二十五 「智美の過去 二」
コウキに話を聞いてもらい、智美を助けると決めてから、すぐに智美と話した。
美奈が力を使うと伝えた時、智美は喜んでくれた。
答えをもらえるまで、もっともっと時間がかかると思っていたらしい。
隠したがっている智美の母親の気持ちを想うと心苦しいが、以前智美が言ったように、智美の記憶は、智美のものだ。本人には、それを知る権利がある。
一つ懸念しているのは、智美が記憶を失った原因だ。
人の脳や記憶に関しては詳しくないが、智美の症状は、解離性健忘と呼ばれるものの可能性がある。精神的な問題によって起きるとされているから、智美の心には忘れたいほどの深い傷が存在している可能性がある。
美奈も知らない何かが昔の智美にあったとしたら、それを明かしてしまうことになる。
智美は、覚悟している、と言った。
たとえ過去に何があったとしても、自分のことは、知っていたい、と。
だから、美奈はその決意を尊重することに決めた。
「……じゃあ、来たら始めるよ」
隣に座る智美に、耳打ちした。智美が頷く。
智美の家の居間で、二人並んでソファに座っていた。
智美の母親は、台所で菓子と茶を用意してくれている。それを持ってきたところで、力を使う。
緊張で、手に汗がにじんでいる。制服のスカートでそれを拭って、息を吐きだす。
智美も、いつもより険しい表情で、テーブルの一点を見つめている。
本当に、良いのか。
ここまで来て、そんなことを再び思う。だが、もう智美には力を使うと伝えてしまったのだから、今更、やめることはできない。
「お待たせ~」
エプロン姿の智美の母親が、トレーに載せたアイスティーとクッキーを持ってきた。
テーブルに、一人分ずつ置かれていく。
「美奈ちゃんが家に来るの、久しぶりねぇ」
「はい、二人とも、部活が忙しかったので」
「そうよね。吹奏楽部は、今度の文化祭で演奏もするのよね」
「そうなんです」
「当日、楽しみにしてるからね」
東中の文化祭は体育館で行われるが、父兄や近隣住民も観ることができるのだ。華も吹奏楽部だから、智美の母親は、今年あった全ての本番を観に来ていた。
「頑張ります」
「文化祭が終わったら、三年生は引退だった?」
「そうですね。最後の本番です」
「早いわねぇ。華は、いつも美奈ちゃんのことを褒めるのよ。良い部長だって」
「あはは」
愛想笑いをしていると、智美に、催促するように制服の裾を引っ張られた。
分かっている、と目で伝えて、智美の母親の方に身体を向ける。
「あ、あの」
「うん?」
「実は、ちょっと、お願いがありまして」
「え、私に?」
智美の母親が、自身を指差す。
「はい。あの」
もう一度、智美の方を見る。智美は、強く、頷いた。
「……智ちゃんの昔の話を、聞かせてもらえませんか?」
「え」
「幼稚園から、小学校三年生くらいまでの間のことを」
瞬時に、智美の母親の表情が変わった。その目が、智美に向けられる。
智美は視線から逃げず、真っすぐに、母親を見つめ返している。
「智ちゃんが記憶を無くしてることについて、智ちゃんのお母さんは何か知ってるんですよね。それを、話してください」
唾を、飲み込んだ。
「どうし……」
何か言いかけた智美の母親を遮って、美奈は口を開いた。
「命令、です」
美奈がそう言った瞬間。
智美の母親はそれまでの苦い表情を消し去って、素直に頷いていた。
智美と、顔を見合わせる。力が、発動したのだ。
「じゃあ、最初から話すわね」
あっさりとそう言って、智美の母親が、向かいのソファに腰を下ろす。
力が発動した相手の態度が急変する様は、何度経験しても慣れない。感情のスイッチが一瞬で切り替わったかのように、平然としだすのだ。
改めて、恐ろしい力だ、と美奈は思った。
智美が、小学三年生の夏休みのことだ。
その日は登校日だったから、智美と華が学校に行くのを見送ってから、家事をして過ごしていた。
いつもと変わらない、平穏な一日のはずだった。
昼前には帰ってくるはずの智美が、中々帰ってこなかった。華と二人で昼食の準備を終え、智美の帰宅を待っていると、家の電話が鳴った。午後十二時を、少し過ぎた頃だった。
電話の相手が警察であったことと、告げられた内容に、気が動転した。
華は家で留守番させ、すぐに警察署に向かうと、個室に案内された。
中には、数名の婦人警官と智美がいた。駆け寄って抱きしめると、智美は腕の中で震えていた。
智美を発見してくれたのは、たまたま通りがかった女性だったらしい。学校から家までの通学路にある、小さな公園。低めの木々と育ちすぎたツツジの垣根のせいで、見通しの悪い公園だ。東西に二か所ある出入口からでないと中の様子が見えづらいため、あまり良い印象のある場所ではなかった。
女性が公園内の公衆便所を利用しようと入って、女性用の個室をノックしたら、中から勢いよく男が飛び出してきて、女性を突き飛ばし、逃げていった。
個室には、智美がいた。衣服は乱れ、恐怖にひきつった顔で、全身を硬直させていたという。
女性は何があったのかを悟り、警察に通報してくれたとのことだった。
智美が何をどこまでされたのか、誰も聞けていなかった。当時の智美は、話せる状態ではなかったのだ。
幼い娘に起きたことが、信じられなかった。
腕の中で震える娘が、大人の男にいいようにされ、恐怖で動けなかった姿を想像して、涙が止まらなくなった。
その日以来、智美は自室から一歩も出られなくなった。
妹の華は智美と同室だったが、智美を一人にさせるために、華は夫婦の寝室で寝させるようにした。事件のことも華には伝えず、ただ、お姉ちゃんは今風邪を引いているから近づかないように、ということだけを伝えた。
学校にも、事情は話さなかった。話せるわけもない。夫婦以外の誰にも、話せないことだった。
幸い、夏休み中のおかげで、家族以外に智美の状態が知られることもなかった。
しかし、何日経っても智美は食事もろくに食べられず、眠ることもできなかった。
毎晩、智美のすすり泣く声が廊下まで聞こえてきて、傍に寄り添って、抱きしめてやることしかできない自分に、怒りや無念さを覚えた。親なのに、何もしてやれることがなかった。
きっと、智美がこの事件を乗り越えられる日はこないだろう、と思った。
幼い子どもの記憶に植え付けられた恐怖は、そう簡単に忘れられるはずもない。学校の教師、道行く通行人、実の父親であっても、大人の男が近づき、上から見下ろされたら、あの日の事を思い出してしまうはずだ。
智美の心と、そしてこれからのことを思うと、絶望しかなかった。
事件から十日近く経った頃、いまだに犯人が逮捕された報せもなく、同じ日々を繰り返していた。
そんな時に、不思議な店に出会った。
それは、初めて見る店だった。食材の買い出しに行った途中で、偶然のことだった。そこに店があるということすら、今まで知らなかったような場所に、それは建っていた。
店の前に置かれた小さな椅子。その上に鎮座する灰色の猫。入れ、と目で訴えかけられているような気がした。
店の中に入ると、中にいた店員が、まるで自分を待っていたかのような表情をしていた。
銀色の長髪をしたその店員は、男とも女とも見分けのつかない、中性的な顔立ちだった。
何故ここに来たのか、自分ですら分かっていなかったのに、その店員はまるで全てを見透かしているかのように、娘を救いたいか、と声をかけてきた。
やけに、仰々しい物言いだった。
妖しい店なのに、何故か、その店員の言葉に惹き付けられていた。
店員は、小さな箱を渡してきた。中に入っていたのは、小さな一錠の薬だった。
記憶を忘れる薬。
店員は、そう言った。
薬を飲めば、娘は記憶を忘れ、苦しみから解放されるだろう。しかし、思い出や経験といった過去の全ては人間の魂に刻みこまれている。無理に消そうとすれば、魂が乱れ、人格に悪影響を及ぼす危険がある。
それを防ぐためにこの薬は、記憶を忘れたことすらも忘れるようになっている。そして、実際に忘れる記憶の量も決まっておらず、どこからどこまでが消えるかは、飲んでみないと分からない、とも言った。
全ての記憶を失う可能性もあるということか。
そう問いかけると、店員は頷いた。
まるでおとぎ話のようなことを説明されているのに、何故か、事実なのだと思わされる説得力も感じていた。
使うも使わぬも、自由。
その言葉を背に、店を出た。
帰宅し、三日三晩、夫にも相談せず、一人で考え抜いた。
夫に話しても、信じてもらえる話ではなかったからだ。
だが、目の前には確かに、小箱と一錠の薬があった。
夢でも幻でもなく、現実にあの店は存在した。
結局、四日目の朝、智美に問いかけた。
記憶を忘れたいか、と。
智美は叫んだ。
忘れたい、と。
だから、薬を飲ませた。
智美は、すぐに意識を失ったかのように眠りに落ちた。
まるで、それまで眠れていなかった分を取り戻すかのように、五日間、智美は眠り続けた。
六日目の朝、寝室から出ると、居間で智美と華がゲームをしていた。
智美は、まるで何事もなかったかのように明るい表情で、おはよう、と言った。
薬の効果があったのだと確信し、夫にも話した。
相談もなく妖しい薬を智美に与えたことを非難されたが、智美が全てを忘れ、無邪気な頃の智美に戻った事実を前に、夫は赦してくれた。
そして、二人で、全てを秘密にすることを誓った。
智美本人にはもちろん、華にも、周りの全ての人にも、智美にあったことを隠し通すことにした。
間違っても、忘れた記憶が戻らないように。
このまま、一生、智美が平和に生きられるように。




