十四ノ四十七 「合宿一日目」
「ここが談話室。夜はここに集まって、就寝時間までだらだら話す人が多いかな」
ひなたが言った。
「広いですね」
「宿泊する人達が部屋以外で過ごせる、唯一の場所だからね」
今日から、コンクールに向けた合宿を二泊三日で行うために、山の方の施設に来ていた。
音葉は、宿泊の部屋がひなたと同じだ。八人の大部屋で、部屋長は幸。二年は他に莉子と心菜がいて、同期にはサックスの冬美、フルートのいろは、コントラバスのれんげがいる。
ひなたが同室なのは、ありがたかった。練習に関すること以外でそこそこ話すのは、華を除くと、ひなたぐらいなのだ。入学前から知り合っていたおかげで、ひなたは入学後も世話を焼いてくれている。
「ここが食堂」
大部屋に、長机がずらりと並んでいる。すでに良い匂いが漂ってきているが、昼食の調理が始まっているのだろうか。
朝は軽くしか食べてこなかったから、匂いで食欲が刺激されてしまう。
「ここのご飯は結構美味しいから、期待して良いよ」
「そうなんですね」
施設の一階の各場所を案内されながら、ロビーまで来た。講義堂は、奥に見える両開きの扉の向こうだ。
テーブルと椅子がいくつか並んでいて、すでに来ている卒部生達が、談笑している。今までに何度か部に姿を見せていた人もいるが、大半は、初めて見る。
「最初、どっちからやるの、音葉ちゃん?」
「『ブライアンの休日』からだって、コウキ先輩が言ってたと思います」
「そっか、頑張ってね」
「はい」
ひなたはコンクールメンバーではないから、講義堂の中には入ろうとしない。別に入ってはいけない決まりなど無いのだが、遠慮しているらしい。
そのことについて、音葉は触れないようにしていた。後輩でありながらメンバーになった音葉がかけられる言葉は、ないのだ。
扉を開けて講義堂へと入ると、そのままトランペットパートの席へ向かった。音葉は、中央から二番目の席だ。課題曲の『ブライアンの休日』も自由曲の『GRシンフォニックセレクション』も、コウキと共にファーストを担当するからである。
自分の席に座り、脇に置いてあったケースを持ち上げて、膝の上に置く。ケースを開けて、中のトランペットとマウスピースを取り出し、スタンドに立てた。
まだ部員は揃っておらず、半分くらいは不在だ。今のうちに音出しをしておく方が、自分の音を聞き取りやすいだろう。
ケースを脇に置いて、音葉はトランペットを構えた。息を吹き入れ、軽く、短い音を鳴らす。
「うん」
良い音だ。調子は、悪くない。この一週間、食事から睡眠まで、生活のあらゆる部分を気をつけてきたおかげだろう。
全ては、明日の合奏で行われるオーディションのためだ。最高のコンディションで、コウキ達に勝つ。そのために、今日まで全てを懸けてきた。
集中だ、と音葉は思った。
早めにこの部屋に慣れ、自分の能力の全てを出せるように調整する。万全の状態で、明日に臨むためにも。
いつものウォーミングアップを吹きはじめながら、音葉の意識は、トランペットの音色へと傾いていった。
コンクールのメンバーに選ばれなかった部員は、基礎合奏にも加わることが出来ない。
この合宿中は、ずっと、自主練だ。
疎外感。劣等感。悔しさに、自分への怒り。その全てと向き合いながら、次のオーディションのための、自分を磨く時間が続く。
苦痛な時間だ、とひなたは思った。
去年も経験したことだが、二度目でも、慣れるものではない。
ひまりの音に憧れ、ひまりのような音を奏でてみたいと思った。だから、周りに反対されても、オーボエを選んだ。それがどれほど苦しい道になるとしても、構わないと思った。
だが、実際は、想像の何倍も苦しかった。
吹いても吹いても、壁を超えられない苦しみ。後輩の来美にすら追いつけない、焦り。周りの初心者がどんどん成長していく中、自分だけが止まっているのではないかという、恐怖。
それらに負けそうになる自分を、常に奮い立たせ続けなければならない。
それが出来なくなったら、ひなたは、オーボエを愛せなくなる。
だから、いつも必死にやってきた。ただひたすら、オーボエが上手くなることだけを目指して、それ以外のことは考えないようにしてきた。
それでも。
それでも、なのだ。
合宿所の本棟は二階建てになっていて、二階には小さな会議室がいくつかある。この二泊三日は、そこも全て花田高が借りていて、メンバー外の部員の練習場所になっている。
ひなたは、ロビーにある階段を上がってすぐの、第一会議室を使っていた。
中にいるのは、フルートの同期のかおると、ファゴットの一年の真弓、コントラバスのれんげだ。
真弓とれんげは、すでに数年上の代の卒部生が来てくれていて、つきっきりで練習を見てもらっている。
ひなたとかおるは、まだだった。
誰が来るのか、星子と佐奈から聞かされていない。ただ、午前中には来てもらえるから楽しみにしていろ、と言われていた。
去年は、四年上の代の先輩が見てくれた。かなり怖い人で、現役時代は、ひまりとも仲が悪かったという人だ。上手い人ではあったが、怖い、という印象の方が強かった。
名前を教えてもらえないということは、今回はあの人ではないのだろう。もっと上の代の人、だろうか。
「ねえ、誰が来ると思う、ひなた」
少し離れた場所で吹いていたかおるが、傍に寄ってきて言った。
「んー、誰だろう。多分、会った事ない人なんじゃないかなぁ」
「だよねぇ。あーあ、また怖い人じゃないと良いなぁ」
「ねー」
かおるも去年、メンバー外だった。そして、ひなたと同じく、四年上の代の人が指導役だった。
噂でしか知らないが、四年上の代は、ひまりの代やその一つ上の代と、かなり仲が悪かったらしい。ひまりの代の人数が少なかったのは、その四年上との軋轢が原因で、大量に退部したからだという。
確かに、四年上の代の先輩の中には、部のことについて口出しをする人もいて、圧の強さを感じる。コウキや智美は、それを軽くかわしているようだが、ひなたも、余り良い感情は抱けていない。
押し付けられているという感覚が、拭えないのだ。
部の事は、現役に任せて欲しい。
「私達、上手くなれるのかなぁ」
かおるが、ぽつりと呟いた。
その声は、小さい。多分、マンツーマンの指導が始まっている真弓やれんげに、聞こえないようにするためだろう。
自然と、ひなたも声を落としていた。
「なれるよ。なれるって信じてなきゃ、やってられないよ」
「……うん、そうだよねぇ」
「私達だって、去年よりは上手くなってるはずだよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。出来ないことが、沢山できるようになったんだもん」
自分に言い聞かせるように、かおるを励ます。
かおるの言葉は、まさに、ひなた自身が感じていることだ。そうじゃない、そんなはずはない、と自分に言い続けなければ、挫折してしまいそうになる。今していることは全て無駄なのではないかと、諦めそうになる。
「ひなたは、部活、楽しい?」
「え」
「こうやって仲間外れにされて、今年もまた一人で練習してさ。ひなたは……楽しい?」
「かおる」
「私はねぇ、楽しくないかなぁ」
いつもと同じ、ふわふわとした口調。しかし、今のかおるからは、いつものような穏やかさは感じない。口調は同じでも、全身から、無力感のようなものを、漂わせている。
絵里は、かおるのことをゆるふわ系などと評しているが、確かにそうだと思う。いつでもふわふわとしていて、緩い雰囲気を纏っているし、穏やかな性格で、怒ったところを見たこともない。
そのかおるでも、二年連続のメンバー外は、心にくるのだろう。
「皆と、合奏したいよ」
その呟きは、多分、メンバー外となった全員が抱いている想いだ。
「またそうなれるように、練習しよ」
ひなたは、言った。
「……ひなたは、前向きだねぇ」
「だって、前を見てないと、その想いは絶対に叶わないんだもん」
かおるが、へらりと笑った。
「そうだねぇ」
不意に、第一会議室の扉が開けられた。僅かに開いた隙間から、星子が顔を覗かせた。
「あ、いたいた」
ひなたとかおるを見定めて、扉を大きく開く。中に入って来た星子に続いて、二人、入室してくる。
「ああ!?」
その二人の顔を見た瞬間、ひなたはかおる共に、叫んでいた。
「ひまり先輩!」
「牧絵せんぱーい!」
慌てて、三人の所へ駆け寄った。
「久しぶり~、二人とも」
「元気そう」
数ヶ月ぶりに見る、ひまりと牧絵である。二人とも、私服姿だ。なんだか、少し化粧が濃い気がする。でも、数ヶ月前と変わらない表情の二人が、目の前にいる。
このタイミングで、二人が来たということは、まさか。
「チロちゃん、かおるちゃん、今日から、先輩達がマンツーマン指導してくれるから」
星子の言葉に、かおると顔を見合わせた。
ひまりに。牧絵に。
最高じゃないか。
二人とも、互いの考えていることが分かった。
ひなたがひまりを目標としていたように、かおるも牧絵のことを目標にしていた。一番教わりたい人が、つきっきりで見てくれる。こんなに最高の時間は、ない。
次の瞬間には、揃って、頭を下げていた。
「よろしくお願いします!!」
「二人とも、寂しい想いさせてごめんね。でも、先輩達が最後までいてくれるから、頑張って」
「星子先輩、ありがとうございます!」
「じゃあ、私は合奏に戻ります」
「ん、頑張ってね、星子ちゃん」
「チロちゃんをお願いします、ひまり先輩」
「任せて」
頭を下げて、星子が第一会議室を出て行った。
こちらに向きなおったひまりが、微笑んだ。
「じゃあ、早速やろっか、ひなたちゃん」
「はい!」
「かおるちゃんもね」
「はい、牧絵先輩!」
数十秒前の暗い雰囲気など消し飛んで、今は、ひなたもかおるも、気分が高揚していた。
「三日間、しごくよ」
ひまりの言葉が嬉しくて嬉しくて、ひなたはたまらず、大きく返事をしていた。




