十四ノ五十三 「自由曲のソロ 一」
見慣れた音楽ホールの、舞台上だった。天井から降ってくるライトの熱が、身体を火照らせる。
静まり返ったホールの客席には、見慣れた仲間達の顔。波打つようなかまぼこ型の反響板が左右に並び、閉鎖された舞台上には、トランペットパートの十人が並んでいる。
中学の近所にあった音楽劇場で、コンクール前のホール練でいつも使っていた。
三年間で、何十回この舞台に立っただろう。音も、匂いも、雛壇の裏のごちゃごちゃした配線の並びすらも、鮮明に思いだせる。
横を見ると、ライバルだった一つ上の女の先輩が、険しい表情でトランペットを握りしめている。先輩の髪がばっさりと短くなっていることに気がついて、音葉は懐かしさを覚えた。
入部したての頃から、先輩の髪は、音葉よりもずっと長かった。確か、音葉が二年生になった六月以降に、先輩は髪を切ったのだ。
「もう、音葉ちゃんには負けない」
いつだったか、そう、宣言された。
ライバルだったというのは、彼女が勝手に音葉をそういう風に見ていただけで、音葉にとっては、取るに足らない相手だった。
「オーディションを始めるぞ」
客席の中央に座っていた顧問が、良く通る低い声で言った。
「一人ずつ、左から順番に」
「はい!」
返事をした一番端の子が、トランペットを構えた。そのまま、懐かしいフレーズを吹いた。
中学二年生のコンクールでやった、自由曲だ。中間部のトランペットソロ。
ああ、これは、夢か、と音葉は思った。
一人ずつ、順番にソロを奏でていく。九人目が、音葉だった。
今でも、どういう風に吹いていたか憶えている。楽器の構えも、息の吸い方も、音の出し方も。
あの頃と同じように、音葉は奏でた。
顧問と仲間達が、聞き入っている。顧問の顔が、納得の表情をしている。あれで、音葉は、自分が選ばれると確信したのだ。
音葉の番が終わって先輩も吹いたが、明らかに、音葉の方が上手かった。
「ソロは桜。席も桜が一番左に座るように」
その言葉が聞こえたと同時に、まるで映画のように、場面が切り替わっていた。
部員が全員、合奏の形に座っている。顧問は、指揮台の上だ。
音葉は、雛壇の一番上段の、中央。トランペットパートのトップ奏者が座る位置に、座っていた。右隣には、ライバルの先輩。
彼女の唇が震え、ぽろぽろと涙を流しているのを見ても、音葉の心は、動かなかった。
相応しい者がソロを吹く。ただ、それだけなのだ。
そして、音葉はその相応しい者が自分でなくては嫌だから、誰よりも努力した。
結果が全てだ。
泣いたって、何も変わらない。泣くくらいなら、もっと練習すべきだったのだ。
話し声で、音葉は目を覚ましていた。息を吸い、軽く、身体を伸ばす。ゆっくりと身体を起こすと、ひなたと心菜と莉子が、何か話をしているところだった。
「あ、ごめん、起こした、音葉ちゃん?」
「いえ……おはようございます、心菜先輩」
「おはよ、音葉ちゃん」
「おはようございます、ひなた先輩も」
「もうすぐ目覚ましの放送が鳴るから、ちょうど良かったね」
言われて壁の時計を見ると、五時五十七分を指していた。六時の放送の後に、朝の集会のようなものが行われると、合宿のしおりには書いてあった。
懐かしい夢だった、と音葉は思った。
東京にいた頃の夢は、花田町に引っ越してから初めて見た。顧問や仲間達の顔は、意外とはっきり覚えているものらしい。
音葉にとって、最も輝いていた頃だった。音葉を妬む者や陰口を言う者もいたが、仲間と共に懸命に活動する毎日は、鮮やかで、眩しかった。
あの頃に、戻りたい。
不意にそんな想いが湧き上がってきて、音葉は頭を振った。
過去を追い求めても、意味はない。振り向いても何も得られないのだから、ただ、前に進み続けるだけだ。
オーディションの夢なんて見たのは、今日が、その日だからか。
柄にもなく、意識しているのかもしれない。
これまでは、音葉の相手になる者はいなかった。全てのソロを、音葉が掴みとってきた。
だが、今回は、コウキと華がいる。あの二人は、これまで出会ってきた奏者達とは格が違った。油断すれば、ソロを奪われかねないほどの実力者達。
コウキに至っては、多分、今の音葉よりも。
技術力の差はない。むしろ、音葉の方が優れている面がある。
だが、技術ではない部分で、コウキは他人とは違うものを持ち合わせている。
だとしても、負けられない。
ソロは、自分で吹いてこそ、意味があるのだ。
「コウキ君はさ、今回のオーディション、あんまり力を注いでないの?」
不意に万里に言われて、コウキは驚いた。
「何で?」
万里が、ちょっと考えるような仕草を見せた後、遠慮がちに口を開いた。
「定演の『サモンザヒーロー』の時は、なんだか凄く燃えてたように見えてたから。あの時ほどの熱量を、今のコウキ君からは感じない気がして」
「そうかな」
「私の、気のせい?」
万里とは、三年間、隣で切磋琢磨してきた。だからこそ、コウキの些細な違いにも気づいたのかもしれない。
ロビーの外の景色に目を向けたまま、コウキは首を振った。
「そういうつもりはないけど……でも、そうなのかな。あの曲は、俺にとって特別な曲だった。どうしても、自分で吹きたい曲だったんだ」
「そう言ってたね」
「うん。そういう意味では、確かに、特別な熱量があったかもしれない」
「じゃあ」
また、コウキは首を振った。
休憩が終われば自由曲の合奏が始まり、初めに、ソロオーディションが行われる。すでに緊張感が漂い始めていて、ロビーには昨日までのような賑やかさはない。きっと、講義堂の中も、同じだろう。
「だからといって、今回のオーディションで手を抜いてるわけじゃない。俺は俺に出来ることを全部やってきたし、俺がソロを吹くつもりでいる。ただ、もし俺が選ばれず他の子が選ばれたのなら、それでも良いと思ってるだけだよ」
「自分で吹けなくても、良いの?」
「俺の目的は、俺がソロを吹くことじゃない。部が全国大会金賞を得ることなんだ。そのために、ソロは一番ふさわしい奏者が吹けば良い。これは定期演奏会じゃなくて、コンクールだから」
「そう、なんだね」
「うん」
万里は、それ以上何も聞いてくることはなく、二人で、窓の外を眺めつづけた。
しばらくして休憩時間が終わると、講義堂の中へ入るように智美が指示を出した。返事をした部員や卒部生達が、中へ入っていく。コウキと万里も、講義堂の扉を開いた。
「あ」
万里の口から、漏れていた。
入った瞬間に感じた、身体を圧すような異様な空気。それを、万里も解ったのだろう。顔を見合わせ、そのまま、自分達の席へ向かう。
歩を進める度に、圧が強くなる。気配、と言い換えても良いかもしれない。その根源は、トランペットパートの席に座る、音葉からだった。
気配などというものが実在するのか、コウキには分からない。ただ、明らかに、音葉からは、何かを感じた。
強い、想いのようなもの。
コウキが隣に座っても、音葉は、少しも視線を向けてこない。
いや、目を開けてすらいない。静かに佇み、集中しているようだ。
そうか、とコウキは思った。
この子は、このオーディションに懸けているのだ。
吹奏楽部は、女子部員が多くなる分、どろどろとした人間関係が構築されやすい部活動である。派閥や蹴落とし合いだって発生するし、妬みも日常茶飯事だ。
花田高だって、今年の一年生に起きた問題とか、去年の千奈と海の喧嘩など、毎年何かしらの諍いはあって、常に全員が一致団結しているというわけではない。
はっきりしている関係だと、星子と美喜は双方とも我の強い性格だからか、三年生になった今でも馬が合わないし、今年卒業した打楽器パートの摩耶と純也は、犬猿の仲で知られていた。
それでも花田高が他と違うと言えるのは、そういう関係性の部員達も、ひとたび合奏となれば、一体となった演奏をするところだ。
丘の指導の賜物なのか、花田高特有の何かがあるのか、それとも、強豪校とはそういうものなのか。
いずれにしても、個人の好悪と音楽演奏は別物ということを理解し、それを受け入れられる精神性を、自然と備えるようになる。
女子同士にありがちな陰湿ないじめは殆どないし、基本的にいつも穏やかな雰囲気の部だと言えるだろう。
だが、と元子は思った。
今、講義堂に満ちているこの空気は、いつもとはまるで違う異質なものだった。
誰もが押し黙ってしまうような、重苦しい圧。
それがどこから発せられているのか、ここに居る全員が、分かっている。
入部した頃から、目を引く子だった。
存在感の塊とでもいえばいいのか。
自分に対する絶対の自信と、他者を寄せ付けない見えない壁をまとった、孤高の少女。
トランペットを愛していることは、音から伝わってくる。雄弁な音を出す子なのだ。強い想いを音に乗せて吹くから、聴いている者にも解る。
ソロに対する想いも、異常なほど強かった。自分が吹かねば気が済まない。そういうタイプの子だ。
今、彼女が、講義堂の空気を支配している。気軽に口を開くことのできない、極限の空間。
元子は、ちらりとトランペットパートの方に目をやった。
他の子達がうつむいている中、彼は、いつも通りの表情で、前を見ていた。
「……は」
思わず、笑っていた。
「?」
隣の幸が、首を傾げた。
「何も」
元子は答えて、視線を戻した。
真横から放たれる圧にも動じず、平然としている姿は、さすがと言いたくなる。
それでこそ、コウキだろう、と元子は思った。
炎を燃やす音葉と、凪のように穏やかなコウキ。対照的な二人の競争は、きっと面白いものになるだろう。




