十四ノ四十六 「山口月音 五」
敷地の境界を出たところで自転車を止め、丘の方を振り返る。
「もう大丈夫ですか、中村」
丘の問いかけに、智美は泣きはらした目を細め、笑った。
丘に励まされた後も、随分長く話し込んでしまった。帰り支度を始めた頃には、時間は九時前だった。
「はい、丘先生。ありがとうございました、こんな時間まで」
「こちらこそ、引き留めてしまいました。補導されないよう、気をつけてください」
その言葉に、思わず、くすりとした。
「何がおかしいのです?」
「いえ、丘先生の口から、そんな言葉を聞くなんて、と」
「真面目に言っているのですよ。あなたが補導されたら、部が困る」
智美は、頷いた。
「分かってます、丘先生。私、花田高吹奏楽部の、部長ですから」
丘も、頷いていた。
「頼みましたよ、部長」
「はい。おやすみなさい、丘先生」
「おやすみなさい。気をつけて」
「ありがとうございました」
頭を下げ、自転車に跨った。もう一度礼をして、走り出す。
夜の生ぬるい風が、いつもなら肌にまとわりついて嫌なのに、今日は、全く不快じゃないな、と智美は思った。
田んぼ道で合唱をする蛙の声すらも、今は、心地良い。
丘とは、沢山話した。学生時代の話や、進藤の話も聞いたし、歴代の部長の話も聞いた。これから先のことも、顧問と部長として、腹を割って話し合えた。
「コウキ、起きてるかな」
帰ったら、コウキと電話がしたい、と智美は思った。
今までの事を、謝りたい。周りが見えなくなっていたことも、自信を失っていたことも、コウキの言葉を聞けていなかったことも。
丘と話し合ったように、コウキとも話し合いたい。
部長と学生指導者として。親友として。
それから、夕や、美喜や、勇一とも話したい。
明日から、合宿だ。そこには、摩耶と晴子も来る。あの二人とも、話したい。
丘の家に来るまでに抱えていた暗く淀んだ想いは、まるで霧のようにかすんで消え、今は、胸の奥にあたたかなものが広がっている。
心が弾むとは、こういう状態を言うのかもしれない。
夜空を見上げると、無数の星が、きらきらと輝きを放っている。
綺麗だ、と智美は思った。
そんな何気ない景色すらも、随分長い間、目に入らなくなっていたらしい。
まるで、生まれ変わったような気分だ。
世界が、まるで違って見える。
繰り返されるインターホンの呼び出し音に、強制的に意識を覚醒させられた。
自室の白い天井が、カーテン越しの薄明りのおかげで、はっきりと見える。
朝、か。
タイマー設定してあった冷房が止まっているせいで、部屋の中が少し蒸し暑い。
なおも続く不快な呼び出し音に、月音は呻いた。
「誰……?」
携帯を見ると、時刻は九時である。土曜日の朝早くに、一体何の用だ。
呼び出し音が止まらないということは、両親は、家にいないのだろう。
重い身体を起こし、自室を出て、インターホンの前まで行く。
「……はい」
「おはようございます、古谷です」
「逸乃……?」
「あ、月音? 寝てたの?」
「うん……なんでうちに?」
「とりあえず家、あげてよ」
「……待って」
玄関へ向かい、鍵を回す。眠い目をこすりながら扉を開くと、眩しい光が飛び込んできた。
「おはよ、月音」
「……うん」
「お邪魔します」
逸乃が、中へ入ってくる。
「ご両親は?」
「いない」
「あそ。はい、起きて起きて。もう行かなきゃ」
「どこに?」
「吹部の合宿」
「ああ……今日か」
「今日か、って、一昨日教えたでしょ」
「いや、行かないって言ったじゃん」
「何言ってんの」
靴を脱いだ逸乃を居間に案内し、二人で、食卓用の椅子に腰を下ろした。
「何、行かない理由は、コウキ君がいるから?」
「そう」
「それは、気にしなくて良いって言ったじゃん」
「そうもいかないでしょ」
「なんで?」
「だって、他の子が何て思うか」
「何も思わないって!」
「分かんないでしょ」
「もう、強情だなぁ」
「私は良いから、逸乃だけ行ってきなよ」
「駄目。皆にも、連れてこいって言われてるもん」
「皆って、誰よ」
「トランペットの皆とか、摩耶とか」
「……そう言われましても」
「なーに。皆に会いたくないの?」
「会いたいけど」
会いたくないわけがない。
ほんの数ヶ月前までは、沢山の友人と仲間に囲まれて、毎日が輝いていたのだ。十八年の中で、最も満ち足りた日々だった。
今は、惰性で仕事をこなし、職場と家を往復するだけの日々を過ごしている。充実感もやりがいも、何もない。ただ空しくて、高校のことを思いだしてばかりの日々。
皆に会いたいと思わなかった日は、一日たりともない。
「じゃあ行くよ」
「だからぁ!」
しつこい逸乃にキレようとしたところで、インターホンの呼び出し音が鳴った。
「もう、誰!?」
逸乃だけならまだしも、次から次に、鬱陶しい。
テーブルを叩いて立ち上がり、画面の前まで行く。しかし、そこに映る人物の姿に、月音は目を見開いた。
「え!?」
「何、誰が来たの」
「理絵!」
「嘘!」
逸乃が立ち上がって、駆け寄ってくる。
慌てて、通話ボタンを押した。
「理絵? 理絵なの?」
「え、あ、その声、月音? 久しぶり」
「ちょ、待ってて、すぐ行く」
「うん」
玄関まで駆けて、勢いよく、扉を開けた。
見慣れた風景の、マンションの廊下。そこに、本来いるはずのない人の姿。
「やっほー、月音」
「……理絵」
「久しぶり」
微笑む理絵が、目の前にいる。
「おーっす、理絵」
後ろから声がして、理絵が目を見開いた。
「逸乃? なんで?」
「月音を迎えに来た」
「なーんだ、一緒か」
「てことは、理絵も?」
「うん。月音のことだから、放っておくと来ないかもと思って」
「だよねー」
理絵が、こちらを見る。
「月音、頭ぼさぼさじゃん」
「寝起き、だもん」
「社会人になって、朝弱くなった?」
「休日だけだし……とりあえず、入って」
「お邪魔します」
くすくすと笑う理絵を家に上げ、三人で、居間のテーブルを囲んだ。
「逸乃は変わんないね。でも、ちょっとギャルっぽくなった」
「分かる? 化粧の勉強始めたんだ」
「気づいたよ。でも、しない方が逸乃は可愛いけどね」
「え~マジ?」
「ギャルみたいな感じは、逸乃には似合わないよ」
「可愛いと思うんだけど……」
「可愛いとは思うよ」
「ならさぁ」
「二人とも、そんな話より」
「そんな話って何よ、月音」
逸乃の言葉を無視して、月音は続けた。
「逸乃にはさっきも言ったけど、私は合宿に行くつもりはないよ。二人とも来てくれたのは嬉しいけど、部に迷惑はかけられない。もうすぐコンクールなのに、私が現れることで嫌な気持ちになる現役も、いるかもしれないもん」
「まあ、月音ならそう言うと思ってた」
「なら……」
「それでも、連れて行きたい」
「なんで、理絵? 私は行かないって言ってるじゃん」
「月音がそういう考えになっちゃったのは、私達リーダーのせいだと思うから」
理絵が、神妙な顔つきで、月音を見てくる。
「……何、急に」
「私はあの時、私達リーダーが、月音とコウキ君の仲を裂いてしまったと思ってる。部のことを考えろって、二人にだけ責任を求めて。本来は、誰と誰が付き合っていようと、他人には関係無いことなのに……定演が近いこともあって、冷静に判断することができなくなっていて、短絡的に答えを出しちゃった。部の雰囲気が悪くなってきたのは、月音とコウキ君のせいだ、って」
「理絵達は、間違ってなかったよ。私とコウキ君もそう思ったから、別れることが一番だと思ったんだもん」
「でも、二人だけのせいじゃなかった」
「もう良いよ、その話は」
「良くないよ」
被せるように言われて、月音は、言葉に詰まった。
理絵は、真っすぐにこちらを見ている。
「あの時は、確かにあれが正解だと思った。だけど、時間が経ってから考えてみたら、私達がした行動は、間違ってたと気づいた。部の問題を、二人だけに押し付けるべきじゃなかった」
「私が軽率だったからああなった。私自身が、そう思ってる」
「私や摩耶は、もっと早い段階で月音と問題について話す事も出来たはずだし、勇一君や正孝も、コウキ君に言えたはず。そして、リーダー全員が、幸ちゃんと向きあえたはずだった」
幸の名を聞いて、月音は思わず顔をしかめた。あまり、聞きたくない名だった。
元々、コウキと月音の交際関係が問題視されたのは、その事実を知った幸が、放心状態の日々が続いていたからだった。コウキも月音も、分かっていて、どうもしなかった。無視していたのではなく、当事者の二人に何を言われても、幸は余計に苦しくなるだろうと思ったから、動けなかったのだ。
だが、それで合奏にまで影響が出て、問題が大きくなった。
幸が原因だった、などとは考えていない。幸のことはきっかけに過ぎず、全ては、月音がタイミングを考えず、自分の想いを優先してコウキを誘惑したことで起きた。
そう考えてはいても、幸に対して何も思わずにいられるほど、月音は大人ではない。
「月音の気持ちも、コウキ君の気持ちも、幸ちゃんの気持ちも、分かってた。分かってたから、リーダーは誰も、ちゃんと声をかけられなかった。それで、ああなった。二人だけの問題じゃなかった。私達も、間違ってたの」
「……終わった事じゃん」
「月音の中では、まだ終わってないでしょ」
否定するべきなのに、その言葉に、何も言い返せない。
「あの時、私が月音に怒ったよね」
コウキと別れることを決めた日。
理絵に、リーダーとしての責任を放棄するなと叱られた。自分のしたことを思い返せ、と。あの時、同じ時間に、コウキは勇一と話していたらしい。
理絵に言われたことは、何も恨んでなどいない。むしろ、理絵に言われたから、月音は、事の重大さに真剣に目を向けられるようになった。
「今更、間違ってたなんて言葉で済むとは思ってない。でも……私は、あの時月音を叱った事、後悔してる。どうしてあんなことをしちゃったんだろう、他にやり方はなかったのか……幸せそうにしてた二人の仲を割く必要は、あったのか……って。
今日まで、ずっと心にひっかかってた。私達が月音とコウキ君にしたことは、最低なことだったんじゃないか、って。
だから、勝手な事かもしれないけど、月音を、合宿に連れて行ってあげたいって思った。コウキ君と会わせたいって思った。こんなこと、月音にとっては迷惑かもしれない。けど……せめて、月音がただの卒部生の一人として、部に気軽に顔を出せるようにはしてあげたい。部員に遠慮して、部から距離を取るような、そんなことを、させたくないって」
「私は……気にしてないって。別に、部に行けなくても困らないし」
「でも、後輩達は、会いたがってる。今のリーダー達も、皆、月音に来てほしいと思ってるんだよ。一人の先輩として顔を見せて欲しい、月音を連れてきてほしいって、皆言ってる」
「私も、後輩から頼まれたんだよね」
「逸乃も?」
「うん。月音は、後輩達に凄く好かれてたじゃん。月音とコウキ君に色々あったとしても、純粋に先輩と後輩として、また会いたいって思ってる子達は、意外に多いんだよ。その子達は皆、月音のことを心配してる。あの事があったから、顔を出すのを遠慮してるんじゃないかって。でも、そんなの気にしなくて良いから、部に来てほしいって。
今、理絵が言ったみたいに、別れるまでしなくても良かったんじゃないかって思ってた部員は、結構いたと思う」
「でも」
「コウキ君は、今はきちんとリーダーとして、部員全員の信頼を取り戻してる。月音が顔を出したくらいで信頼を失うような、駄目なリーダーじゃないよ。それは、月音も分かるでしょ」
それは勿論だ、と月音は思った。あのコウキなら、立派にリーダーとしてやっているだろう。見ていなくても、簡単に想像がつく。
「行こうよ、月音」
理絵が言った。
「行ってみて、やっぱり辛かったり、嫌だって思ったら、帰ろう。でも、行かずに終わらせるよりは、ずっと良いよ。新しくなった部を、一緒に見に行こうよ」
「そうそう。てか、うんって言うまで、私も理絵も帰らないから。ね、理絵?」
「うん」
「ほぼ……強制じゃん、それ」
「そうしてでも、連れて行きたいってこと」
思わず、苦笑していた。
卒部してから、二人とじっくりと話すのは久々だ。部に対していつも真摯に向き合っていた理絵と、トップ奏者としての姿を周りに見せ続けていた逸乃。
月音が喫煙騒動で退部させられた時、真っ先に真相を聞きに来て、引き留めようとしてくれたのも、この二人だった。
共に過ごすことはなくなっても、二人の中身は、あの頃のままだ。
二人にこれほど言われたら、行くしかないか。
そんな気に、なっていた。部員にどう思われるかは分からないが、月音に来てほしいと思っている子達がいるのなら、少しだけでも、会おう。最悪、理絵の言う通り、それで終わらせればいい。
「……分かったよ」
絞り出した月音の言葉に、理絵と逸乃の顔が、輝いた。




