二十 「力」
猫は、どこまでも走っていた。
すでに、江戸川の堤防からはかなり離れている。
細く、人一人通るのがやっとくらいの暗い路地を、猫を見失わないよう駆け抜ける。
壁のようにそびえる民家の数々。その中から、人の気配はしない。
ぱっくりと割れた空は、青々としているのに、恐ろしいほど静かだ。いくら東京の端とはいえ、日中でこんなにも静かなことは、あり得ない。
あの時も、と美奈は思った。
前の時間軸で不思議な店にたどり着く前と、六年生の時に偶然たどり着いた時。
あの時も、こんな風に不思議な感覚があった。
猫は、決して美奈を置いていかないように、絶妙な速さで走っている。
しかし、走るのが得意ではない美奈にとっては、そろそろ、限界だった。
息も上がり、肺も苦しい。額から流れ落ちる汗が目の端にかかって、染みた。手で拭いながらも、猫から目を離さない。
見失ったら、多分、あの店へは行けない。
そんな予感がした。
どこまでも続く路地。
決して途切れず、まるで永遠に続くかのように、先の見えない路地。
もはや、自分がどこを走っているのかも分からない。
「あっ」
不意に、猫が曲がった。
そこまで行くと待っていたのは、蟹歩きで進まねば通れないような細道だった。
「自分は平気だからって」
猫への文句を呟き、細道へ身体を入れる。ゆっくりと、壁で身体を擦らないように進んでいく。
先ほどまでの路地とは違って、細道は、すぐに抜けられた。
抜けた先は、十五畳程度の広さの空間だった。四方を建物の壁に囲まれている。出入口は、今通ってきた細道だけ。
右の壁の高い所にある換気扇が、ガラガラと音を立てている。
「やっぱり……そうだったんだね」
向かいの壁には、あの時と同じ、木製の扉があった。窓枠は無く、取っ手が一つつけられているだけの、簡素な扉。
ようこそ、と書かれた札がかけられている。
扉の横には、椅子が一脚。灰色の猫は、そこに背筋を伸ばして座っている。
「もう少し、ゆっくり走って欲しかったな」
声をかけると、猫は、ぷい、と横を向いた。美奈の言葉が、分かっているのだろう。
ついてこられなかったらそれまでだ、とでも言いたげだ。
美奈は猫から視線を外し、また、扉を見た。
ここを開ければ、あの店がある。
喉が鳴った。
何故、またここに。
すぐに、首を振った。
そんな疑問は、中に入って、店主へ聞けば良い。
美奈は、取っ手に手をかけた。そして、扉を開いた。
中へ入る時、猫が、小さく鳴いた。
「あら、いらっしゃい」
中から声がして、美奈は視線を動かした。
雑多に物が置かれた室内。奥の方にカウンターがあり、向こう側に、眼鏡をかけた女性が座っていた。その手には、分厚い書籍が挟まれている。
「予定外のお客さんだね」
女性は本をカウンターに置くと、立ち上がってこちらへ近づいてきた。
「ミケ」
女性の視線に気づき、足元を見る。先ほどの灰色の猫が、いつの間にか中へ入ってきていたらしい。美奈の横を抜けて、女性の肩に飛び乗る。
「ミケが連れてきたの?」
猫が鳴く。
「へえ?」
女性の目が、こちらを向いた。
「貴方、あの時の」
「え?」
「大村美奈さん」
「あ、はい」
「そう、なるほどね」
「あの……」
女性には見覚えがあった。忘れるはずもない。あの時この店で出会った、山口元子である。
「まあ、まずは座って」
そう言って、元子はカウンターの前の椅子を勧めてきた。言われるがまま、椅子へ腰かける。
「まさか、またここに来るとはね」
にこりと笑いかけられ、美奈はどきりとした。
前から思っていたが、元子は、恐ろしいほどの美人だ。未だかつて、彼女ほどの美貌を持つ人を、見たことがない。
目が、惹きつけられる。逸らすことが勿体ないと思ってしまうほどの、絶世の美しさ。
ただ、左耳に補聴器のようなものを着けているのが気になった。もしかしたら、耳が、聞こえないのだろうか。
「コーヒー、飲む?」
「あ……いえ」
幼くなってから、コーヒーは苦手になっていた。
「そう」
一人分のカップにコーヒーを注いで、元子は、カウンターの向こうに座った。音を立てずにカップのコーヒーを飲み、カウンターに置く。そんな何気ない仕草にも、惹きつけられる。
「で、聞きたい事は?」
「はい?」
「あるんでしょう?」
「ああ、えっと」
美奈は、頭に浮かんだことを、とっさに口にした。
「どうして、私はまたここに来られたんでしょうか」
「ミケが、あなたには今この店に来ることが必要だと感じたらしいよ。だから、ミケが連れてきた」
カウンターの上の猫を見る。今は、二人の会話には興味なさげに、丸まって目を閉じている。
美奈を案内してきた時の様子からも、この猫が、ただの猫ではないということは分かる。
「この子は、不思議な猫だから。そういうことも分かるみたい」
「そう、なんですか」
「それで、あなたは今、何か悩みがあるの?」
「え」
じっと、元子が見つめてきた。何もかも見透かしそうな、大きく開かれた瞳を向けられると、心臓の辺りがきゅっとなる。
目を伏せて、美奈は口を開いた。
「……悩みというか、分からないことがあって」
「何?」
「最近、私の周りで、変なことが起きているんです」
元子のまとう雰囲気が、変わった。
「話して」
頷いて、美奈は、ここ最近の、周りが美奈の言いなりになることについて、説明を始めた。
相談をしたコウキや陽介ですら、まともに取り合ってくれなかった話だが、不思議な店の主である元子なら、何か分かるかもしれない。
話を聞いている間、元子は何も言わず、時折、頷くだけだった。そうして話を聞き終えた元子は、椅子の背もたれに身を預け、小さく唸った。
「ミケ、どう思う?」
元子の問いかけに、それまで目を閉じていた猫が、身体を起こして小さく鳴いた。
「やっぱり、そうだよね」
また、猫が鳴く。
元子は、猫と会話ができる力でも、持っているのか。
「大村さん」
「はい」
「あなたのそれは、ギャップによるものだと思う」
聞き慣れない言葉に、首を傾げた。
「ギャップ。説明してなかったかな。この世には、世間の常識とは少しズレたモノが、沢山存在しているの。それが、ギャップ。
例えば、この店も日常の世界から半歩ズレた場所に存在するギャップの一つだし、あなたが飲んだあの薬もそう。そして、あなたの得たその超能力のようなものも、ギャップの一つ」
「超能力?」
「そうでしょう? 自分の意のままに他人を操作できる力。まるで超能力じゃない」
「操作だなんて、私、そんなつもりは」
「つもりかどうかは重要じゃない。あなたのその力は、無条件に発動する類のものね。過去にも、似た力を持つ人はいた」
元子が、またコーヒーカップを口元に近づけた。
「……断言はできないけれど、あなたの能力も、他人の心をコントロール出来る力だと思う。もしそうなら、発動の条件は、他人へ命令したり強制させるような話し方をした時」
言われて、これまでのことを思い出す。
部で起きていた渡部と三橋の喧嘩を仲裁した時、美奈はあの二人に、強めに諭した。あれから、二人の関係ががらりと変わった。
部員達の様子が変わった時も、美奈が部長として指示を出した時ばかりだった。
元子の言っていることは、正しいのかもしれない。
超能力に目覚めた。そんな話を信じるのは馬鹿馬鹿しい。そう笑って済ませたいのに、これまでの事実が、そうはさせてくれない。
本当に、自分にそんな力が。
「普通は、生まれた時から力を持っている場合がほとんど。だけど、成長してから後天的にギャップを発現させる人も稀にいる。あなたの場合は、別のギャップに触れたことで、眠っていた力が呼び起こされた、という感じかな」
「別のギャップ?」
「薬、飲んだでしょう。あれで時間軸を渡るという、通常の人間には起こりえない強烈な体験をしたことが、発現のきっかけになったんじゃないかな」
あの薬の副作用のようなもの、なのだろうか。いや、副作用とは違うのかもしれない。少なくとも現状、美奈に不利益はないのだ。
「で、どうする?」
「……え?」
「その力。そのまま持っておきたい? 一応、力を封印する道具もあるにはあるから、探すことはできる。ね、ミケ」
猫が、尻尾を振ってから鳴いた。
「その力は、上手く利用すれば人生を思い通りに出来ると思うけど、使い方によっては世界に影響を及ぼすような、恐ろしい結果も招く危険性もある。
力というのは、相応しくない人間が持つと、凶器になってしまうの。過去には、その力を悪用しようとした人もいて、そういう人は必ず酷い最期を迎えた。だから、普通なら、封印をおすすめする。
でも、あなたはあの薬を飲む資格を得た人間だから……あなたの判断で決めれば良いんじゃないかと思う」
壮大な話だ、と美奈は思った。
そんな力が自分にあるなんて、何の冗談だろう。美奈は、ただ、普通の幸せが欲しくて、過去に戻っただけなのだ。特別な力とか、世界を変える力とか、そんなものは、求めていない。
問うような目を向けられて、美奈は、ゆっくりと首を振った。
「私は……力なんて要らないです」
意外そうに、元子が見つめてくる。
「あれば便利だとしても、誰かの気持ちを自分の意のままにするなんて、そんなこと、したくないです。私も、誰かにそんなことをされたくないし。だから、封印できるなら、したいです」
「そう……分かった。じゃあ、探してみる。といっても、すぐに手に入るわけじゃないから、時間はかかるよ」
「はい」
「見つかった時には、あなたに連絡してあげる。連絡先、交換しましょうか」
言って、元子がスマートフォンを取り出した。それから、あ、と呟いた。
「そっちじゃ、スマホもSNSもないか」
「そうですね」
「じゃあ、電話番号、教えてくれる?」
「分かりました」
口頭で伝え、着信した番号にかけ直してから、携帯に登録した。
「よし。じゃあ、しばらく待ってもらうことになるけど、それまで力を発動させたくないなら、あまり他人に命令や指示を出さないことだね。そうすれば、発動することもない」
「部長だと、そうもいかないのですが……」
元子が、肩をすくめる。
「そこは、あなたの工夫次第」
「ですよね」
「さあ、そろそろ時間。ミケが帰り道を案内してくれるから、帰って」
「あ、はい」
慌てて立ち上がり、元子に、頭を下げた。
「相談に乗ってくださって、ありがとうございました」
「それが仕事だから、気にしないで。それに、あなたにはまた会いたいと思っていたから」
「そうですか」
「ええ。じゃあ、また」
「ありがとうございました」
もう一度頭を下げ、歩きだしたミケの後についていった。扉の中側にも椅子が一脚置いてあって、ミケはそこに飛び乗ると、器用に前足を使って、扉を開けた。
外の明かりが、室内に飛び込んでくる。
「あまり心配はしてないけれど、くれぐれも、力の悪用はしないでね」
扉を閉める前、元子は、そう言った。
ストーリー上のミスを発見し、大幅な修正をかけました。
修正前のものを読んでしまった人は、申し訳ありませんでした。
以後、こういうことが無いように気をつけます。
引き続き青春ユニゾンをお楽しみください。




