が痺れたような感覚がしてきた。それでも、呼吸が止まらない。繰り返される浅い呼吸。また男の顔。腕まで痺れてきた。呼吸は、いつまでも止まらない。

 それは、突然だった。


「い、痛っ!」


 両手の指が、まるで鳥のくちばしを形作るかのように固まってしまった。それでも、さらにぎゅっと縮こまろうとする。まるで自分の手ではないかのように、自由が利かない。顔にも、目が開けられないほどの硬直が起きた。


「あ、あ、あ! 何なのぉ!!」

「過呼吸だ!!」

 

 父が叫んだ。部屋に入ってこようとする。


「来るなぁ!」


 絞り出すように、言った。


「智美ぃぃ!」


 目の前の母は、泣き叫び。


「呼吸を、呼吸を落ち着かせろ!」


 父の叫び。

 華の泣きわめく声。

 

 自分の身体に起きていることなのに、制御が効かない。両手が、かたまってしまっている。危機感と不安で、頭の中はガンガンと音が鳴り続けている。


「救急車! お父さん! 救急車ぁ!」

「違う、呼吸だ、呼吸を落ち着かせろ! 過呼吸で手が痙攣してるんだ!!」

「智美、ゆっくり!! ゆっくり呼吸するのよ!!」


 地獄のような光景だっただろう。

 自室で繰り広げられる光景を、智美は痺れに耐えながら、どこか俯瞰するような気持ちもあった。

 その間も頭の中では、蘇ってきた膨大な記憶が繰り返し繰り返し、再生されていた。


 幼い頃のコウキの笑顔だ。頬をくっつけて笑っている。

 次の瞬間には無邪気なコウキの笑顔は消え、醜い大男の笑顔が、智美の頬にくっついていた。 

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