十四ノ五十五 「自由曲のソロ 三」
親に頼み込んで買ってもらったゼノは、コウキにとって、最高の相棒だった。
音の質が、これまでのトランペットとはまるで違うのだ。それに、コウキの要求に全て応えてくれるし、やりたいことを、やりたいように表現させてくれる。
日本が生み出した、傑作トランペットといえるだろう。おかげで、今は、自由な演奏ができる。
このソロも、そうだ。
音の並びは難しくないが、そこにどんな表情をつけるか。ただ明るく吹けばいいわけではないし、穏やかに吹けば良いわけでもない。何も考えないのも、あり得ない。
奏者によって色をがらりと変えるような、シンプルなフレーズに見え隠れする、奥深さがある。
それが、ゼノのおかげで、思い通りに奏でられる。コウキの中の、こう吹きたいというイメージを、具現化してくれる。
「次、三番」
丘の声を聞いて、コウキは、一歩前に出た。
そのまますっとトランペットを構え、いつも通り、何の力みも生まず、自然に、音を出した。
ソロを演奏している間、コウキの耳から、周りの音が消え去る。自分とトランペットとソロのフレーズ。あるのは、それだけ。
ただただ、この音楽に身を委ねる。
それで、心地良い演奏が生まれる。
演奏中に緊張することがなくなったのは、いつからだろうか。
勿論、全く緊張しないわけではないが、それはプラスの緊張だ。不利に働くような、身体が固くなるタイプの緊張は、長いこと経験していない。
日々の練習から、本番を想定して演奏してきた。たった一音であっても、全国大会のあの黒舞台をイメージして、最高の音を出し続けようとしてきた。
無難な音を出すことを自分に禁じ、常に最高たれ、と意識してきた。
そのおかげかもしれない。
マウスピースを口から離し、コウキはトランペットを下ろした。
これで自分が選ばれれば良いし、選ばれなければ、コウキを超える後輩がいたということになる。それもそれで、良い。
自分に出来ることは全てやった。結果は、おまけでしかない。
そういう境地に至れるようになったから、身体にも音にも、力みが消えた。
今のコウキにとっては、この演奏が、最高だった。
両親が離婚し、東京から離れて以来、音葉の世界は色が失われ、薄暗い幕に覆われたように、いつも灰色で、無機質で、何の価値も感じられない空虚なものとなった。
自分にとっては、東京という都市が全てだったのだ。あそこには友も仲間もいたし、家族なんてものが崩壊していても、音葉を楽しませてくれるものや場所が、沢山あった。
だが、ここには、何もない。
学校の授業は低レベルで、同級生の話は下らないし、家に帰れば、ボケはじめた祖母と病んだ母の面倒を見なければならない毎日。
自分が、一体何をしたというのだ。
浮気性の父を親に持ったがために、子である自分が、これほどの不幸を背負わされねばならないなんて。
眩しくキラキラしていた毎日は、もう二度と取り戻せない。なのに、あの父親は、きっとどこかで今も女と幸せに過ごしている。
こんなのは、間違ってる。
そういう怒りや憎しみといった負の感情が、もしかしたら音葉の世界から、色を失わせた原因なのかもしれない。
ただ、トランペットを吹いている時だけは、世界に色彩が戻ってきて、色で溢れた。心が浮き立ち、音符の連なりが、音葉の止まっている時間までも、動かしてくれた。
音葉にとっての宝物は、もう、トランペットだけだった。これを失ったら、生きている意味すら、分からなくなる。
だからこそ、一番でありたかった。音葉にとって、唯一残された宝物だから。誰にも負けないくらいの、強い想いがあるから。
何も無くなったこの世界で、音楽だけは、音葉を見捨てない。トランペットだけは、音葉を救ってくれる。
音葉も、それに応えたいのだ。
「四番」
丘の声。
一歩前に出て、音葉は、目を閉じた。
胸に手をあて、息を吐く。
華の演奏も、心菜の演奏も、コウキの演奏も、音葉にとっては関係ない。誰が何をどう吹こうと、揺るがない。今日まで磨き上げてきた自分の音楽を、信じる。
トランペットを上げ、マウスピースを、口に当てた。
閉じていた目を開き、息を、大きく吸い込む。
放った音が、室内に満ちた。管の中で振動が生まれ、響きを作っていく。それに呼応するかのように、音葉の身体の中も、共鳴して響いていく。
からっぽになってしまった心を音で満たすように、紡いでいく。
満ちろ。もっと、満ちろ。
講義堂の中が、色で溢れていく。色彩が戻り、鮮やかな世界が、音葉の目に描かれていく。
トランペットの銀色の輝きも、照明の煌めきも、木板の温もりも、ついたての真っ白さも、全部が鮮やかだ。
音と共に描かれていく、家族で見た、朝日の光景も。
本当は、こんなにも綺麗な世界なのに。
どうしていつもの音葉の目には、灰色に映るのだ。
ただ、幸せな毎日を生きていたかっただけなのに。
他の子と同じように、無邪気なままで、いたかったのに。
大事な場面だった。なのに、不意にそんなことを思ってしまって。
一瞬、音が乱れた。咄嗟に、顔をしかめていた。ほんの一瞬。それでも、充分すぎるほどのミス。
ソロを吹き終えて、音葉は、うなだれた。
余計なことを考えた。音のことだけを考えていれば、よかったのに。
チャンスを、自ら、こぼれ落としてしまった。
世界は、また、空しい灰色に戻っていた。
昨年度までのトランペットパートは、これまで丘が見てきた中でも、間違いなく黄金世代と言って良いほど、優れた奏者が揃っていた。
どんな曲でも、あの七人なら任せられるだろうという安定感を感じたし、個々の技量は勿論、合わせた時の一体感も、特別なものがあった。
あれほどのパートが出来上がることは、もうないだろう、と丘は思っていた。
しかし、新入生として華と音葉が入ってきた。どちらも、中学でエースとして活躍していた奏者だった。
快闊な華と、寡黙な音葉。正反対の二人だが、両者とも、元エースらしい優れた能力を持っていた。
音葉は他者に壁を作る癖があるが、華のことは認めている節があった。だからペア練もあの二人を組ませたし、どちらか一方を優遇するようなことをせず、二人で競わせた。
互いを友として、仲間として、そしてライバルとして見ることで、成長を促進させようという狙いがあった。
それは今のところ上手く機能していて、順調に、奏者としての腕を伸ばしてきていた。
二人が入ってきたことで、トランペットパートは力強さを取り戻した。
だから、『GR』を自由曲にすることができたのだ。オーケストラサウンドが前提の大作でありながら、吹奏楽編曲らしくトランペットパート全体の力量が求められる曲であり、今の花田高に、そして丘の目指す音楽の形に合う曲でもあった。
「名前書けた人は、持ってきてください」
智美の指示に、部員達が返事をした。
ソロオーディションの投票が進んでいて、すでに、三分の一ほどの者は、投票を済ませている。
丘は、まだ書いていなかった。別に理由があるわけではなく、ただ、書いていないだけだ。
隣の涼子は、すでに書き終えて、紙を折っているところらしい。
ソロに挑んだ四人は、それぞれの良さを持った奏者で、皆自分なりの演奏をしていた。 その中から、上位二名で再審査となる。
チャンスは二回、ということだ。
だが、言い換えれば、二回とも素晴らしい演奏をしなければ選ばれない、という意味でもある。
それは、どれだけ演奏の再現力を身につけられているか、ということも関わってくる。
まぐれで一度良い演奏をしただけでは、本番のコンクールでミスをする可能性もある。何度やっても美しいソロを吹ける。それが、ソロ奏者の条件だ。
音葉は、と丘は思った。
肝心の部分で、些細なものだが、ミスをした。それは、普段の音葉からは結びつかないような、意外なミスだった。
だが、ミスはミスだ。聴いた者は、そこに他の奏者との差を感じてしまう。音楽表現などという、個人によって感性の分かれる部分ではなく、明確な差として認識しやすいことだからこそ、より、如実に評価に出る。
今日までの合奏では、四人に交代でソロを吹かせていた。
その印象としては、コウキと音葉が選ばれるだろう、と予想していた。
だが、実際は、華の演奏が意外なほどに、伸びていた。
丘は、日々、奏者の前に立って演奏を聴いている。だから、どの音が誰の音かが、目を塞がれても分かるくらい、記憶していた。
一番が華、二番が心菜、三番がコウキで、四番が音葉。
恐らく、選ばれるのは、華とコウキだろう。
丘も、手早くメモ用紙に番号を書いて、折りたたんだ。智美が、回収に来る。箱の中へ紙を入れて、丘はボールペンを胸のポケットに戻した。
定期演奏会では、コウキの成長を促すために、『サモンザヒーロー』を選曲した。丘の期待通り、逸乃と月音を差し置いて、コウキはソロを勝ち取った。
その結果、コウキは爆発的な成長を見せた。
あれから、コウキは確実に部のサウンドの中核となっている。
リーダーとして部員の心の柱にもなり、サウンドの核にもなっている。今まで、そういう部員はいなかった。唯一思い当たる者と言えば、丘の先輩であった進藤だけだろう。
コウキを見ていると、彼を思い出す。
今回のソロも、間違いなく、コウキは上位二人に選出される。
だが。
丘が票を入れたのは、華だった。




