二十四 「智美の過去」
「何か、考え事?」
ベランダの手すりに肘をついて、町並みを眺めていたところだった。
いつの間にか隣にコウキがいて、美奈の顔を覗き込んでいる。
「一人でぼーっとしてるから、気になってさ」
「……考え事」
「やっぱり。悩み?」
「そうだね」
「俺で良ければ、聞くけど」
「うーん」
「話したくない?」
「そうじゃないよ。ただ、なんて言うか」
智美のためにどうするべきなのか、迷っている。
智美は、美奈の力を信じてくれたし、秘密にするとも約束してくれた。態度も以前と何も変わらない。突拍子もない話でも受け入れてもらえたから、少しだけ心が安らいだ。
そんな智美のために、力になってあげたい気持ちはある。
だが、智美の母親が隠している過去を明かすことが正しいのか、判断がつかない。
美奈が当時のことを憶えていれば良かったのだが、この時間軸に来てから得た幼い頃の記憶をたどっても、智美が重い病気や怪我をしたことはないし、事件や事故に巻き込まれたなんて憶えもない。
コウキに相談するのはありだが、具体的な内容を話すわけにはいかない。それで、伝わるだろうか。
「……すごく、曖昧な相談でも、良い?」
「勿論。どんな話でも」
なら話してみよう、という気に美奈は、なった。
「誰かに悩みを相談されてさ。自分ならそれを解決することができるのに、そうすると別の誰かにとって望まない結果になるかもしれない、って場合、コウキ君ならどうする?」
コウキは、美奈が言ったことをそのまま呟くように繰り返してから、深く唸った。
「ごめんね、分かりにくい話で」
「いや」
コウキは、手すりにもたれるようにして、教室の中へ目を向けた。その目は、どこかに向けられているようで、どこも見ていないようだ。
「……相談者の悩みを解決する方が、別の誰かが望まない結果よりも、より重要で正当性があることなら、力を貸す。逆に正当性を感じないなら、力は貸さないかな。
相談者の求めていることが、誰かを傷つけることじゃないのなら、力になってあげたい」
「やっぱり、そうだよね」
「実際には状況によるから、その時になってみないと分からないけど」
「うん」
「美奈ちゃんは助けたいのか? その相談相手を」
問われて、智美の事を考えた。教室に姿はない。たまに授業中でもいなくなることがあって、秘密の場所でサボっているのだという。きっと、今もそうだろう。
「助けたいよ。だけど、迷ってる。そうすることで、誰かの意思を歪めたり、嫌な想いをさせるかもしれないから」
そうだな、とコウキが呟いた。
「誰も傷つけないって、難しいよな」
「ほんとにね」
「助けない選択肢だって、ある」
「でも、それを選んで後悔しないか、って言いたいんでしょ?」
「うん。最後は、自分自身の気持ちじゃないか。懸念はあっても、やっぱり助けたい、と思うか」
肌の熱を冷ますような、涼しい風が吹いた。
今日は晴れていて、気持ちの良い空気を感じる。三年生の教室は四階にあるから、風の通りが良いのだろう。
「……できることなら、助けたい」
「そっか」
「助けて、良いのかな」
「その行動の責任を負う覚悟があるなら、良いんじゃないか。美奈ちゃん自身の選択なんだから」
中学生のくせに、コウキは時々、大人びた物言いをする。本当の大人であるこちらの方が、はっとさせられることもあるのだ。
だが、不思議とそれが、似合ってもいる。
「その通りだね」
「美奈ちゃんなら、出来るだろ?」
「……ありがとう、コウキ君。話を聞いてくれて」
「上手くいくといいな」
「頑張ってみる」
「何かあれば、また言ってよ」
「うん。コウキ君に話して良かった。やっぱり頼りになるね、コウキ君は」
そう言って笑いかけると、コウキは照れ臭そうに目を逸らした。
そんなところは、年相応の表情を見せるのだな、と美奈は思った。
何故、記憶がないのか。それも、過去まるごとではなく、一時期だけ。
妹の華も、親しい友人である美奈や里保も、智美の過去に何かがあった憶えはないという。
他の人は誰も知らなくて、親だけが、智美の過去を知っている。
そういうことが、在り得るのか。
人が記憶を忘れるという現象について、知りたくなった。
図書室の司書の教師に相談したら、人の脳や記憶に関する本を、数冊持ってきてくれた。
気分は授業を受けるどころではなかったから、いつもサボる時に使わせてもらっている司書室にこもって、借りた本を読みふけった。
本によれば、人は、記憶を簡単に忘れることはないという。
忘れたと思っていた記憶も、何かのきっかけで突然思い出すことがあるように、頭の奥には、きちんと情報として大切に仕舞われているらしい。
記憶を忘れることがあるとすれば、相当なショックやストレスを受けて、その記憶を消し去りたいと強く思った時だという。
他にも怪我や老化、病気なども原因となり得るらしいが、どれも智美とは無縁のものだったはずだ。
もし記憶を失ったとしたら、その失った記憶と縁のある場所に行ったり、人に会ったり、あるいは匂いや光景に触れることで、失った記憶が蘇るかもしれない、とも書かれていた。
だから、当時通っていた幼稚園にも行ってみたし、教室も見せてもらった。智美の担当をしてくれていたという保母とも話した。小学校にも行って、一年生時の担任とも話した。二、三年生時の担任はすでに転任してしまっていたが、いても、変わらなかっただろう。
どこに行っても、誰と話しても、何も、思い出せなかった。
記憶を取り戻す確実な方法はなくて、どうしても取り戻したいのなら、詳しい医者にかかるしかないのだそうだ。
それで記憶が取り戻せるのなら、喜んで病院へ行こう。だがそれよりも、美奈が力を貸してくれたら、母から全てを聞くことが出来る。いつ記憶を取り戻してくれるかも、本当に取り戻してくれるかも分からない医者に頼るよりも、その方が確実だ。
美奈は、しばらく考えさせてくれと言っていた。しばらくがいつまでかは言われていないが、力を貸してくれることを、願うしかない。
本を閉じて、智美は深く、ため息を吐きだした。




