十四ノ四十九 「合宿一日目 三」
講義堂の中は、冷房が効いていて快適だ。しかし、空気そのものは、肌を刺すような鋭さに満ちている。
無駄話をする部員は一人もおらず、全員が、丘の一挙手一投足に集中し、いつでも楽器を吹ける態勢を整えている。
昼食の後から始まった合奏は、すでに三時間経過していた。途中、数分の小休憩が二度挟まれたが、それ以外は、ずっと自由曲の合奏である。
和声の音程を正確に確認したり、繊細な音量バランスの調整をしたりといったことが、徹底して行われている。
そうした細かな調整をする時間は、演奏する奏者以外は待機していなければならないから、時間の浪費とも言えるかもしれない。
だが、これが、丘が全国にたどり着くために導き出した音楽作りなのだ。
「Fの音のグループ、もう少し出して」
「はい」
和声が奏でられる。丘が頷き、指揮棒を振る。次の音の和声が奏でられ、また、丘が頷く。
一音ずつ、濁りの無い美しいハーモニーであるかを確認していく。
「では、初めの音から合図で一音ずつ」
「はい」
丘が指揮棒を振ると、棒の動きに合わせて、音が動いていく。
ずれたな。
コウキが思った瞬間、丘が指揮を止めた。
「今、ずれましたね。分かりましたか」
吹いていた部員達が、頷く。丘もちょっと頷いただけで、また初めの音から始めた。
誰か一人でも、一瞬でも気を抜けば、初めからやり直しになる。
この緊張感が、三時間続いているのだ。慣れていない人間なら、苦痛だろう。
コウキのように待機しているだけの部員も、気を抜くことはできない。集中力を切らせば、自分の番が来た時、とんでもない演奏になるからだ。
演奏している部員と同じ気持ちで、演奏に集中し続ける。
それが、全国大会へ行くために必要なことである。
それから三十分は、徹底したバランス調整が続き、やっと、全員での演奏が再開となった。
丘が椅子を引いて立ち上がり、全員を見回す。
クライマックスのシーンだ。呼吸を揃えて一体となり、まるで歌うように、解放感に満ちたフレーズを奏でる。
コウキはトランペットを構え、息を吹き込んだ。
長めの休憩になって、コウキは講義堂の外へ出た。陽が少し西に傾いているせいで、窓から差し込んでくる太陽光が暑苦しい。
日差しの当たらない場所まで移動してから、座りっぱなしで凝り固まった身体をほぐすように、全身を動かした。
休憩の後は、自由曲の通しをしてから、課題曲だ。夕食まで、ひたすら合奏である。どちらの曲も、まだまだ詰めるべきところが山積みであり、交互に進めて行かなければならない。
ただ、静かで空調が効き、響きもある程度感じることのできる部屋での練習は、やはり違う。圧倒的に、音楽作りの進み具合が良いのだ。
部員の集中力が高まることも、関係しているだろう。
毎年、この合宿の三日間で、花田高の演奏は大きく進歩する。この合宿こそが、花田高が強豪校として在り続けてきた理由の一つなのだ。
特に今年は、問題続きで練習に遅れが生じたこともあり、部員全員が、この合宿に強い想いをかけている。
例年以上に集中し、この合宿で遅れを取り戻す。そして、県大会へ臨む。
「コウキ君」
「洋子ちゃん」
講義堂から出てきた洋子が、傍に近寄ってきた。
「合奏中、あんまり水飲んでなかったよね。私のだけど、飲む?」
「ああ、ありがとう」
気を利かせて持ってきてくれたらしい。水筒を受け取って、一口飲んだ。冷たい水が喉を通って、身体の中を冷やしていく。
「ごちそうさま」
水筒を返すと、洋子がにこりと笑った。
「どう、合宿は」
「楽しいよ」
「洋子ちゃん、ずっと立ってて大変じゃないか? 休みのところは座っても良いんだよ」
「うん、でも、皆のことを見てるのも、勉強になるし」
「熱心だな」
「もっともっと、音楽のこと、理解したいんだ」
「良い心がけだ」
昨日、洋子と帰った。プールコンサートの日以来、あまり話さなくなっていた洋子の方から、誘われたのだ。
智美は丘先生の家に招待されたと言って先に帰ったし、華はかなや真紀と帰るとかで、必然的に二人になった。
プールコンサートの日に、異変に気づいていたコウキを拒絶したことを謝りたかった、と洋子は言った。
コウキは笑って、気にしていない、と答えた。
それで、終わりだった。洋子とは、それだけで充分なのだ。
洋子が落ち込んでいた理由は陰口のことだったし、それは、洋子自身が乗り越えた。
コウキが手を貸さずとも、一人で解決できるだけの成長をしている。洋子は、もう子どもではない。
仲直りをすれば、今までの二人に元通りだ。
「コウキ君、今日の晩御飯は、またリーダーで集まって食べる?」
「いや、夜は別に決まってないよ」
「だったら、一緒に食べたいな」
「ああ、良いよ、そうしようか」
「ほんと、約束だよ!」
「うん」
「やったぁ」
洋子は顔を輝かせ、小さく跳ねた。
「お風呂の後は、コウキ君は談話室に行く?」
「うん。リーダー会議があるからね」
「長くなるかな?」
「いや、合宿でもいつも通り、短くやるつもり」
「じゃあ、その後は、お話する時間ある?」
「あるよ、話そうか」
「うん!」
嬉しそうにしている洋子を見ると、こちらも嬉しくなる。頭を撫でてやると、洋子は猫のように目を閉じて、甘えた表情をした。今にも、ゴロゴロと喉を鳴らしそうな様子だ。
「あ、コウキ先輩が洋子ちゃん甘やかしてるー」
講義堂から出てきた千奈と心菜が、こちらに近づいてきた。
「コウキ先輩、私にもそれくらい甘くしてくれても良いんですよ?」
心菜が言った。
「心菜ちゃんに? 冗談だろ。一番厳しくしなきゃいけない相手だぜ」
「いやいや、私にだけ厳しすぎです」
「立派な学生指導者になってもらわなきゃだからな」
「先輩、合宿中にも本を読めって渡してきたんだよ。あり得なくない? 洋子ちゃんからも言ってよ」
話を振られて、困ったように洋子が笑った。
「たった一冊だろ。俺は自分用に二冊持ってきたけどな?」
「うわあ」
心菜の顔が、あり得ないものでも見ているかのように、引きつっている。
失礼な奴だな、とコウキは思った。
合宿だからといって、休む気はない。少しでも勉強を続けるのは、当然だ。心菜には一冊で勘弁してやっているのだから、むしろ感謝してほしいくらいである。
学生指導者の仕事に関しては、心菜を甘やかすつもりは一切ない。むしろ、今でもまだ抑えているくらいだ。
心菜には、来年の花田高を引っ張ってもらうためにも、もっともっと成長してもらわねばならない。
「学生指導者は大変だねぇ」
「他人事みたいに言うな、千奈」
「怒らないでよ、おーこわ。行こ行こ、洋子ちゃん」
「は、はい」
千奈が洋子の背中を押して、トイレの方へ歩き出した。心菜も二人を追いかけて、去っていく。
三人を見送ってから、コウキは講義堂に戻ろうと踵を返した。
「ああ、三木」
ちょうど、講義堂から丘が出てきたところだった。手招きされて、近寄る。そのまま丘は、卒部生達が座っているロビーのテーブルの方に歩いて行った。
自由曲のラストにある、クラッシュシンバルの一音。この音の後に、他の楽器達がB♭の音を三つ奏でて、曲が終わる。
この最後の一音に、だいごはここひと月近く、苦しんでいた。
クラッシュシンバルを任されている者として、完璧で、誰もがはっとするような美しい音を出したいのに、いつも、平凡な音で終わってしまう。
丘に指摘されたことはないが、だいご自身は、全く納得できていない。
合宿一日目の合奏が終わって、他の部員は、夕食が出る食堂に向かう準備をしている。
だいごは、そんなことはお構いなしに、クラッシュシンバルの前に座りこんで、腕を組んでいた。
何が、いけないのか。
シンバルの種類を変えたり、叩き方を変えたり、あらゆることを試している。それでも、これだという音は作れない。
何が足りない。
だいごの、技術力か。それとも、楽器の性能か。
一体、何が。
「しーんじ」
「んだよ」
「お疲れ様」
いつの間にか、講義堂の中には部員がほぼいなくなっていた。声のした方を見ると、トロンボーンパートの席で、真二と心菜が並んで座っている。
部屋に残っているのは、あの二人だけか。
二人から視線を外し、だいごは再び思索に戻った。
県大会までには、納得の行く音にしたい。そのためには、だいご自身が、何かを掴まなければならない。
それは、何なのか。
他人の力は借りたくない。だいご自身で、最高の音を見つけたいのだ。
誰が叩いても同じだと思われているクラッシュシンバルで、だいごにしか出せない音を作る。それこそが、だいごの楽しみでもある。
「お疲れ」
「どうだった、今日の合奏?」
「めっちゃ良かった。やっぱ、集中できる環境だと音が変わるな」
「へぇ~、やるじゃん」
「でも、本番は明日だな。朝からガッツリだし」
「そうだねえ。オーディションも、あるしね」
「やれんのか?」
「無理だよ。私は、ただ参加するだけ」
「最初から諦めてんのか」
「諦めてるっていうか、そもそもソロを吹く気はなかったし、三人のうちの誰かになるよ」
「チッ。どうせなら、真面目に挑めよな」
「真面目にやってて、それでも、他の三人には勝てないって言ってんの。私だって、勝てそうなら勝ちたいよ」
「そうかよ」
「あーあ。中学から……もっと頑張ってればよかったなぁ」
耳に入ってきた言葉が気になって、だいごは顔を上げた。楽器や譜面台の隙間から見える心菜の顔は、暗く沈んでいる。
「どうして、手を抜いちゃったのかな」
だいごの存在に気づいていないのか、心菜の声は、ここまではっきりと聞こえてくる声量だ。何となく動きづらくなって、だいごは、その場で静かにしていた。
「中学からずっと頑張ってればさ、もしかしたら莉子や音葉ちゃん達に負けてなかったかも」
「まあ、心菜なら、そうかもな」
「努力の差って、本気になってから気づいても、遅いんだよね」
だいごは、心菜と話したことはほとんどなかった。真二と同じ花田中央中出身だとか、千奈の親友だということなら知っているが、その程度だ。
話しぶりから察するに、過去に何かあったのだろう。
そういえば、とだいごは思った。
去年のコンクールのオーディションでも、トランペットパートで騒ぎがあった。確か、心菜と三年生の万里の間で何かがあったのだと、千奈と沙也が話していた気がする。
それが何だったか思いだそうとして、だいごは首をひねった。
「別に、遅くなんてないだろ。お前は沖田や一年達と比べても、センスがないわけじゃない。今努力してんだから、来年にはファーストやトップにもなれるかもしれない」
「そう、かな」
「才能があるから、俺らの代の学生指導者に選ばれたんだぜ。音楽面のトップだって自覚、持てよ」
「……うん」
「あんま、暗くなんなよ。お前らしくない」
「真二にくらい、愚痴っても良いじゃん」
「愚痴る暇があるなら、練習しろ」
「ちぇっ、厳しいなぁ」
「飯、行くぞ」
真二が、トロンボーンをスタンドに立てて、立ち上がった。
「ねえ、真二?」
「ん」
「元気出したいからさ、頭撫でてよ」
「は、はあ?」
「ん」
心菜が、椅子に座ったまま、頭を差し出している。
おいおい、とだいごは思った。
先ほどまで深刻そうな話をしていたくせに、急に、なんだあれは。
「真二が撫でてくれたら、暗さも吹き飛ぶよ?」
「お前なぁ」
「良いじゃん、誰もいないんだから。私だって、誰かに甘やかしてほしいの」
「何言ってんだ」
やはり、だいごには気づいていないのか。
「何、恥ずかしいの?」
「はあ?!」
「もしかして真二って、女の子の頭にも触れないような意気地なし?」
「馬鹿にしやがって」
「じゃあ、撫でてくれるでしょ?」
見てられないな。
だいごは二人から目を逸らし、ポケットの中の携帯を取り出した。
しばらくしてから、満足そうな心菜の声が聞こえてきた。
「……ありがと、真二」
「今回だけだぞ」
その後も、いちゃいちゃと会話をしながら、二人は講義堂を出て行った。
一人になった空間で、だいごは、盛大なため息をついた。
「くっせーな」
真二は恋愛に興味のなさそうな奴だと思っていたが、実際はどうだ。心菜にデレデレして、見苦しい。観たくもない恋愛ドラマを、無理やり見せられた気分だ。
「ほんと、くっさいよね」
「どぅおわぁっ!?」
急に真横から声がして、だいごは盛大に飛び跳ねた。
「に、二岡、お前なんで!」
フルートの同期のメイが、隣でしゃがみこんでいた。
「どこにいたんだよ!」
「ん」
メイが、指さした方を見る。打楽器セクションの後方の壁際に、メイのフルートケースが置いてある。
「フルートの手入れして片付けてたら、あの二人がいちゃつき出したの」
後ろにいたから、だいごも気がつかなかったのか。
全く、心臓に悪すぎる、とだいごは思った。
「はーあ。部内恋愛って、ほんとに最悪」
「ああ?」
「誰が付き合ったとか、別れたとか……それで部の雰囲気が悪くなるんだから、やめてほしいよ。だいご君も、そう思うでしょ?」
癖のある髪を指でいじりながら、メイが言う。くせ毛がコンプレックスなのか、メイはいつもそうして髪を気にしている。別に、変な髪型でもないのに。
「興味ねぇ。誰と誰がどうなろうと、俺のやることは変わらねぇし」
そう答えると、メイが満足そうに笑みを浮かべた。
「だいご君はそうでなきゃ」
「どういう意味だよ」
「シンバルに夢中でいてほしいってこと」
「俺が何に夢中かとか、お前に関係ないだろ」
「それでも」
言いながら、メイが立ち上がった。
「食堂、行こっか。もう配膳始まってるかも」
「……ああ」
携帯を仕舞って、だいごも立ち上がった。
「たまには一緒に食べようよ、だいご君」
「何で?」
「何でって、一緒に食堂行くんだから、そのまま同じテーブルで食べよってだけ。変?」
「まあ、良いけどよ」
「ふふ」
「何笑ってんだよ」
「別に」
「変な奴」
にやにやしているメイを横目に、だいごは扉の方へ向かった。




