十四ノ四十八 「合宿一日目 ニ」
丘の指揮棒が振られ、トランペットを主体とした冒頭部が奏でられた。洋子のスネアが正確なリズムを刻みながら、曲の流れを支配している。
ベース楽器の拍打ちは単調にはならず、メロディのフレーズ感に合わせた躍動感を伴って奏でられている。
繰り返される主題は、華やかで重たさを感じさせないマルカート。裏拍を刻むセクションもリズミカルに、軽さを際立たせる。しかし、決して薄っぺらで響きの無い音にはさせない。
課題曲『ブライアンの休日』は、マーチなのだ。それも、活動的でエネルギッシュな休日を描いた作品であり、休日らしいウキウキとした高揚感も表現する必要がある。
音には艶を。響きには豊かさを。
丘の指揮が、細かな指示を伝えてくる。
主題に応える木管群、もっと滑らかに。トランペット、はきはきと。ベース、がなりすぎないように。シロフォン、そこは強調して。
部員は丘の指示を的確に読み取り、音に反映させていく。
幾度となく繰り返された練習。その中で、丘の求める音は、染みついている。
静かなトリオ部に差し掛かると、それまでの賑やかさは消え、木管を主体とした静かでゆったりとした曲想となる。
小さくではなく、静かに。しかし、勢いは殺さない。
トリオのメロディは二回繰り返されるが、二度目はトランペットが後うちを担当する。そして、金管中低音セクションが、メロディの裏でオブリガードを控えめに奏でる。クライマックスに駆け抜ける予感をさせる勇壮さを、金管楽器が小さく演出するのだ。
そして、トリオが明ける。トリオで奏でられたメロディが、三度。しかし、今度は木管主体ではなく、トランペット主体。この曲はトランペットで始まり、トランペットが締める。そう思わせるほど、トランペットが目立つ曲でもある。
だが、トランペットだけが聞こえれば良いわけではない。むしろ、そんな演奏は品がなくなってしまう。全ての楽器が調和し、それぞれの役割を表現しきる。それが、最重要だ。
トランペットの奏でるメロディの裏で、中低音セクションが粒の細かなオブリガードを添える。だいごのクラッシュシンバルが絶妙な音量で曲に輝きを持たせる。洋子のスネアが、決して主張しすぎず、しかし隠れすぎず、曲全体を支配し続ける。
鍵盤打楽器が、フルート群と共にトランペットを支える。そして、全ての土台となるベースが、常に前へ前へと音を刻む。忘れてはならないのが、陰で曲の勢いを保っている裏打ちのパートだ。
全ての楽器が、必要な仕事を任されている。決して出しゃばれば良いわけでもないし、遠慮してもいけない。必要なことを、必要なだけ。
そうすれば音は澄み渡り、この曲の持つ全てを表現できる。
全てを演奏し終え、その余韻が、講義堂を満たす。全ての音が消えたところで、丘が指揮棒を下げた。
そのまま、講義堂内の空気は張りつめている。見守る卒部生達も、誰一人声を出さず、真剣なまなざしのまま、微動だにしない。
丘が総譜を課題曲から自由曲に切り替える。部員も、同様だ。
そして、一人一人と、丘の目が合う。
頷き、丘が手を上げた。音葉がトランペットを構え、深く息を吸いこむ。
Gの音から始まる、静かで、厳かなソロ。郷愁や懐かしさをも感じさせるような、心を締め付ける音。力強さではなく、優しさ。
音葉の描くイメージは、そうか。
部屋の隅で聴きながら、月音は思った。
ソロのオーディションは、明日だと聞いている。それまで、順に担当しているというが、なるほど、音葉は、相当上手い。
施設に来るまでの道中で、逸乃から、今の部の現状については軽く聞いていた。
今のトランペットパートは、コウキをトップとし、その補佐には莉子ではなく音葉が主に入っているらしい。莉子はセカンドがメインで、心菜と華がセカンドの補佐。サードが万里とみかという布陣らしい。
万里は、高校生から始めた子ではあるが、高音域が苦手な子ではない。コウキと最も長く練習をしていた子だから、当然だろう。
それでも、自身の強みは他人を支える献身の心にあることを分かっていて、だからこそ、寄り添う演奏が求められるサードを自ら希望しているらしい。
みかは合唱の経験があるため、誰よりもハーモニーにおいて強みを見せている。だからこそ、ハーモニーを担当するサードを完璧なものにすることを、自身の仕事だと思っている。
あの二人がサードを選んだのは、自然な事だ。
だが意外なのは、莉子がファーストの補佐ではないことだった。
実力的には、充分可能なレベルだ。なのに、実際には音葉がその役目を担っていて、莉子は、課題曲でセカンド、自由曲でフリューゲルホルンを担当している。
確かに、音葉には非凡な才を感じる。一年生ながら、突出した腕前だと言えるだろう。
だが、それは華にも感じる部分だし、莉子だって、負けてはいない。それでも莉子がセカンドに納まっているのは、本人の遠慮しがちな性格のせいだろうか。
コウキは、以前から莉子の心配をしていた。
本来ならファーストを任されても良いだけの才能があるのに、海原中でずっとサードしかやらせてもらえなかった経験が、彼女の才を眠らせてしまっている、と。
その才能を開花させてやりたいと言っていたが、それは、今は上手くいっていないのかもしれない。
実際のところ、番手決めはパートで好き勝手にやって良いわけではない。誰がどのパートを担うかで、バンドの演奏に大きな影響を与えることもあるからだ。
特に、今回のコンクールの二曲は、トランペットパートが重要な役割を持っていることが聴いているだけで分かる。なおさら、最適な人員配置が求められるだろう。
莉子を目覚めさせるために、彼女をファーストの補佐に入れれば、音葉の突出した才を持てあますことになる。それに納得する部員が、どれだけいるか。
コウキの想いだけで、莉子を優遇することはできなかった、ということだろう。
いつの間にか、自由曲が終盤まで来ている。
コンクールに向けて、今は時間計測も兼ねた通し演奏の最中だった。十二分という決められた演奏時間の中に、課題曲と自由曲を収めなければならない。
しかし、課題曲の『ブライアンの休日』が三分十秒近くあり、楽譜のカットを施した自由曲の『GRシンフォニックセレクション』が八分三十秒以上ある。
演奏時間には曲間も含まれるから、全てを合わせて十二分以内にしようとすると、かなり際どい。
念入りに、そして正確に時間配分をしなければ、時間オーバーで失格となってしまう。
だからこそ、この時間計測は重要だ。
全てを演奏し終えて、計測役を任されていた摩耶が、ストップウォッチを止めた。
「どうでしたか、星野」
丘に問われた摩耶が、渋い顔をしながら、ストップウォッチを丘に見せた。
丘の表情が曇る。
「十二分、十秒」
時間オーバーだ。
「これが本番なら、失格ですね。すみませんでした」
丘が、小さく頭を下げた。
「要所要所で、曲に想いを載せすぎた結果、もたつかせてしまう部分があった。そういう積み重ねが、遅れに繋がってしまった」
丘が感じたというもたついた箇所が、指摘される。月音も、全く同じ箇所がもたついたと感じていた。
これが時間規定のあるコンクールでなければ、むしろ、これはもたつきではなく、音楽の表現の一つとして許容されただろう。
だが、時間配分がシビアなコンクールにおいては、ゆったりとした箇所をゆったりと吹けば吹くほど、時間が伸びていき、失格に繋がってしまう。
感情は乗せつつも、冷静に。
高度な技術が求められるのが、コンクールだ。
懐かしい、と月音は思った。
去年は、月音も、あの中にいたのだ。奏者の一人として、音楽と真剣に向き合っていた。
今まさに、部員達は、同じ経験をしているのだ。
「羨ましいな」
誰にも聞こえないような声で、月音は呟いていた。
丘の指示に返事をする部員達。そのやり取りを背に、月音は静かに講義堂を出た。
窓一つなかった講義堂から、太陽光の降り注ぐロビーに移ると、かなり眩しかった。目を細めて、外に目を向ける。
今日は、快晴だ。一面ガラス張りのせいで、直射日光がもろに入ってきている。
「月音ちゃんじゃん」
「おお、久しぶりだな」
U字の五人くらいは座れそうなソファに座っていた奏馬と正孝が、声をかけてきた。
「お久しぶりです、奏馬先輩。正孝も」
「来れたんだな」
「理絵と逸乃に、連れてこられた」
「ああ、なるほどな」
奏馬と正孝が、顔を見合わせて笑った。
「座れよ」
正孝に言われるまま、ソファに腰を下ろす。
「合奏、終わったのか?」
「ううん、通しが終わっただけ。多分、今から頭まで返してやると思うよ」
「そうか。間に合ったか?」
「十秒オーバー」
二人が、渋い顔をする。
「十秒は、かなりきついな」
「そうですね、奏馬先輩」
「一秒や二秒ならまだしも、な」
「まあ、丘先生ならどうにかすると思いますよ」
「そこは疑ってないけど」
コンクールまであと少しだが、まだ曲作りは納得の行く所まで進んでいないという。その曲作りと並行して、時間の調整も求められるとなると、かなり厳しいスケジュール管理が必要となるだろう。
今年の花田高のコンクールは、かなり困難な道のりのようだ。
「先輩と正孝は、今来たんですか?」
「いや、ちょっと前に」
「都先輩と岬先輩は?」
「一緒に来たけど、買い出しに行ってる」
「じゃあ、後で挨拶しよ」
一つ上の代の奏馬は、今は音楽大学に通っている。花田高生の頃から部内でトップクラスの実力を持っていたが、大学でも、ホルンで優れた成績を叩きだしているようだ。
同期の都と岬と、二人同時に付き合っているというのも、代が被っていた部員には知られている話であり、関係は、今も続いているらしい。
外野がとやかくいう事ではないし、都も岬も、三人での恋人関係を良しとしているという。それは、普通の恋愛の仕方ではないかもしれないが、奏馬という特別な男性を好きになると、そういう恋愛を覚悟する必要もあるのかもしれない。
「そういや、正孝はどうなんだよ、摩耶ちゃんと」
「あ、それ」
月音も気になっていたことだった。
在学中、月音の代でカップルといえば、正孝と摩耶だった。いつも一緒にいる光景が当たり前だったし、このまま結婚まで行くのではないかと、周りは思っていたくらい仲は良かったはずだ。
しかし、卒業間近になった頃から、二人が一緒にいる姿を、あまり見なくなった。
奏馬の問いかけに、正孝はちょっと沈んだ表情を見せた。
「あー、まあ、なんだろ。付き合ってはない、のかな」
「なんだ、その曖昧な回答は」
「いや、今も、二人で会ったりはしますよ。でも、別にデートするわけではないし、恋人らしいことも、しないです」
「なんでだよ。二人で会うなら、付き合ってるんだろ」
「いや……」
言葉を濁す正孝に、月音は奏馬と顔を見合わせた。
卒業してから、摩耶とはあまり連絡を取っていなかった。近況報告も、今日の夜しようという話になっていたくらいだから、事情は、全く知らない。
逸乃なら、知っているのだろうか。
「俺、摩耶と付き合ってるんですかね」
「……俺達に、聞くなよ」
ですよね。
うなだれた正孝に、月音も奏馬も、声をかけることができなかった。




