四ノ九 「洋子と智美」
十一月にもなると、厚着をしていても外は寒い。
少し演奏を止めると、途端に唇も指もうまく動かなくなる。温めるために、カイロが手放せない時期だ。
公園の敷地内で、小学生達がサッカーをしている。
彼らの甲高いはしゃぎ声を聞きながら、トランペットの中にたまった水を、息を入れて抜いた。ぽたぽたと水が落ちて、足元の地面に染みができる。
「それってさぁ唾なの? 水なの?」
隣に座ってぼんやりと上を見上げていた智美が、足元の染みに目を落として聞いてきた。
「水、じゃないかな。こんなに唾でないでしょ」
「だよねぇ」
言って、智美は表情を崩した。
それからまた空を見上げて、流れていく雲を目で追い始める。
「空を見るの、好きなんだな」
「うん、好き」
「俺の音、うるさくないのか?」
「むしろ、BGM付きで空を眺められるなんて贅沢だよ。コウキの音は綺麗だから、聞いてて飽きないしね」
「……急に褒めるなぁ」
「ほんとのことだもん」
智美は、たまにこうして学校帰りについて来ては、コウキがトランペットを練習している隣で、空を見ている。
一人で吹くよりは、聴いてくれる人がいたほうが練習に張りは出る。
ただ、いつもぼんやりと空を眺めているので、無理に付き合っているのではないかと、心配になるのだった。
コウキは、文化祭も終わって、正式に吹奏楽部を引退した。三年間使ってきたトランペットは学校の備品で、それは、引退と同時に返却してある。
当然、高校でも吹奏楽を続けるつもりでいるが、それまでの間に一切楽器を吹かないでいると、感覚が鈍くなってしまう。だから、貯めてきた貯金と両親から少し出してもらった金で、安いモデルのトランペットを購入した。
金色のラッカー塗装がされていて、学校の備品で使っていた銀のトランペットより、少し音が明るい。モデルや塗装によって、同じメーカーの楽器でも、音色は随分変わるのだ。
「うるさくないなら良いけど。なんか、智美さ、たまに悩んでるような顔してないか?」
二人でいる時に、ふと横にいる智美を見ると、思い悩んでいるような冴えない表情をしていることがよくあった。
それが妙に引っかかって、気になっていたのだ。
智美はちょっと身体を固くして、それから苦笑いをした。
「そう見えた? コウキは鋭いねぇ……」
「やっぱ何かあるのか?」
「まあ、ね。でも心配しないで。大丈夫だから」
有無を言わさない口調。壁を作られると、それ以上聞けない。
相談したいと思っていないのに聞くのは、ただの野次馬根性だ。
それをされても、智美は喜ばないだろう。
「どうにもならなくなったら、頼れよ。話聞くから」
「……ありがと」
顔を下げて、自分の腿に置いた両手に目をやりながら、智美は小さく呟いた。
今は、黙ってそばにいることしかできない。
「何か吹いてほしい曲、ある? 吹いたげるよ」
時々、智美にはあれを吹いてくれ、これを吹いてくれ、とリクエストされていた。恥ずかしくて断っていたが、こういう時くらいは吹いてやろうか、という気になった。
持ってきていた楽曲集を、智美に差し出す。
「ほんと? じゃあねー」
ぱっと顔を明るくして、可愛らしい笑顔を向けてきた。
楽曲集を受け取ってぱらぱらとめくり、しばらくしてから『聖者の行進』のページを指さした。
「これがいいな」
「聖者の行進か、おっけー」
智美から楽曲集を受け取って譜面台に置き、楽譜をざっと見て流れを確認してから、トランペットを構えた。
ゆっくり深く息を吸って、管内へと吹き込んだ。
華やかな音が、トランペットのベルから飛び出していく。
楽曲集の『聖者の行進』は、ルイ・アームストロングが演奏していたものほどジャズ感が強くないが、それでも楽し気で陽気なリズムだ。
シンプルなメロディーで、初心者でも吹きやすい良い曲である。
ふと周りが静かなことに気づいて目を動かすと、サッカーをしていたこども達も立ち止まって、こちらを興味深そうに眺めていた。
隣に目を移すと、智美は目を閉じて微笑みながら、体を小さく揺らしている。
初見で吹いているからお世辞にも上手いとは言えないが、智美が楽しそうにしてくれているのを見ると、吹いている甲斐があるというものだ。
楽譜に目を戻し、最後まで吹ききる。
曲が終わると、智美は小さく拍手してくれた。
「好き。この曲」
「俺も」
智美は満足そうな表情をしている。
こども達は、またサッカーに戻っていた。
こうして授業後に公園で練習をするのは、日課になっていた。
室内で練習出来る場所は、近くにはないからだ。
後輩には部室で練習したらどうか、と声をかけてもらっていた。だが、あえて引退してからは顔を出さないようにしている。
東中吹奏楽部はすでに一、二年生だけの新体制になっていて、もうコウキの居場所ではないのだ。
三年生が引退し、部が新体制に移行するにあたって、コウキはパートの二年生とよく話し合って、一年生の華をトランペットのパートリーダーに指名した。
最も相応しい子であり、また、一年生がリーダーを務めるのは、これからの部に必要だと思ったからだ。
以前から、上級生が必ずリーダーを務めるという無意味な慣習が、コウキは嫌いだった。
相応しい者が年齢に関係なく担当することが可能な、風通しの良い部である。
それが、コウキの理想の部活の姿だ。
後輩達には、その話をし続けてきた。どれだけのことを感じ取ってくれているのかは分からないが、全員が華をリーダーと認めたのだから、少なくともトランペットパートは大丈夫だろうと思える。
これから先、トランペットパートは華を中心にうまく回るだろうし、部の運営に関しても、次第に華が中核を担うようになってくるに違いない。
それだけ、華には人の前に立つ才能がある。
願わくば、部員全員が上下関係に縛られない、本当の信頼関係で結ばれた部になってほしい。
上下関係が絶対悪だという意味ではないが、無駄な上下関係は、要らない軋轢や人間関係のこじれを生む。
皆が対等で、何でも言い合える関係。そういう信頼関係があってこそ、本当の合奏が可能になるのではないか。
華は、コウキの話を真剣に聞いてくれていた。疑問に思えば納得いくまで質問してきて、時にはコウキの意見に反発してくることもあった。
そうやって自ら考えようとしてきたからか、入学したての頃より、華はしっかりと自分の考えを持つようになっている。
彼女がリーダーの一人として存在する限り、後輩達を心配する必要はない。
だから、これからもあまり部室に顔を出すつもりはなかった。
周りを見回すと、サッカーをしていた小学生達の姿は消えていて、公園は静かになっている。
風が吹いて、樹々が音を立てた。
トランペットの練習を始めてから一時間半ほど経過していて、来た時よりも寒さが増していた。
隣の智美を見る。肩にかかるくらいの綺麗な黒髪が、風でなびいている。
華と姉妹なだけあって、二人はよく似ていた。智美のほうが、少しきりっとした顔立ちだ。
視線に気づいたのか、智美が首を傾げた。
「何?」
「いや、智美と華ちゃんは、やっぱ姉妹だなって考えてた。二人とも似てるわ」
「急にどうしたの」
「いや、何となく思っただけ」
「ふーん‥‥‥変なの」
ふと、智美は何か思い出したような表情をして、ベンチの背もたれにくっつけていた身体を離して背筋を伸ばし、身体をこちらへ向けた。
「そういえば、洋子ちゃんだっけ。華から凄く困ってるらしいって聞いたんだけど……大丈夫なの?」
「ああ……どうだろう。今のところは……でも、心配かな」
「なんかうちのクラスの男子も告白しに行ったらしいけど」
「聞いた」
洋子は、文化祭の有志の出し物で、バンドに参加した。
あの時に洋子の魅力に気づいた男子生徒が、学年を問わず盛んに言い寄るようになっている。
無理もない。
あの時の洋子は、人の心を引き付けるのに充分すぎるくらい輝いていた。
だからと言って、それは洋子にとって何も良いことはないし、洋子が疲れて元気が無くなっていく様を見ているから、コウキとしても良い気分ではなかった。
「何とかしてあげたいね……」
「うん。洋子ちゃん……学校にいる時は、頻繁に男子に言い寄られてゆっくり出来てないらしい」
昨日、拓也と洋子と三人で集まった時、ため息交じりに言っていた。
拳を、握りしめていた。怒りがこみあげてくる。
洋子を狙う男子生徒達は、自分だけが狙っているわけではないと分かっているはずだ。
となれば、洋子からすれば常に言い寄られて休む暇がないのだから、頻繁に近づくべきではないと、少しでも洋子を想うならすぐに思い至るだろう。
思い至れない時点で、芽はないと気づいてほしいものだ。
「休める時間が欲しいよね、洋子ちゃん」
「だな。どうにかしてやりたいよ」
二人とも腕を組んで唸っていたが、いくら頭をひねっても、良い考えは浮かばない。
そのうちにまた風が吹いて、冷たい空気が身体を打ってきた。
智美が身体を震わせた事に気がついて、トランペットをケースにしまった。
「寒いな。そろそろ帰ろう」
「うん」
智美は立ち上がると、ぐっと伸びをした。その拍子に、セーラー服の裾の下からちらりとカーディガンが見えた。
袖は見えていなかったので、今まで気がつかなかった。校則では禁止されているので、智美も無断着用だ。
「カーディガン、着るようにしたんだ?」
「あ、うんそうそう。前コウキがカーディガン着てたの見て、私も着ることにしたんだ。無意味な校則だった……し…………ああっ!!」
突然、心臓が飛びだすかというほどの大声を智美が上げたので、思わず心臓を抑えていた。
「な、なに!?」
問いかけると、智美は人差し指を振りながら、口をぱくぱくと動かしている。言葉が、出ないのだろう。
「お、落ち着けっ! どうした!?」
「~っ……司書室! ほら、前二人で司書室で話したじゃん! あそこ! 洋子ちゃん、あそこなら落ち着けるんじゃない!?」
言われて、はっとした。
「それだ!!」
全く思いつかなかった。
許可をもらった者しか入れない部屋。あそこなら、誰にも邪魔されず洋子がゆっくりできる。
まさに名案だった。
「智美、ナイス!」
「カーディガンのおかげー!!」
いえーい、と言いながら智美が両手を差し出してきたので、両手を出してハイタッチした。
短く乾いた音が、公園に響いた。
確かに、司書室でカーディガンの話をしていた。まさかそこから解決方法が導き出されるとは、何がきっかけになるか分からないものだ、とコウキは思った。
「いや、ほんと良かった。ありがとな」
「どういたしましてっ」
身体の後ろで手を組んで、ちょっと首を傾けながら智美が笑った。
「お役に立てて良かったよ」
「智美とカーディガンに感謝だ」
「あはは」
笑って、二人で歩き出す。
洋子のために、何かしてあげたかった。何もしてやれない自分が、情けなかった。
司書の教師が許可をくれるかは分からない。それでも、頼んでみる価値はあるだろう。
それで、少しでも洋子が楽になるのなら。
翌日、智美と一緒に、洋子を連れて司書の教師に紹介しに行った。
彼は、喜んで洋子を司書室に入れることを許可してくれた。
文化祭の日、バンドのライヴを見ていて、ファンになったそうだ。
事情も説明したので、いつでも一人でも使って良いと言ってくれて、その厚意に、洋子は涙ぐんでいた。
「わあ……」
三人で司書室へ入ると、部屋を見渡して、洋子が嬉しそうに声を上げた。
「秘密基地みたい」
「ああ、確かに。洋子ちゃんこれからは、疲れたらいつでもここに来な」
「うん、ありがと、コウキくん。中村先輩も」
洋子が深々と頭を下げる。
智美は洋子に近づくと、顔を上げさせて、優しくその頭を撫でた。
「智美で良いよ。いつも華と仲良くしてくれてありがとね。困ったことがあったら私にも頼って。これ、連絡先」
ポケットから手紙の形に折りたたんだメモ用紙を取り出すと、洋子の手に握らせた。
前の時間軸でも、この頃は手紙の形に折って渡すのが流行っていた、とコウキは思った。
洋子は握らされた紙に目を落とし、じっとそれを眺めた。
それから胸の前に持っていくと、大切なものを扱うように、両手でそっと包み持った。
「ありがとうございます、智美先輩」
「辛かったね……慣れない状態で。まだしばらくは大変かもしれないけど、時間が経てば周りの熱も冷めると思うから、頑張ってね」
智美は洋子を抱き寄せると、こどもをあやすように背中をさすりだした。
ささやくような、甘く優しい声。
洋子は、静かに泣いていた。智美の胸元に顔を埋め、身体を震わせている。
自分に好意を示してくれる人を冷たくあしらうような真似は、洋子には出来ないだろう。
だが、過去の経験から、男の子を苦手に思ってもいる。
様々な異性に言い寄られて、不安や恐怖を感じる場面もあったに違いない。
だからこそ、同性の優しさや温もりが必要だったはずだ。
二人を会わせて良かった、とコウキは思った。




