四ノ十 「洋子と智美、美奈と智美」
「失礼しました」
頭を下げて職員室を出る。
扉を閉めて、智美はため息をついた。
生徒指導の教師にカーディガンを着ているのが見つかって、呼び出されていた。
注意されてもやめる気は無いと言ったことが、教師の怒りに触れ、一時間近く説教をされた。
意味の分からない規則には従えないとも言ったら、教師は、
「そんなことでは社会で通用しない」
と言い、では何故教師はセーターやカーディガンを着ているのかと聞いたら、
「教師と生徒は違う」
と更に怒られた。
思わず、呆れてしまった。途中からは言い返すことはやめて、教師の気が済むまで黙っていた。
説教を受けて、確信した。
カーディガン着用禁止の規則は無意味だと。ここで本当にカーディガンを着るのをやめたら、この学校はいつまでもおかしいままだ。
明日からも、構わずカーディガンを着てこよう、と智美は思った。
おかしいことは、おかしいと示さなくては、なにも変わらない。
どっと疲れて、身体も心も休みたがっている。
廊下を歩きながら、次の授業もさぼってしまおうと思った。
それで、そのまま職員室と同じ二階にある図書室へ向かった。
「いらっしゃい」
いつものように司書の教師がカウンターで本を読んでいる。
「こんにちは。今から使わせていただいても良いですか?」
「良いよ。先客がいるがね」
「え」
コウキだろうか。
教師に頭を下げ、司書室への扉を開ける。
「あ」
一つ結びの髪型をした洋子が、ソファに座ってこちらを見ていた。
「智美先輩、こんにちは」
「こんにちは。あれ、洋子ちゃんもさぼり?」
扉を閉めて、中へ入る。
洋子はばつが悪そうな顔をして、小さく頷いた。
こんな時間に洋子がいるとは思わなかった。普段は昼放課に会う事が多かったし、積極的に授業をさぼるような子でもなさそうだった。
一言断って、隣に座る。
ふとソファの横に目を向けると、竹で編んだ籠が置いてあり、中にひざ掛けが入っていた。
「あれ、前までこんなの無かったよね」
手に取って、広げる。
「あ、先生が自由に使って良いって言ってました。用意してくれたみたいです」
「へ~」
洋子も一枚使っていたので、智美もそのまま自分のひざに掛けた。
暖房の無い部屋なので、これは助かる。
「洋子ちゃんと授業中に会うの、初めてだね。もしかして授業よくサボってるの?」
「い、いえ! これが初めてです!」
「あ、そうなの?」
「はい。なんか……疲れちゃったので一回くらい良いかなぁと」
「そっかそっか。うん、全然良いと思うよ。私はしょっちゅうだし」
言って笑うと、洋子は顔を上げて驚いた顔をした。
「何回もさぼって、怒られないんですか?」
「んー、まあ厳しい先生は目をつけてくるけど、反抗的な態度取らなければそんなにうるさくないかな」
「さぼっちゃって、叱られないかなって心配してました」
頬を指でかきながら、困り顔をしている。
「私はあんまり授業態度良くないからたまに怒られるけど、洋子ちゃんは良い子っぽいし、初めてならあんまり言われないと思うよ」
「そうなのかなぁ?」
「きっとね。適当に誤魔化せば大丈夫」
くすりと洋子が笑った。
まだ数回しか洋子とは話してないけれど、華やコウキが言う通り、良い子だ。
表情と気持ちが一致しているとでも言うか、裏表が無い印象で、話していて気持ちが良い。
しっかりしていそうで、一人にしておくのが少し不安な感じもあって、つい守ってあげたいとかそばにいたいと思ってしまう。
華やコウキが彼女を大切にするのも、頷ける。
洋子がソファの背もたれにもたれかかった拍子に、空気の抜ける音がした。
智美も真似て、もたれかかる。そのまま、目の前の壁をぼんやりと眺めた。
生まれて始めて授業をさぼったのは、いつだっただろう。小学生の時だろうか。
ずっと前の話で、もうはっきりと覚えていない。
智美はさぼることに抵抗を感じなかった。洋子は、かなり悩んだだろう。
きっと、そうしたくなってしまう程に、男の子に言い寄られて心が参ってるのだ。
表情の変化はあってもいつもより弱いし、そもそも元気がない。
今も、会話が止んだ途端、暗い目になっている。
「ちょっといい?」
「はい?」
こちらを向いた洋子の頭に優しく触れる。そのまま、自分の腿の上に導いた。洋子の身体が、の転がるような形になる。
「え、せ、先輩?」
「膝枕してあげる」
洋子の頭の重さが腿にかかる。
軽い、と智美は思った。
「い、いいですよ、悪いです」
慌てて起き上がろうとしたので、大丈夫、と一言声をかけて、そのまま寝かせた。
「弱ってるときはね、誰かに甘えたほうが良いんだよ」
出来るだけ優しい声色で言って、洋子の頭を撫でる。
それ以上抵抗はせず、顔を赤らめたまま、洋子は大人しくなった。
不思議な子だ。出会って間もないのに、こんなことをしてあげたくなる。それが、全く嫌ではない。
この子の持つ、魅力なのだろう。
しばらくすると、洋子から寝息が聞こえはじめた。
洋子の膝にかかっていたひざ掛けをそっと取り、身体にかけなおす。
眠っている横顔をのぞき込むと、その顔は普段よりぐっと幼く見えた。
寝顔だけなら、生意気な華と同い年とはとても思えない。
こんな大人しそうな子が、文化祭ではあれだけ凄い演奏を見せたのだ。
まだドラム歴数ヶ月だというから、凄い。
衣装も似合っていて可愛かったし、あれで魅了されない男がいたら目を疑う。
とはいえ、だからこんなことになってしまったのだけれど。
「洋子ちゃんは、ちやほやされて喜ぶ子じゃないもんね」
寝顔に向かって、ぽつりと呟く。
知り合ってまだ日は経っていないけれど、確信を持って言える。
洋子が軽い子だったらこんな状況になってはいないし、智美も、こうしてあげたいと思わなかっただろう。
純粋で、人を邪険に扱えない、心の優しい子。
それが、洋子の印象だ。
そういう子だから、余計に今の状況が苦しいのだ。
何とかしてあげたい。けれど、他人の心はどうにもできない。男の子達が勝手に諦めて落ち着くのを待つしかない。
いっそ、コウキが洋子と付き合えば解決する気もする。コウキという誰が見ても納得の恋人がいたら、大抵の男の子はあっさり諦めるだろう。
コウキが中学生のうちに洋子を選ぶことは無いのだから、こんなことを考えても無駄だ。それでも、つい考えてしまう。
ただ、仮にそうなれば、同時にコウキと美奈の関係が終わるということでもある。
それは嫌だ。
洋子と知り合う前だったら、絶対に美奈を応援していた。どうにかコウキと美奈が結ばれてほしいと思っただろう。いや、実際に思っていた。
けれど、今は洋子のことも知って、洋子も好きになっている。
どちらもがコウキと、などありえないことだ。それでも、洋子にも美奈にも幸せになってほしいと願ってしまう。
矛盾しているけど、本心からそう思う。
けれど、必ずコウキはどちらかを選ぶ。
コウキがどちらを選んだとしても、嬉しくもあり辛くもある。
今、二人が抱える問題の中心には、コウキがいる。
どうすることが、どうなることが正解なのだろう。
洋子の寝顔を見ながら、答えの出ない問いかけを繰り返し続けた。
見慣れた部屋。
春には、自分のものではなくなる部屋。
椅子に座り、部屋の小窓から見える外の景色を眺めながら考え事をしていた。
世の中には、遠距離恋愛という付き合い方がある。
遠く離れていても、電話やメールで連絡を取り合って、恋仲を保つのだ。
それは、恋人と言えるのだろうか。
美奈は、誰かと交際した経験自体が無いから、偉そうなことは言えない。
ただ、一番近くにいたい人、思い出を一緒に作りたい人と離れて暮らすのは、辛すぎるではないか。
メールや電話のやり取りだけで、気持ちを満たせるとは思えない。
現に、交際しているわけではないけれど、この二年半、会えないコウキのことを想って常に苦しかった。
コウキに他の好きな子が出来たら。
美奈のことを忘れてしまったら。
そんな暗い気持ちが溢れて、何度も潰れそうになった。
遠距離恋愛など、自分には絶対無理だろう。
仮にコウキと交際出来たとして、遠距離恋愛になって、互いの気持ちを維持できるだろうか。
コウキの隣には、洋子がいる。
嫌な想像が浮かんできて、慌てて頭を振って追い出した。
本当はコウキに会いたい。
会って、話をしたい。
けれど、話せば話すほど、別れが辛くなる。離れた後は、もっと辛くなる。
今ならまだこのままの気持ちで、これ以上強くならないまま、終わらせられる。
このまま東京に行っても、最初は苦しいだろう。それも最初だけで、いずれは日常に慣れて、いつも通りに過ごせるようになるはずだ。
コウキのことも、今は無理でも、きっと忘れられる。
その方が深く悲しまずに済む。
小学校の卒業式の時に、絶対忘れない、とコウキ君に伝えた。
けれど、もう無理だ。
これ以上は、耐えられない。
忘れられるのなら、忘れてしまいたかった。
私立への進学は、美奈が自ら選んだ。
自分の責任なのだから、ただ、受け入れるしかない。
分かっていても、ここ最近思うのは、なぜ私立を選んでしまったのか、ということばかりだった。
あの時、公立を選んでいれば。
あの時、コウキのそばにいることを選んでいれば。
ああしていれば。こうしていれば。
そんなことを考えたところでどうにもならないのに、そればかりが浮かんできて、一層暗い気持ちになる。
忘れたくて、振り払いたくて、ひたすら勉強をした。
難しい問題を解いて、分からない事を調べて。理解できるようになったら次に向かって。
そうしている間は、何もかも忘れて集中できた。
後悔していても、良い事はない。
そんなことは分かっている。
分かっていても、後悔は止まらない。
母親に当たりたくないのに、母親のせいではないのに、辛く当たってしまうことも増えていた。
そんな自分がますます嫌になって、あんまり顔を合わせないようにしていた。
今は、智美が週に何回か遊びに来てくれる時だけが、おだやかな気持ちでいられる唯一の時間だった。
智美は美奈の気持ちを分かってくれているのか、滅多にコウキに関する話題には触れず、他愛もない話だけで心を和ませてくれる。
一緒にお菓子を焼いたり、食べたり、庭の手入れをしたり。
進学してから、智美とも会いたいと思っていたから、二人の時間が出来て、嬉しかった。
不意に、携帯の着信音が鳴った。
手に取って画面を見ると、ちょうど智美からのメールだった。
「明日は16時くらいに行くね」
短く、それだけ。
いつもの智美らしいメール。
たった一行の短文でも、何よりもそれがあたたかい。
美奈の冷えた心を、少しだけ溶かしてくれるのだ。




