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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校三年生・合宿編
396/444

十四ノ四十九 「合宿一日目 三」

 講義堂の中は、冷房が効いていて快適だ。しかし、空気そのものは、肌を刺すような鋭さに満ちている。

 無駄話をする部員は一人もおらず、全員が、丘の一挙手一投足に集中し、いつでも楽器を吹ける態勢を整えている。


 昼食の後から始まった合奏は、すでに三時間経過していた。途中、数分の小休憩が二度挟まれたが、それ以外は、ずっと自由曲の合奏である。

 和声の音程を正確に確認したり、繊細な音量バランスの調整をしたりといったことが、徹底して行われている。


 そうした細かな調整をする時間は、演奏する奏者以外は待機していなければならないから、時間の浪費とも言えるかもしれない。

 だが、これが、丘が全国にたどり着くために導き出した音楽作りなのだ。


「Fの音のグループ、もう少し出して」

「はい」


 和声が奏でられる。丘が頷き、指揮棒を振る。次の音の和声が奏でられ、また、丘が頷く。

 一音ずつ、濁りの無い美しいハーモニーであるかを確認していく。


「では、初めの音から合図で一音ずつ」

「はい」

 

 丘が指揮棒を振ると、棒の動きに合わせて、音が動いていく。

 ずれたな。

 コウキが思った瞬間、丘が指揮を止めた。


「今、ずれましたね。分かりましたか」


 吹いていた部員達が、頷く。丘もちょっと頷いただけで、また初めの音から始めた。

 誰か一人でも、一瞬でも気を抜けば、初めからやり直しになる。

 この緊張感が、三時間続いているのだ。慣れていない人間なら、苦痛だろう。


 コウキのように待機しているだけの部員も、気を抜くことはできない。集中力を切らせば、自分の番が来た時、とんでもない演奏になるからだ。

 演奏している部員と同じ気持ちで、演奏に集中し続ける。

 それが、全国大会へ行くために必要なことである。


 それから三十分は、徹底したバランス調整が続き、やっと、全員での演奏が再開となった。

 丘が椅子を引いて立ち上がり、全員を見回す。


 クライマックスのシーンだ。呼吸を揃えて一体となり、まるで歌うように、解放感に満ちたフレーズを奏でる。

 コウキはトランペットを構え、息を吹き込んだ。











 長めの休憩になって、コウキは講義堂の外へ出た。陽が少し西に傾いているせいで、窓から差し込んでくる太陽光が暑苦しい。

 日差しの当たらない場所まで移動してから、座りっぱなしで凝り固まった身体をほぐすように、全身を動かした。


 休憩の後は、自由曲の通しをしてから、課題曲だ。夕食まで、ひたすら合奏である。どちらの曲も、まだまだ詰めるべきところが山積みであり、交互に進めて行かなければならない。

 ただ、静かで空調が効き、響きもある程度感じることのできる部屋での練習は、やはり違う。圧倒的に、音楽作りの進み具合が良いのだ。

 部員の集中力が高まることも、関係しているだろう。


 毎年、この合宿の三日間で、花田高の演奏は大きく進歩する。この合宿こそが、花田高が強豪校として在り続けてきた理由の一つなのだ。

 特に今年は、問題続きで練習に遅れが生じたこともあり、部員全員が、この合宿に強い想いをかけている。

 例年以上に集中し、この合宿で遅れを取り戻す。そして、県大会へ臨む。


「コウキ君」

「洋子ちゃん」

 

 講義堂から出てきた洋子が、傍に近寄ってきた。


「合奏中、あんまり水飲んでなかったよね。私のだけど、飲む?」

「ああ、ありがとう」


 気を利かせて持ってきてくれたらしい。水筒を受け取って、一口飲んだ。冷たい水が喉を通って、身体の中を冷やしていく。

 

「ごちそうさま」


 水筒を返すと、洋子がにこりと笑った。


「どう、合宿は」

「楽しいよ」

「洋子ちゃん、ずっと立ってて大変じゃないか? 休みのところは座っても良いんだよ」

「うん、でも、皆のことを見てるのも、勉強になるし」

「熱心だな」

「もっともっと、音楽のこと、理解したいんだ」

「良い心がけだ」


 昨日、洋子と帰った。プールコンサートの日以来、あまり話さなくなっていた洋子の方から、誘われたのだ。

 智美は丘先生の家に招待されたと言って先に帰ったし、華はかなや真紀と帰るとかで、必然的に二人になった。


 プールコンサートの日に、異変に気づいていたコウキを拒絶したことを謝りたかった、と洋子は言った。

 コウキは笑って、気にしていない、と答えた。

 それで、終わりだった。洋子とは、それだけで充分なのだ。


 洋子が落ち込んでいた理由は陰口のことだったし、それは、洋子自身が乗り越えた。

 コウキが手を貸さずとも、一人で解決できるだけの成長をしている。洋子は、もう子どもではない。

 仲直りをすれば、今までの二人に元通りだ。


「コウキ君、今日の晩御飯は、またリーダーで集まって食べる?」

「いや、夜は別に決まってないよ」

「だったら、一緒に食べたいな」

「ああ、良いよ、そうしようか」

「ほんと、約束だよ!」

「うん」

「やったぁ」


 洋子は顔を輝かせ、小さく跳ねた。


「お風呂の後は、コウキ君は談話室に行く?」

「うん。リーダー会議があるからね」

「長くなるかな?」

「いや、合宿でもいつも通り、短くやるつもり」

「じゃあ、その後は、お話する時間ある?」

「あるよ、話そうか」

「うん!」


 嬉しそうにしている洋子を見ると、こちらも嬉しくなる。頭を撫でてやると、洋子は猫のように目を閉じて、甘えた表情をした。今にも、ゴロゴロと喉を鳴らしそうな様子だ。


「あ、コウキ先輩が洋子ちゃん甘やかしてるー」


 講義堂から出てきた千奈と心菜が、こちらに近づいてきた。


「コウキ先輩、私にもそれくらい甘くしてくれても良いんですよ?」


 心菜が言った。


「心菜ちゃんに? 冗談だろ。一番厳しくしなきゃいけない相手だぜ」

「いやいや、私にだけ厳しすぎです」

「立派な学生指導者になってもらわなきゃだからな」

「先輩、合宿中にも本を読めって渡してきたんだよ。あり得なくない? 洋子ちゃんからも言ってよ」


 話を振られて、困ったように洋子が笑った。


「たった一冊だろ。俺は自分用に二冊持ってきたけどな?」

「うわあ」


 心菜の顔が、あり得ないものでも見ているかのように、引きつっている。

 失礼な奴だな、とコウキは思った。

 合宿だからといって、休む気はない。少しでも勉強を続けるのは、当然だ。心菜には一冊で勘弁してやっているのだから、むしろ感謝してほしいくらいである。


 学生指導者の仕事に関しては、心菜を甘やかすつもりは一切ない。むしろ、今でもまだ抑えているくらいだ。

 心菜には、来年の花田高を引っ張ってもらうためにも、もっともっと成長してもらわねばならない。


「学生指導者は大変だねぇ」

「他人事みたいに言うな、千奈」

「怒らないでよ、おーこわ。行こ行こ、洋子ちゃん」

「は、はい」


 千奈が洋子の背中を押して、トイレの方へ歩き出した。心菜も二人を追いかけて、去っていく。

 三人を見送ってから、コウキは講義堂に戻ろうと踵を返した。


「ああ、三木」


 ちょうど、講義堂から丘が出てきたところだった。手招きされて、近寄る。そのまま丘は、卒部生達が座っているロビーのテーブルの方に歩いて行った。

















 自由曲のラストにある、クラッシュシンバルの一音。この音の後に、他の楽器達がB♭の音を三つ奏でて、曲が終わる。

 この最後の一音に、だいごはここひと月近く、苦しんでいた。

 

 クラッシュシンバルを任されている者として、完璧で、誰もがはっとするような美しい音を出したいのに、いつも、平凡な音で終わってしまう。

 丘に指摘されたことはないが、だいご自身は、全く納得できていない。


 合宿一日目の合奏が終わって、他の部員は、夕食が出る食堂に向かう準備をしている。

 だいごは、そんなことはお構いなしに、クラッシュシンバルの前に座りこんで、腕を組んでいた。


 何が、いけないのか。

 シンバルの種類を変えたり、叩き方を変えたり、あらゆることを試している。それでも、これだという音は作れない。

 何が足りない。

 だいごの、技術力か。それとも、楽器の性能か。

 一体、何が。


「しーんじ」

「んだよ」

「お疲れ様」


 いつの間にか、講義堂の中には部員がほぼいなくなっていた。声のした方を見ると、トロンボーンパートの席で、真二と心菜が並んで座っている。

 部屋に残っているのは、あの二人だけか。

 

 二人から視線を外し、だいごは再び思索に戻った。

 県大会までには、納得の行く音にしたい。そのためには、だいご自身が、何かを掴まなければならない。

 それは、何なのか。


 他人の力は借りたくない。だいご自身で、最高の音を見つけたいのだ。

 誰が叩いても同じだと思われているクラッシュシンバルで、だいごにしか出せない音を作る。それこそが、だいごの楽しみでもある。

 

「お疲れ」

「どうだった、今日の合奏?」

「めっちゃ良かった。やっぱ、集中できる環境だと音が変わるな」

「へぇ~、やるじゃん」

「でも、本番は明日だな。朝からガッツリだし」

「そうだねえ。オーディションも、あるしね」

「やれんのか?」

「無理だよ。私は、ただ参加するだけ」

「最初から諦めてんのか」

「諦めてるっていうか、そもそもソロを吹く気はなかったし、三人のうちの誰かになるよ」

「チッ。どうせなら、真面目に挑めよな」

「真面目にやってて、それでも、他の三人には勝てないって言ってんの。私だって、勝てそうなら勝ちたいよ」

「そうかよ」

「あーあ。中学から……もっと頑張ってればよかったなぁ」

 

 耳に入ってきた言葉が気になって、だいごは顔を上げた。楽器や譜面台の隙間から見える心菜の顔は、暗く沈んでいる。


「どうして、手を抜いちゃったのかな」


 だいごの存在に気づいていないのか、心菜の声は、ここまではっきりと聞こえてくる声量だ。何となく動きづらくなって、だいごは、その場で静かにしていた。


「中学からずっと頑張ってればさ、もしかしたら莉子や音葉ちゃん達に負けてなかったかも」

「まあ、心菜なら、そうかもな」

「努力の差って、本気になってから気づいても、遅いんだよね」


 だいごは、心菜と話したことはほとんどなかった。真二と同じ花田中央中出身だとか、千奈の親友だということなら知っているが、その程度だ。

 話しぶりから察するに、過去に何かあったのだろう。


 そういえば、とだいごは思った。

 去年のコンクールのオーディションでも、トランペットパートで騒ぎがあった。確か、心菜と三年生の万里の間で何かがあったのだと、千奈と沙也が話していた気がする。

 それが何だったか思いだそうとして、だいごは首をひねった。


「別に、遅くなんてないだろ。お前は沖田や一年達と比べても、センスがないわけじゃない。今努力してんだから、来年にはファーストやトップにもなれるかもしれない」

「そう、かな」

「才能があるから、俺らの代の学生指導者に選ばれたんだぜ。音楽面のトップだって自覚、持てよ」

「……うん」

「あんま、暗くなんなよ。お前らしくない」

「真二にくらい、愚痴っても良いじゃん」

「愚痴る暇があるなら、練習しろ」

「ちぇっ、厳しいなぁ」

「飯、行くぞ」


 真二が、トロンボーンをスタンドに立てて、立ち上がった。


「ねえ、真二?」

「ん」

「元気出したいからさ、頭撫でてよ」

「は、はあ?」

「ん」


 心菜が、椅子に座ったまま、頭を差し出している。

 おいおい、とだいごは思った。

 先ほどまで深刻そうな話をしていたくせに、急に、なんだあれは。


「真二が撫でてくれたら、暗さも吹き飛ぶよ?」

「お前なぁ」

「良いじゃん、誰もいないんだから。私だって、誰かに甘やかしてほしいの」

「何言ってんだ」


 やはり、だいごには気づいていないのか。


「何、恥ずかしいの?」

「はあ?!」

「もしかして真二って、女の子の頭にも触れないような意気地なし?」

「馬鹿にしやがって」

「じゃあ、撫でてくれるでしょ?」


 見てられないな。

 だいごは二人から目を逸らし、ポケットの中の携帯を取り出した。

 しばらくしてから、満足そうな心菜の声が聞こえてきた。


「……ありがと、真二」

「今回だけだぞ」


 その後も、いちゃいちゃと会話をしながら、二人は講義堂を出て行った。

 一人になった空間で、だいごは、盛大なため息をついた。


「くっせーな」


 真二は恋愛に興味のなさそうな奴だと思っていたが、実際はどうだ。心菜にデレデレして、見苦しい。観たくもない恋愛ドラマを、無理やり見せられた気分だ。

 

「ほんと、くっさいよね」

「どぅおわぁっ!?」


 急に真横から声がして、だいごは盛大に飛び跳ねた。


「に、二岡、お前なんで!」


 フルートの同期のメイが、隣でしゃがみこんでいた。


「どこにいたんだよ!」

「ん」


 メイが、指さした方を見る。打楽器セクションの後方の壁際に、メイのフルートケースが置いてある。


「フルートの手入れして片付けてたら、あの二人がいちゃつき出したの」


 後ろにいたから、だいごも気がつかなかったのか。

 全く、心臓に悪すぎる、とだいごは思った。


「はーあ。部内恋愛って、ほんとに最悪」

「ああ?」

「誰が付き合ったとか、別れたとか……それで部の雰囲気が悪くなるんだから、やめてほしいよ。だいご君も、そう思うでしょ?」


 癖のある髪を指でいじりながら、メイが言う。くせ毛がコンプレックスなのか、メイはいつもそうして髪を気にしている。別に、変な髪型でもないのに。


「興味ねぇ。誰と誰がどうなろうと、俺のやることは変わらねぇし」


 そう答えると、メイが満足そうに笑みを浮かべた。


「だいご君はそうでなきゃ」

「どういう意味だよ」

「シンバルに夢中でいてほしいってこと」

「俺が何に夢中かとか、お前に関係ないだろ」

「それでも」


 言いながら、メイが立ち上がった。


「食堂、行こっか。もう配膳始まってるかも」

「……ああ」


 携帯を仕舞って、だいごも立ち上がった。


「たまには一緒に食べようよ、だいご君」

「何で?」

「何でって、一緒に食堂行くんだから、そのまま同じテーブルで食べよってだけ。変?」

「まあ、良いけどよ」

「ふふ」

「何笑ってんだよ」

「別に」

「変な奴」


 にやにやしているメイを横目に、だいごは扉の方へ向かった。

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