十四ノ五十一 「合宿一日目・夜 二」
「丘先生、お疲れ様でーす、かんぱーい」
缶ビールを手にした卒部生達が、丘と乾杯をする。その隣では、涼子が晴子や都達と飲み交わしていた。成人していない卒部生は、お茶やジュースだ。酒のつまみや菓子が並べられ、皆、思い思いに談笑している。
卒部生は合宿の夜に飲み会をしている、というのは、現役生にも知られていることだった。それが目当てで毎年来る卒部生もいるくらいで、かくいう摩耶も、密かに楽しみにしていたことではあった。
現役生が就寝した後に、こうして密かに集まっていると、自分はもう現役生ではないのだという想いが、どうしても強くなる。
それは、少し、寂しさも感じるものだ。
何もかもが眩しくて、充実していたあの日々は、二度と経験できないことで。時々顔を出して、見守るだけの存在となった自分は、何なのだろう。
また、皆と演奏したい。一つの曲に熱中し、ぶつかり合ってでも最高の音楽を作り上げようと頑張ったあの体験を、もう一度。
けれど、どんなに願ったところで、あのメンバーで演奏することは、もう二度とあり得ない。
大学にも吹奏楽部はあるし、所属はしている。だが、大学吹奏楽と高校吹奏楽は、やはり別物だ。あの時、あの瞬間にだけ存在した輝きは、もうない。
「摩耶、聞いてる~?」
逸乃の声で、摩耶ははっとした。
「ごめん、聞いてなかった」
「もう。酒飲んだのー?」
「なわけないでしょ。で、何の話?」
「理絵に、彼氏できたんだって」
「へー」
適当に相槌を打ってから、さきいかを千切り、口に放り込んだ。歯ごたえのあるイカを無言で咀嚼しているうちに、違和感を感じた。
首を傾げ、逸乃の顔を見る。
「……誰に何が出来たって?」
「だから、理絵に彼氏」
「はっ!?」
理絵の方を見る。ブイサインを掲げて、理絵が笑っている。
「嘘、ほんとに?」
「うん、出来た」
「理絵に?」
「私に」
「ほんとのほんと?」
「しつこいな。ほんとだって」
「だって、理絵、そういうことには興味ないのかと」
「まあ、確かに興味はなかったけど」
「なんで、どういう人? どこで知り合ったの?」
「摩耶、めっちゃぐいぐい聞くじゃん」
「そりゃ、だって」
あの理絵に彼氏などと、驚かない方が無理だろう。高校時代は一切浮ついた噂がなく、ずっとトロンボーンと部活に全てを捧げていた子だ。
「まあ、同じ大学の先輩だよ」
「吹部?」
「そう」
「写真はないの?」
「無いよ、私も彼氏も、撮るの好きじゃないし」
「えぇ~、次までには撮ってきといてよ」
「気が向いたらね」
「どこまで行ったの?」
逸乃が言った。
「そういうこと、聞く?」
「気になるでしょ、ねえ?」
月音と一緒に、頷いた。
「恥ずかしいから秘密」
「何で、良いじゃんかぁ」
「それより、摩耶はどうなの、正孝と」
少しだけ声を落として、理絵が言った。
正孝は、部屋の隅のほうで、奏馬や他の人達と談笑している。
「今も付き合ってるの?」
「あー」
近況報告をしようという約束をしていた時点で、正孝のことも聞かれる覚悟はしていた。
「正孝は、分かんないって言ってたけど」
「話したの、月音?」
「話したっていうか、たまたまその場にいただけ」
「そう」
「で?」
「まあ、付き合ってはない、と思う」
「何それ、あいつと同じこと言うじゃん」
「だって、実際そうなんだもん」
「会ったりはしてるの?」
「してるよ、逸乃」
「じゃあ、付き合ってるじゃん」
「ただ会ってるだけだよ。別に、恋人っぽいことはしないし」
「何それ、意味分かんない」
「私だって、分かんないよ」
去年、全国大会が終わったあの日、最後のミーティングで、正孝は学生指導者を下りた。事前に丘と相談していたことだったらしく、決定事項として、それは部全体に通達された。
当時、恋人だった摩耶には、ひと言の相談もなかった。
共に支え合おうと誓い合った仲だったのに、摩耶は、一人で部を背負うことになった。
あれは摩耶にとって、何よりも許しがたい行為だった。正孝にも、丘にも、信頼を裏切られたと思った。
だから、正孝に別れを告げた。勢いで言ったところもあったが、本気だった。許せないという気持ちのまま、正孝とはいられなかったのだ。
しかし、正孝は、ずっと食い下がってきた。
卒業するその日まで、ずっと。
本当なら、もう、関わるべきではなかったのかもしれない。
だが、拒絶しきれなかった。許せないと思っていても、心の奥底では、まだ正孝のことを好きな気持ちが、残っていたのだと思う。
たまに会い、喫茶店で無言で珈琲を飲んで、解散する。ただ、それだけの関係を続けるようになってしまった。
互いに何も言えぬまま、会う約束を取り付けて、ほんの一時間、会うだけ。
それはやはり、恋人とは、言えないだろう。
「好きなの?」
月音の問いかけに、摩耶は、戸惑った。
自分の心のことなのに、良く分からない。正孝のことを、まだ好きなのだろうか。だから、会う機会を失くさないようにしているのだろうか。
だが、もしそうなら、お互い名古屋の大学に通っているのだから、もっと頻繁に会おうとするはずだし、なにより、会話くらいはするだろう。
「分かんない」
摩耶に言えるのは、それだけだった。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「はーい」
「わはは」
卒部生達の笑い声を背に、摩耶は戸を開けて、廊下へと出た。
静まり返った廊下は、部員達がきちんと寝ていることを示している。去年は、純也や逸乃達が、夜中まで起きて騒いでいたものだ。摩耶と智美と千奈が巡回して、注意をしたのを覚えている。
勿論、今年も起きている部員はいるだろう。だが、廊下に声が漏れてくるほど騒いでいる子はいないようだ。
トイレで用を済ませ、手を洗って廊下に出ると、卒部生の大部屋から、正孝が出てきたところだった。
摩耶が出た事が分かっていたはずなのに、このタイミングで何故出てきたのか。
目を合わせないように俯き、横を抜けて部屋へ入ろうとすると、正孝が声をかけてきた。
「ちょっと、二人で話さないか?」
「……何を?」
冷たい言い方になってしまった、と摩耶は思った。
あの日以来、正孝とは普通に話せないでいる。そんなつもりはなくても、以前のように接することができない。
「何か。談話室、行こうぜ」
そう言って正孝は歩きだしたが、すぐに止まって、振り返った。立ち止まったままの摩耶を、待っている。
足が、動かない。行って良いのか。行かない方が、良いのか。
迷っていると、急に戸が開いて、月音が顔を覗かせた。
「何してんの、摩耶」
言ってから、月音は正孝に気づいたようだった。
「あー……ごめん、邪魔した」
「そういうのじゃない」
「はいはい。ちゃんと話しなよ」
摩耶の言葉も聞かず、月音は、戸を閉めてしまった。戸の向こうから、卒部生達の笑い声が、また聞こえてきた。
正孝は、まだ待っている。
無視して部屋に入ったとしても、きっと月音に追い出されるだろう。あの子は、おせっかいを焼く子だ。
息を吐き、髪をかきあげて、摩耶は歩きだした。
「少しだけだから」
「ああ」
階段を下りて談話室に入ると、当然だが、中には誰も居なかった。入り口だけは自販機の明かりで明るいが、奥は見えないくらい真っ暗だ。
中央辺りの適当な椅子を選んで、正孝が座った。摩耶も、向かいに座る。
きちんと交際していた頃は、隣に座ることが当たり前だった。二人で肩を並べて座り、手を繋ぎながら話していた。
だが、今では決して隣には座らないし、手を繋ぐこともない。歩いている時ですら、二人の距離は離れてしまっている。
それを寂しいとも思わなくなっているのは、やはり、正孝の事を好きではなくなってしまったからなのだろうか。
二人の間には、沈黙が流れている。
それも、いつものことだ。会っていても話すことなく、時間だけが過ぎる。互いに、言葉を出せないまま、意味もなく。
学生の恋愛など、所詮は遊びだ。中学生の時にも付き合った男子はいたが、大きな進展もないまま、クラスメイトにからかわれたりするのが嫌になって、摩耶から別れを切り出した。
それであっさりと終わってしまえるほど、軽薄な、見せかけの恋でしかなかった。
高校生になり、正孝と付き合うようになってからも、そんな風に簡単に終わるだろうと思っていた。
だが、正孝とは、不思議と気が合った。小さな喧嘩をすることはあっても、いつも自然体でいられる相手だった。周りから優等生に見られ、その求められる姿をつい演じてしまう摩耶が、素の自分を見せられた。
中学生の時とは違って、正孝とは、本気になれた。大学生になっても社会人になっても一緒にいたいし、いるだろう、と思えた。
正孝とは、見せかけではなく、本気の恋だと思っていた。
それなのに、今はこうなっている。
「摩耶」
「何?」
「俺と話すのは、もう……嫌か?」
「……別に」
「だけど、いつも会っても、話さないだろ」
「それは、そっちもでしょ」
冷たい態度を取りたいわけではないのに、何故こうなるのだろう。
「俺は……摩耶と、前みたいな関係に戻りたいんだ」
「今更、何。ずっと何も言わなかったのに。先輩達に、何か言われたの?」
「そんなんじゃない」
「じゃあ何よ」
「俺が摩耶を傷つけたから、こうなったのは分かってる。悪いのは全部俺だ。だから、摩耶に許してもらえるまで、待つつもりだった。だけど、やっぱり俺……」
「何」
「摩耶のことが好きだから、仲直り、したいんだ」
正孝の顔を見つめると、薄暗い部屋の中でも、ぼんやりと輪郭や部位がはっきりしてくる。
あの日以来、正孝がこの話をしてくるのは、初めてだった。
「私は、一度裏切られたんだよ」
摩耶は、呟いた。
「どうやって、また正孝を信用すれば良いの?」
正孝が、顔を歪める。
「私は、私を大切にしてくれる人を好きでいたい。二人のことは二人で決められる人を、好きでいたい。正孝は、そういう人なの? 私を蔑ろにしない人なの? それを、どうやって信じれば良いの?」
沈黙が続いて、摩耶は、息を吐き出した。
答えに困る問いを投げていることは、分かっている。未来は、誰にも分からないことだ。絶対を誓われたとしても、それは、ただの口約束でしかない。愛を誓い合った夫婦が、平気で離婚したりする世の中に、人の約束など、大した意味を持たないだろう。
正孝は、黙っている。話は、終わりだ、と摩耶は思った。
部屋に戻ろうと席を立ち、正孝の横を抜ける。
「待ってくれ」
左手を、掴まれた。がた、と音がして、正孝の座っていた椅子が、ずれる。次の瞬間には、左手を軽く引っ張られ、振り向かされていた。
「俺の頭じゃ、摩耶を納得させられるような言葉を、出せない。それに、口では何とでも言える。どんな綺麗事を言ったって、そんなの何の証明にもならないし、摩耶は、安心できないと思う」
「じゃあ、信じようがないじゃん」
「でも俺は、本気で摩耶が好きなんだ。間違ってばかりの駄目な男だけど、摩耶のことを、心から大切にしたいと思ってる。すぐに信用してって言っても無理だと思うし、摩耶の気持ちも、薄れてると思う。だけど……だけど、ほんの少しでも俺に対する気持ちが残ってるなら、まだ、一緒に居て欲しい。二度と摩耶を裏切らないって、行動で示していくから」
左手を、握りしめられる。その手を、摩耶は静かに見つめていた。
「好きだ、摩耶。俺には摩耶しかいない。頼む、もう一度、俺とやり直してくれ」
「……どうして、今日、言ったの?」
「え?」
「先週も会った。先月も会った。でも、何も話さなかった。なんで今日だったの?」
「それは」
「先輩達に言われたから?」
飲み会の間、正孝は奏馬をはじめとした男の先輩達と、話をしていた。
どうせ、このことについて相談をしていたのだ。自分では勇気が出せないから、奏馬達に励ましてもらって、それで、今言ってきたのだろう。
「違う」
「じゃあ、なんで?」
正孝は、少し目線を動かした後、何かを決めたような表情で、真っすぐに摩耶の目を見てきた。
「俺といる時、摩耶は、いつも悲しそうな顔をしてた。でも、今日一日、理絵達と話してる摩耶は、ずっと笑ってた。笑顔を見るのは、久しぶりだったんだ。それが、凄く、可愛かった。やっぱり、笑ってる摩耶が、一番好きだ。
身勝手なのは分かってるけど、でも、摩耶の笑顔を、もっと見たくなった。許してもらえるまで待つつもりだったけど、摩耶と、前みたいな関係に戻りたいって、強く思った」
言われたことを理解するのに、時間がかかった。少ししてから、自分の顔が、少し熱くなっていることに、気がついた。
正孝の顔を見ていられなくて、摩耶は、視線を逸らした。
「……馬鹿じゃないの?」
「真面目に言ってるんだ」
摩耶は、正孝の手を解き、歩きだした。
「摩耶!」
談話室を出るところで、摩耶は、一度振り向いた。
「少し、考えさせて」
それだけ言って、階段を、駆け上がっていった。




