十四ノ五十七 「最後の夏」
離れたところの焚火にいるコウキの横顔を、幸はぼんやりと眺めていた。火に照らされて影をまとったコウキの表情は、ここからだと良く見えない。
一緒に居るのは、智美や洋子といった、東中の頃から仲の良い子達だ。
花田高には他にも東中の出身者が何人もいて、後輩の美知留もその一人である。コウキのファンクラブを作り上げ、会長の座についているのは、彼女だという。
陰ながらコウキを見守るファンの集まりだと聞いているが、実態がどうなっているのか、美知留の口からも聞いたことはない。
噂では、他校にまで及ぶほど大きな組織らしいが、定かではない。
美知留から聞かされたことといえば、ファンクラブには掟がある、ということくらいだ。それは、コウキと洋子の仲を邪魔しないこと、だという。
東中の頃から特別な関係だったあの二人の間を、万が一裂くようなことをファンクラブのメンバーがしたら、死よりも恐ろしい目に合う。そんな噂を、美知留は聞かせてくれた。
普段は幸を応援してくれている美知留も、洋子のことが絡むと、途端に手を引くようになる。それほど、コウキと洋子の仲は、周りからも大切にされている、ということだ。
「はあ」
「どうしたの、幸ちゃん、深々とため息をついて」
隣に座っていた元子が、顔を覗き込んできた。
「ねえ、元子ちゃん」
向かいに座っている美知留は、一年のかなや真紀との会話に夢中で、こちらの話には気づいていない。
「何」
「私って、もうコウキ君に嫌われちゃったかな」
元子が、少し困ったような反応を見せた。
「どうしてそう思うの」
「最近、コウキ君と二人でいる時間、全然なくなっちゃったから」
「あら、そう」
「なんだか、蚊帳の外、って感じ」
最近、部内でコウキと月音の仲を戻そうとする勢力がいる、という噂も、美知留伝いに耳にしていた。
冬の定期演奏会の直前、リーダー達の意向でコウキと月音は恋人関係にけじめをつけ、別れを選んだ。その原因は幸にあった、というのは自分でも気づいていた。
あの一連の騒動が、今になって、やりすぎだったのではないかと話す派閥が出始めているというのだ。それはリーダーの中にも存在していて、部のためだからといって、あの二人が別れる必要はなかった、という声を上げているらしい。
勿論、一度部で決まったことだし、コウキが決めたことだから、表立って声を上げたり、コウキに直接そういうことを言う子はいないのだという。
だが、そういう派閥がいる、というのは、事実なのだ。
逆に、コウキと幸をくっつけたい、という派閥は、目に見えて減っている、という。それも、美知留伝いに聞いたことだ。
別に、周りから応援されようがされなかろうが関係ないが、やはり、幸とコウキの間に溝が広がっているというのは、幸自身だけでなく、周りも感じているということだろう。
「別に、コウキ君は幸ちゃんのことを嫌ってるわけではないと思うよ」
「そうかな」
「たんに、恋に対する熱意が、コウキ君の中で減っただけでしょ」
「そういうもの?」
「だって、コウキ君は宣言したんだもの」
確かに、そうだ。コウキは、卒業するまで恋愛をしない、と部員に対して誓いを立てた。だから、月音と再び付き合うこともしないし、洋子と仲を縮めようともしない。
「どうしたら、良いのかな」
「どうしたいの、幸ちゃんは」
「え?」
「大事なのは、幸ちゃん自身がどうしたいか、でしょ」
「そう言われても……」
「このまま諦める?」
「嫌だよ、それは」
「でも、関係が離れてると感じるんでしょ?」
「……うん」
「このままの状態を続けても、先はないよ」
「ずばっと言うねぇ……」
「あら、やんわり共感だけしてほしかった?」
「そんなことないけど」
「告白でも、したら?」
丸い黒縁眼鏡をくい、と上げて、元子が笑った。
「オッケーしてもらえる訳ないよ」
「あら、分からないじゃない」
「分かるよ。それに、また私が問題起こすなんて」
「じゃあ、諦める?」
「……いじわる」
「適当言ってるわけじゃないよ、幸ちゃん。本当に好きなら、ぶつかっていかなきゃ」
「でも、それでまた部をぐちゃぐちゃにしたら?」
「すれば良いじゃない」
「ええ」
思わず、目を見開いていた。いつも冷静で、正しいことしかしない元子らしからぬ発言だ。
「そうするだけの覚悟があるなら、すれば良い。もしかしたら、それで想いが叶うかもしれないのだもの。でも、周りに気を使い続け、コウキ君に気を使い続け……そうしたところで、想いが叶うことは、ないでしょう?」
「……」
「あなたのしたいようにすればいい。それが、恋でしょ。誰に何と言われようと、どう思われようと、心の赴くままに」
「元子ちゃん」
「人生は、一度きりだよ。誰かへの恋もね」
幸は、小さく頷くことしか、出来なかった。
翌日は、合宿最後の日だった。早朝から合奏が始まり、丘の厳しい声と部員の返事が、講義室を飛び交った。
繰り返されるフレーズ。一音一音の音程の確認。リズムの徹底的な再現。何度も何度も行っては戻り、細部を突き詰めていく。
朝食の後も、昼食の後も、ひたすら合奏だった。課題曲と自由曲の、それぞれの未完箇所を、徹底的に仕上げていった。
極限の環境の中で、部員も丘も、一秒たりとも無駄にしなかった。一日で、ここまで進むのか、というレベルの仕上がりを見せた。
それでも、全体を通しての演奏となれば、まだまだ粗はあった。
このままでは、代表は危うい。丘も部員も、そのことを理解している。後は、学校に戻ってからだ。県大会まで、可能な限りレベルアップする。
目指すは、全国大会なのだ。県大会も、代表選考会も、そして東海大会も、過程に過ぎない。
練習日程の全てが終わり、片付けが始まった。講義室、ロビー、食堂、談話室、各自の部屋。三日間使用した全ての部屋を、手分けして徹底的に清掃する。
長時間利用させてもらった礼として、来た時よりも美しく仕上げる。
卒部生による厳しい点検を経て、全てを終え、花田高生は、帰ることとなった。
「施設の職員の皆さん、三日間、お世話になりました」
ロビーの中央にある、事務室の前。カウンターの向こうに立つ職員達を前に、全員で整列していた。
智美が、よく通る声で言ったそれに合わせて、ありがとうございました、と部員で声を揃える。
職員の老人達は、皆ニコニコとした顔で、またどうぞ、と言い、部員達を見送った。
すでに夕方前ではあったが、この後、部員は大型バスで学校へ戻り、楽器下ろしをせねばならない。先に出発したトラックが、学校で荷下ろしを待っているのだ。
「帰りは自由席ね。早い者勝ちでどんどん詰めてって」
智美の指示で、部員達がバスへ吸い込まれていく。幸は元子と並んで座った。
「去年は、行きのバスでコウキ君と乗ったなぁ」
「あら、そうなんだ」
「楽しかったなぁ」
「今年も誘えばよかったのに」
「……」
「はいはい、無理ね」
「分かってるなら、言わないでよ」
「分かんないなあ」
「……何が?」
「幸ちゃんは、積極的な時があったかと思えば、次の瞬間には奥手になったり、一体どっちが本当の幸ちゃんなんだか、と」
「私にも分かんないよ」
「自分のことなのに」
「好きって、そういうものでしょ」
「さあ、私は異性を好きになったこと、ないから」
「そうですか」
バスは、既に走り出している。他の部員は疲れ切って眠っているのか、車内は静かだ。
「で、告白するの?」
「しないってば」
「じゃあ、せめてデートにでも誘えば?」
「え」
「最後に誘ったの、いつだっけ。去年のゴールデンウィーク?」
「あれは、デートっていうか、皆で遊んだだけっていうか」
確か、元子に相談に乗ってもらって、その流れで、コウキや智美、陸達を誘って、複数人で遊んだのだ。
「じゃあ、文化祭?」
「あー、そうかも」
「もう、一年近く経ってるじゃん」
「そうですよ」
「じゃあ、そろそろ。夏と言えば、花火大会ですね、市川さん」
「何、急に敬語になって」
「想い合う男女が、夏の夜のひと時にだけ咲く、はかない花を見上げる……ロマンチックだね」
急に詩人のようになった元子がおかしくて、幸は笑っていた。
「一方的な想いだけどね」
「それを双方向に変える力を持つのが、花火だよ」
急に真面目なトーンになって、元子が言った。
「花火には、力があるの。人の想いを吸い集め、分け与える力が。それを上手く受け取れる人には、恩恵がある」
「……スピリチュアル?」
ふ、と元子が笑った。
「迷信、迷信。でも、嘘とも言えない……とにかく、花火大会、誘ってみたら?」
「来てくれないでしょ、コウキ君は」
「複数なら? 三年生最後の夏なわけだし、同期で行こうって、誘ったら?」
「……なるほど?」
「そういうのなら、来る人だと思うけどね」
そう言い終えると、元子は鞄から分厚い本を取り出して、自分の世界へと入り込んでしまった。
窓の外に目を向け、幸は、今元子に言われたことを、思い返していた。
クラクションを短く鳴らして走り去るトラックを、部員一堂で見送る。
坂の下へ、トラックが見えなくなったところで、智美が手を叩いた。
「皆、荷下ろしお疲れさまでした! 明日からまた図書室での練習が始まるけど、ひとまず、今夜は家でゆっくり休んでください。そして、明日からも、集中して練習していきましょう!」
「はい!」
「今日はこのままここで解散にするから、楽器上げは明日の朝やります。明日は朝八時から! 遅刻しないようにね。それでは、お疲れさまでした」
「お疲れさまでしたー!」
どっと賑やかくなった校舎前。幸は、部員の間を抜けて、夕を捕まえた。
「ねえ、夕」
「どしたん、幸」
「あのさ、八月三日って空いてる?」
「八月三日?」
夕が、鞄から手帳を取り出した。横から、覗き込む。
「日曜日……普通に部活だね」
「の後。夜さ、隣町で花火大会、あるじゃん」
「ああ、そういえばそうだね」
「三年の子何人か誘ってさ、皆で行こうよ。最後の夏なんだし」
「良いねぇ!」
「じゃあ、空けといて!」
「おっけー」
花火大会、と手帳に書き記している。これで、一人は確保だ。
「他の子も、私が誘っておくから」
「はーい。メンバー決まったら教えて」
「うん!」
「じゃあねー」
「ばいばい」
幸は、次に、智美を捕まえた。
「智」
「幸、お疲れ」
「お疲れ。ねえ、八月三日の夜さ、智、空いてる?」
「八月三日……あー、花火大会?」
「そうそう。ねえ、空いてたら一緒に行こうよ。同期の子何人か誘ってさ、皆で見に行こ」
「あー、良いじゃん。行こ行こ。誰来るの?」
「とりあえず元子ちゃんと夕は誘ってある」
「え、良いね。他は、誰声かける?」
「コウキ君と陸君は声かけようかなって。勇一君と元口君は、多分それぞれで行くだろうし」
「じゃあ私からコウキと陸の事誘っとこうか?」
「あ、ううん。私から誘わせて。私がやりだしたことだから」
幸が言うと、智美は、柔らかく笑った。
「ん。じゃあ、よろしく」
「コウキ君、断らないかな?」
「一対一のデートじゃないんだから、断らないでしょ。考えたね、幸」
「へへ……元子ちゃんのアドバイスだけどね」
「なる」
じゃ、頑張って。言いながら、智美は離れていった。
部員の中から、コウキの姿を探す。一年の男子と、談笑している。その背後へ近づいて、幸は、そっと服の裾を引っ張った。
「ん、幸さん」
「コウキ君、今大丈夫?」
「ああ、良いよ。じゃ、お前ら、さっさと帰れよ」
「うーす、お疲れ様です。市川先輩も、お疲れ様です!」
「あ、うん、皆気をつけて帰ってね。お疲れ様」
祐介、通之、たくまが、頭を下げて離れていく。その姿を見送った後、振り返ったコウキは、微笑みながら、首を傾げてきた。
「何だった、幸さん?」
「あ、えっとね、八月三日の夜って、コウキ君、空いてる?」
「八月三日? 何も無いと思うけど……何かあったっけ」
「あのね、その日日曜日なんだけど、隣町で花火大会あるじゃん?」
「ああ、そうか、そうだった」
「でね、同期の子何人かで、最後の夏だし皆で見に行こうって事になったんだけど、コウキ君もどうかなーって」
「部活の後だよね、直接行くの?」
「うん、多分そうなると思う」
「誰来るの?」
「私、智、夕、元子ちゃん、あと陸君も誘おうかなって。勇一君とか元口君も誘おうかと思ったけど、多分、美喜ちゃんとか咲ちゃんと行くかなって思って、邪魔しないどこうかなと」
「そうだな。それに、それくらいの人数の方が、ちょうど良いかもな」
「でしょ」
「六人か」
「コウキ君入れたら、そう」
コウキは、少しの間、考える素振りを見せた。
答えを待つ間、幸は、平静を装って、黙っていた。内心は、爆発しそうなほど、騒ぎ立てている。
「……せっかくだし、行こうかな」
「っ、ほんと!?」
「うん」
「やった! また近くなったら詳しい事、皆で決めよ!」
「おっけー」
「約束だよ!」
小指を差し出すと、コウキは、くすりと笑って、小指を絡めてきた。
「ああ、約束」
「じゃあ、またね、コウキ君」
「うん、また明日」
「おやすみ!」
「おやすみ、幸さん」
手を振ると、コウキも振り返してきた。
幸は走り出し、自転車置き場へ、真っすぐに向かった。奥の方で、元子が、幸の自転車のサドルに腰かけて、本を読んでいた。
「元子ちゃん!」
元子が、顔を上げる。こちらの表情を見て悟ったらしく、微笑んだ。
「良かったね」
「うん! 元子ちゃんのおかげだよ」
「私は別に、何もしてないけど」
「背中、押してくれた」
ぴょん、と優雅な仕草で、元子が自転車から降りた。
「じゃあ、そういうことにしておきますか」
「うん。帰ろ!」
自転車の鍵を開け、駐輪場から出す。
「花火大会、楽しみだなぁ」
「良い時間になると良いね」
「うん!」
笑いかけると、元子も、嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう、元子ちゃん」
「どういたしまして」
駐輪場から出ると、後輩達が、前を通り過ぎた。挨拶をされ、二人で返す。そのまま歩いて、坂まで来ると、正門の前に部員がたまっているのが見えた。
「話して帰る?」
「今日は、もうこのまま帰ろう」
「ん」
明日から、日常が戻ってくる。
花火大会があるからと、浮かれてはいられない。コンクールもまた、近いのだ。
明日からもまた、厳しい練習が、待っている。




